グランギニョールの倫理(五)

 びちゃり……びちゃり……。


 瀧川たきがわの後ろ姿に近づいていくと、嫌な足音があたりに響いてしまう。どれだけ気を付けたところでコハルの音まで消せはしないのだ。ちょうど校門を通り抜けたあたりで向こうも音に気付いたらしく、ひらりと舞うように傘が振り返った。

 その中には頭がなく……なんて嫌な想像は僕の頭の片隅を一瞬かすめただけで、実際には不機嫌な細い目が二つ並んでいた。眼光は蛇を彷彿とさせる鋭さで、睨まれたカエルでもあるまいに、僕らはまだ彼女から十歩くらいの距離を残して足を止めてしまう。


 だけど次の瞬間、瀧川は逆に緊張を解いたように口元を緩めて、


「あら、お似合いの二人ね」


 なんて声をかけてきた。この激しい雨の中でもはっきりと耳まで届くその声は、きちんと調律のほどこされたピアノの音色のように澄み渡っていたのだけど、本心は全くわからず、返す言葉に困った。


「アァー……」


 代わりに返事をしたコハルの姿を目の当たりにしても、瀧川は気味悪がる様子もなく傘の中でくすくすと笑っている。


「ねえ緑川みどりかわ君、ここは本当に不思議なところね。枠だけがそのままで、中身が入れ替わってしまった世界のよう。学校だってほら、こんなに不気味な風体で、いったいここで何を教えようというのかしらね。ふふ、緑川君はここへ何を教わりにきたのかしら」


 この異常事態を楽しむように話す彼女は、暗にこの事態のことを知っているとほのめかしているようにも見えた。どこか計り知れない。下手な取りつくろいは逆効果な気がした。


「助けて……ほしいんだ」

「助ける?」

「コハルを、元に戻したい」


 そう言った途端、あはははは、と甲高い笑い声が響いて、傘が縦に揺れた。


「あなた、本当に面白いわ」

「どうなんだよ、できるのか?」

「できるかもね、王子様のキスで。もう試してみたかしら?」

「おい、僕は本気で――」


 思わず声を荒げかけた僕を制すように、すっと静かに瀧川が校舎を指さした。


「授業は教室でね。それに、お姫様を雨に濡らしたままというのもね」


 つられて指先の向こうに目を向けると、校舎の前では変わらず創設者の銅像が天を指さし、その後ろで窓ガラスが割られてテーピングが施されたままの教室が残っていた。その窓の穴を見つめていると、なんだか吸い寄せられるような気分になってきて、


「ぐう……」


 再び頭痛に襲われた。

 なんだ、また既視感デジャヴが……?


「ふふ、どうかした?」

「あ、いや……瀧川こそどうしてここに?」


 すでに頭には沢山の疑問が湧いている。その中の一つを咄嗟に摘み上げてみると、瀧川はすでに教室に向かって歩き始めていた。慌てて後を追うと、まっすぐ伸びた背中が語りだす。


「私も、あなたと一緒で警察署にいたのよ」


 そういえば確かにダイチが瀧川のことを呼んでいた。


「ずっと待ちぼうけで、だから家に帰ったの。でもその途中で世界がこんな風に変わってしまって、誰もいないし、連絡も取れないし、学校で誰かに会えないかって。考えることは同じね」


 ようやく割れた窓の前までたどり着くと、


「じゃあお願い」


 と言って瀧川は僕を招くように手を動かした。

 要はここから中に入ろうということらしい。

 テーピングを避けて、窓の割れたところから手を入れて鍵を開ける。窓枠が微妙にひしゃげていたけれど、そのまま内側から引くように力を入れると、きしむような音を立てて少しだけ隙間が空いた。そこに両手の指をねじ込んで一気にずり動かす。


「ふふ、男子は違うわね」


 空いた窓は腰くらいの高さだったけれど、瀧川はすぐさま傘をたたんで、長身には似合わない軽やかさでそこを乗り越えていった。

 問題はコハルだったが、膝裏と首を抱きかかえるようにして内側に運んであげると意外にもすんなりと従ってくれた。お姫様だっこのような形になって重みをずしりと両腕で感じたけれど、口に出すのはやめておいた。コハルが覚えていたら、いつか怒られるかもしれないから。

 最後に僕が教室に入ると、瀧川は散らかった中央の机に腰かけて僕らの様子を見ながらくすくすと笑っていた。


「怖がらないんだな」


 瀧川と会って一番の違和感かもしれない。湿った靴を脱ぎながらそれを素直にぶつけてみる。


「その子を? それとも、あなたを?」

「両方。知ってるだろ。僕は今、連続殺人犯として疑われている」

「実際に殺したの?」

「いいや、違う。僕じゃない。だけど、僕の周りで次々と人が死んでるのも事実だ。僕が何かの発端トリガーになってるかもしれないし、ひょっとしたらコハルが……」


 そこから先は言葉にするのははばかられた。何も証拠がないうちからコハルのことを疑いたくはなかった。僕はコハルを守ると決めたのだから。


「私はね、もういつ死んでもいいの」


 いきなり瀧川はそんな退廃的な言葉を口にした。降りしきる雨音の中で、その声は叙情的な旋律のように悲しく教室内に響いた。何もかもを諦めたような瞳が僕を見ている。


「だから怖くないわ」


 半分理解しかけて、半分はそんなのは無理だと感じられた。僕らの死への恐怖はそれこそ遺伝子レベルで身体に染み付いているものなんじゃないのか。それをそんな諦めで脱皮するように簡単に捨てられるとは思えなかった。これは怖がりな僕の負け惜しみなのだろうか。


「緑川君は怖いのね」


 見透かしたように瀧川が言い当てる。


「自分が死ぬことだけじゃない。周りの人が死ぬことも、そして自分や近しい人が他人を殺めてしまっているかもしれないことも」

「……ああそうだ、怖いよ。当たり前だろ」

「ふふ、正直ね。じゃあ試してみる?」


 まるで妖しく誘うような瀧川の視線。わずかに吊り上がった口元でチロリと舌が躍ったように見えた。


「試すって……何を?」


 鼓動が高鳴る。単なる嫌悪や恐怖じゃない。背徳的で蠱惑的こわくてきな熱に僕は浮かされているのかもしれなかった。


「私を殺せるかどうか」

「じょっ――」

「冗談なんかじゃないわ。本気よ。あなたが人殺しかどうか、確かめてみればいいじゃない」


 楽しくてたまらないと、瀧川は満面の笑みを浮かべていた。どうしてそんな顔ができるのか、僕には全く理解ができなかった。


「ほら、そのかいなで私の首を刈り取ってみせてよ。それとも答えを知ることさえ怖いのかしら?」

「そ、そういうわけじゃない。でも……」

「でも?」

「できるわけないだろ? 殺せるか殺せないかじゃない。殺そうとすることそのものが悪じゃないか。僕はそれには染まらない」


 そうだ。僕はさっき警察署で誰も殺さないと誓ったばかりだ。

 だけどそれを聞いて瀧川は、あはははは、とまた大きな声をあげて笑うのだ。いったい何が面白いというのだろう。たっぷり十秒は笑い続けて、ようやく一つ大きく息を吸い込んだ後、瀧川はこんなことをいてきた。


「ねえ緑川君、どうして人を殺しちゃいけないのかしら?」


 それはあまりにも原始的な質問だった。殺人は悪、その普遍的な概念への反逆に、僕の頭には一瞬何の答えも浮かんでこなかった。


「だって……そんなの決まりきってることだろ」

「あら、そうかしら。長い歴史の中で人間は幾度となく人を殺めてきたわ。時にそれは英雄としてたたえられる行動だったほどに」

「だとしても、今は法律で禁じられているじゃないか」

「ふふ、逆でしょう緑川君。法律で決まっている、は結果であって理由ではないわ」


 でも、人を殺しても良し、としてしまったら社会が成り立たなくなるだろ。だから僕らは殺人を悪として……、あ、いや、待て。善悪の基準って社会が成り立つかどうかでいいのか? それならどんなディストピアだって認められてしまうことになる。


「ねえ緑川君、例えば子供を本能的に守る種族と、子供をないがしろにしてしまう種族の二つがいたとして、存続しやすいのはどちらかしら」

「そりゃ……子供を守るほうだろ」

「ふふ、そうよね。それじゃあ今、人間でも一般的には親が子供を大切にするものだし、そうすることが善とされているけれど、本当にそれが善だからそうするようになったのかしら。それとも逆で、たまたま遺伝子でそういう性質を持つようになって、それを善と信じるように設計された人達だけが、この世に残り続けてきたのかしら」

「……何が言いたいんだ」


 瀧川は、ふふ、とまた蠱惑的に笑って、


「緑川君、善悪なんてものは、人を殺したら悪だなんて考えは幻想よ。たまたま人を殺してはいけないと信じる習性を備えた集団が確率論的に生き残ってきただけだわ。それが今、遺伝子レベルで皆の思考に染み付いている。でも、そんなゼロイチの帰納的なプロセスで残った善悪基準にどこまでの意味があるというのかしら。ほら、外を見てよ。今、世界は変わってしまったわ。現世の法律ではきっと今の私達を裁けない。物事にいつか終わりがくるように、善悪の定義も時と場合で揺れ動く。現世には現世の、恐怖劇グランギニョールには恐怖劇グランギニョールの倫理があるものなのよ」


 瀧川の口調には固い信念のようなものが込められている。蛇が腐ったリンゴを食べろと僕に勧めているようだ。僕はそれを迎合するでもなく、ただただその不気味さに圧倒されていた。だけど、


「緑川君だって本心では喜んでいたんじゃないかしら。皆が殺された時」


 ぐさりと核心に刃を突き立てられたような気がした。正真正銘の潔白を証明できたわけじゃない。

 僕に悪態をついた名取なとり

 僕の鳩尾みぞおちに正拳を見舞った油屋あぶらや

 僕をあざ笑った後藤ごとう

 どれも死に際に、僕の心の中の悪魔が歓喜の声を上げていたのかもしれない。そうじゃないと僕は言い切れるのか?

 そして瀧川、君はどこまで僕のことを知っているんだ?


「ふふ、まだ抵抗があるかしらね。じゃあこういうのはどうかしら」


 瀧川はどこか上気したように頬を赤らめて、まるで夜伽よとぎでも始めるかのようにささやいた。善悪がぐるぐると撹拌かくはんされて混乱しかけた僕の頭には、続く言葉はもはや猛毒だった。


「例の連続殺人事件、その犯人は……私よ」

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