グランギニョールの倫理(四)

「明日なんて来なければいいのに」


 胸の内を取り出して、限界まで精錬して不純物を取り除いたら、そんなちっぽけな言葉だけが残るのだった。振り返ればこれまで何度となくこういったことを口にしてきたようにも思う。もっとも、その願いが叶ったことは一度としてないのだけれど。


 でもまた、そう願わざるを得ないのだ。時間の経過とともに状況は間違いなく悪化の一途をたどっている。後藤ごとうが死んだというのに空が元通りにならない。そのうちまた戻るのかもしれないが、少なくとも徐々に変異の時間が長くなってきている。

 いったいどこが一連の怪異の終着点なんだろうか。まるでわからない。ここら一帯、いや、この世界の全ての人間を殺し尽くすまで続く可能性だって誰が否定できるっていうんだろう。この空と同じだ。どれだけ目を凝らしてみても、明るい兆しは見えてこない。まるで世界の終わりを迎えているような……。


「なあカズハ、君が言っていたのはこういうことなのか?」


 上空に浮かぶ赤と黒の渦巻き模様に、そう問いかけてみる。答えをくれる彼女はここにはいない。ふとスマホをポケットから取り出そうとして、そういえば学校で油屋あぶらやに奪われたままだった、と今更ながらに気付いて途方に暮れた。……どのみち今この状況では使い物にはならないけれど。


「アァー……」


 代わりに聞こえるのはコハルが吐き出すうめき声だけだ。僕の前でさっきからコハルはこればっかりだ。僕を襲うでもなく、避けるでもなく、備え付けのラジカセが壊れた案山子かかしのように交差点の真ん中で突っ立っている。

 どうしてコハルはこうなってしまったんだろうか。ポニーテールを揺らして、さんさんと太陽のように輝く笑顔が、今は泥人形をこねくり回したような醜さだ。


「コハル、元に戻ってくれよぉ……」


 どうしていいかわからず、それでもコハルを助けたくて、コハルに助けてほしくて、その両手を取ってきつく握りしめた。そして祈る。いや、正確に言えばすがっているのだ。

 孤独が押し寄せてきている。誰にも寄り添えないという孤独感。そのすさまじい質量でせきは決壊してしまうのだ。両膝は濡れたアスファルトに崩れ落ち、目と鼻と口から弱さが溢れて止まらない。


「もうダメなんだよ、コハル。限界なんだ。未来なんか要らないからさぁ、一緒にあの頃に戻ろうよ。コハルも、カズハもガクも、父さんと母さんも、小稲瀬こいなせのみんながいたあの頃にさぁ。それでまた笑顔を見せてくれよ。辛いよ、寂しいよ、コハルの笑顔がないと僕はダメなんだよ。緑に囲まれたあの場所でみんな笑いあってさぁ。こんなのもう沢山なんだ。ううぅ、コハル、どうして…………」


 嗚咽おえつが漏れてそれ以上声にならない。他に人がいないと思うと、弱音は数珠繋ぎになってとめどなく流れ出てきた。自分でも思う以上に五臓六腑に詰め込まれていたらしい。このまま世界が終わるなら、その終わりまでこうしていられそうだった。だけど、




「ユ……ウ……君……」




 不意に名前を呼ぶ声が真上から聞こえたような気がして、すぐさまコハルの顔を見上げた。


「アアアァー……」


 そこでは変わらず呻き声が発せられている。一瞬の聞き違いか、あるいは偶然似た音が出ただけなのか。でも、それで思い知らされる。


 コハルこそ僕以上に助けを必要としているじゃないか。


 このまま怪異が続いたらコハルはどうなる? ずっとこのままか? そんなのは駄目だ。

 今ここで二人きり。コハルを助けられるのは僕だけなんじゃないか?

 だから僕だけが辛いとか寂しいとか嘆くのはもうやめだ。そうだ、ユウ、勇気をふり絞れ。コハルに戻ってほしい、じゃない。僕が怪異の原因を突き止めて、解決して、そしてコハルの笑顔を取り戻すんだ。ついでに自分の無罪も証明しよう。それで最後にはとびきりの笑顔でねぎらってもらうんだ。


「ぐずっ……」


 雨とも鼻水ともつかない口元の汚れを手の甲でぬぐって立ち上がり、まっすぐコハルの目を見据える。今はその両目とも僕を見てくれてはいない。だけど、


「大丈夫だ」


 断言する。自分にも言い聞かせるように。もちろん何の根拠だってない。でもその一言で、心の内には不思議な高揚感が広がっていく。


「コハルは僕が守ってやるからな」


 続けてそう言い切ると、目の前で真っ赤に充血した目尻がほんのわずかに緩んだような気がした。

 今はそれで十分だ。だから、しっかり笑顔を溜めこんでおいてくれよ。元に戻った時のために。


 握った手をぐっと引いて歩き出す。僕らの腕が横一線に伸びて、予想した以上に重みを感じた。コハルがちゃんとついて来てくれるのを確認しながら、徐々に歩みのペースを速めていく。どこかその手の感触に不思議と懐かしさを感じて心が跳ねた。ここ三日ほどの間で、初めて僕は前向きな気持ちになっているのかもしれなかった。







「……でも、どうすれば元に戻ってくれるんだろう」


 しばらく赤い水溜まりだらけの道路を歩いていって、ふと冷静にその疑問に立ち戻る。


「アァー……」


 コハルはずっとこの調子だ。おかげでその答えは見当もつかない。


 でも、だからといってあのまま二人で交差点で雨に打たれ続けているわけにもいかないだろう。身体が冷えてきた気がするのは決して冷静になったからだけじゃない。この雨風をしのぐことも考えないと。


「だからって警察署に戻るのはナシだよな……」


 ただでさえ拳銃を突き付けられるような目にあったっていうのに、こんな状態のコハルを連れて行ったら大混乱になるのは目に見えていた。


「病院にでも行ってみるか?」


 先日運び込まれた病院も選択肢の内にはあった。だけど医者がいるとは限らないし、診断に使うだろう電子機器は動かないし、なによりコハルの状態は現代医学でどうこうできるような気がしない。


「それとも少し離れてるけど、川沿いのショッピングモールにでも行ってみようか。あそこならお店もたくさん揃ってるし、解決につながりそうな何かが見つかるかも。それにほら、こないだ行ったクレープ屋とか美味しかったのを覚えて――」

「アァー……」


 余計なことまでベラベラしゃべっていると、コハルにたしなめられてしまった。わかってはいるのだけど、この異様な景色のもとでは沈黙のままではいられない。

 やはり怖いのだ。時折風が周囲の木々をざわめかせて不気味な音を立て始めると、思わず立ちすくんでしまいそうになる。

 実際、皆を殺したのが何かはまだわかっていない。それが突然木々の裏から、交差点の角から、あるいは背後から、いきなり現れて僕らに襲い掛かっても不思議じゃないのだ。だからこうやってしゃべりながら格好だけでも平静を装っておかないと、とてもじゃないが心が耐えられそうになかった。


「まあ、でもやっぱり距離があると厳しいかな。風邪ひいちゃいそうだし……。だとすると、やっぱりここなのかなあ……」


 ある意味で最初から行く先は自分の中で決まっていたとも言える。だからずっとこの道を歩いてきたのだ。前方に見慣れた校門が迫ってきている。僕が通う刻水館こくすいかん高校、その普段は特徴のない校舎が、今は赤い雨に汚されておどろおどろしい姿で横たわっていた。

 それを見て、近いから、という単純な理由でここに決めたことを半分くらい後悔し始めていた。だけどもう二人とも雨でびしょびしょで、僕の革靴なんか水溜まりをしこたま吸ってたぷんたぷんの水っ腹になっている。このまま移動し続けるのも厳しいだろう、と半ば強引に自分を納得させた。


 それに納得に足るだけの理由がもう一つあった。学校ならひょっとしてコハルを知る人がいて協力してくれるんじゃないか、という期待。一人でも加われば三人で、三人寄れば文殊の知恵とも言うだろう。……すでにこちらの一人は頭数に加えられないかもしれないけれど。

 でもそれを補って余りありそうな人影が校門の先、昇降口への道に佇んでいるのを僕はすでに見つけていた。色を失ったのであろう不自然な白い傘がその後ろ姿を隠しているものの、腰まで伸びた綺麗な黒髪はこの学校じゃ僕が知る限り一人しかいない。

 あれは、瀧川たきがわ澄玲すみれに違いない。

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