グランギニョールの倫理(三)
「ご、
「ユウじゃない。刑事さん、本当です。そもそも誰が殺したかなんて暗闇で誰も見えていなかったはず」
ハヤトが人が変わったみたいにうろたえて、すかさずカズハが応じる。だけど、そんなやり取りが飛び交っても
「さっきまで後藤は動いていたんだ。本当に……。なのに、いきなり死んでて……」
と、目の前の光景がまだ信じられない様子だった。
皆が僕を中心に同心円状、手元の明かりが届くぎりぎりに広がりながら緊張の面持ちで僕を見ていた。無理もない。僕の足元にはまだ流血の止まらない後藤の首なし死体が転がっているのだ。
まるで黒魔術で悪魔でも召喚してるみたいだな……。
張り詰めた空気の中での現実逃避、なんの解決にもならない考えが頭をよぎる。でも実際、今この場で生まれているのは本当に悪魔なのかもしれない。後藤を生贄にして呼び出された悪魔、それが僕の身体の代わりに皆の目に映っているのかも。
思えば時折遭遇する
「ふふ、ふふふふ」
思いがけず口元からは乾いた笑いがこぼれた。人間、どうしようもなくなると笑いが出てしまうものらしい。
「ユウ……?」
不安そうにカズハが僕を見ている。カズハにはそんな顔をして欲しくなかった。一番僕を理解してくれているはずのカズハが……。
すがるように一歩近づこうとして、でも踏み出せなかった。それより早く加賀美刑事がカズハを守るように前に出た。
「おい、動くな!
殺人? 現行犯? 言っている意味がまるでわからない。だって、
「僕は――」
パァンっ!!
「きゃああああああ!!」
いきなり耳をつんざくような発砲音がして、再び悲鳴があがった。
撃たれた――
「……のは警告……次に許可……動こうと……ら、本当に撃つ!」
耳鳴りがこびりつく中、銃口から立ち昇る細い硝煙の裏で加賀美刑事の口が激しく動いているのが見えた。身体のどこにも痛みはなく、ああそうか、空砲、威嚇射撃だ、とわかるまで幾秒かを要した。なおも銃口に居座る無機質な丸い小さな闇が僕を睨みつけている。いよいよ実感が伴ってきた。こんな握り拳大の塊だというのに、さっきのちゃちなパイプ椅子なんか比べ物にならないほどの暴力が凝縮されているのだ。いつそれが僕に死をもたらしても不思議じゃない。
こんなのおかしいだろ。
どうして加賀美刑事がここまで極端な対応をとるのか、僕にはさっぱりわからなかった。だけどカズハが不安そうに後ろから彼の顔を覗き込んでいる。それで理解してしまった。呼吸が荒い。歯をカチカチと鳴らして、銃を構える両腕はずっと小刻みに震えている。恐怖なのだ。
刑事さんにまで僕は悪魔に見えているのか。
やりようのない絶望感に打ちひしがれるような気持ちになった。今ここで、どれだけ僕が違うと言ったって、他の皆が悪魔だと言い張ったら僕はそうと決まってしまうのかもしれない。そしたら悪魔は退治されるのが世の習いだ。別に銀の弾丸じゃなくたっていい。きっとその鉛玉一発で事足りる。
もう、それでしょうがないのかもしれない。だって悪魔として捕らえられたら、吊るし上げられたら、はたしてこの後どんな未来が待っているというのだろう。社会から終わることのない糾弾を浴び、悪しき存在として全員から死を望まれる。……ああ、そうか。これが
「ダメ!」
突然、射線上にカズハの華奢な身体が躍り出た。僕に背を向けて、ちぎれんばかりにその細い腕を広げる。
「カズハ……」
その行動が僕の中の何かを繋ぎとめたような気がした。でも、どうして……。
いつもの素っ気ない態度と今の行動が全くもって結びつかない。
「
「言ったはずです。ユウは殺人鬼なんかじゃないって」
「どうしてそう言い切れる。もしそれが君の思い込みなら――」
疑念、嫌悪、恐怖。それは正面の加賀美刑事の言葉の端々に滲むだけでなく、周りからも押し寄せるように感じ取れていた。皆が僕を見ながら、僕ではない何かを見ている。過度な緊張がマイクロ波ようにチリチリと僕の耳の奥を沸き立たせ、
「思い込みなら、どうなるって言うんですか」
自然と口が動いていた。後先のことなど、もう考えられない。
「例えば、僕の腕が無慈悲に首を切り裂いてしまうとでも?」
ありえない。だって、そんな風に僕の身体はできちゃいないのに。
ありえないよ。カズハを殺すだなんて、そんなこと、この僕に――
「できるわけ……ないじゃないですか」
こらえきれず目から涙がこぼれて、つう、と両頬を伝う。
それが流れるままに任せて一歩、前に出る。銃声は鳴らなかった。
もう一歩、前をさえぎるカズハの左腕を押しのける。これでもう僕を守るものは何もない。まだ銃声は鳴らない。
「よせよ、
ダイチの声が後ろ髪をかき混ぜた。
僕の脇腹のあたりでは、カズハがかすかに制服を掴もうとする。
だけど僕は止まらない。いや、もう止まれない。
「僕は誰も殺してはいません。この先だって誰も殺しはしません。それでも撃つっていうなら……撃ってください」
さらに一歩、踏み込んだ。
目の前で加賀美刑事は腕を少し引いて、一歩、後ずさる。歯を強く食いしばり、構える銃も前後左右に激しくぶれていた。
「刑事さん、ダメです。撃たないで」
カズハがすがるような声で制止する。
「はあっ……はあっ……」
やがて加賀美刑事の口から激しい息遣いが漏れだして、僕が最後の一歩踏み出したところで、
「うわあ、ああ、ああ……」
と、ほとんど悲鳴のような声を上げて三階への階段に尻餅をついてしまった。
階下への道が開いて、しかしそこにモミジがまだ立っている。表情は石のように固まり、両手はきつく結ばれていながら、瞳はまるで壊れた方位磁針のように揺れ動いていた。
「い、嫌……」
必死の思いで絞り出されたのだろうその言葉。それでとうとう、なんとか繋ぎとめていた僕の何かがプツリと切れてしまった。
「ユウ、大丈夫。ちゃんと説明すればみんなわかってくれる。だから――」
カズハが何かを言っている。
だけど僕は首を横に振り、暗闇が淀み溜まった階下へと身を投げ出すように駆け下りていった。もう一秒たりともあの場所に留まっていたくはなかった。僕が僕でない何かとして見られてしまうあの場所では、本当に悪魔になってしまいそうだったから。
そして勢いよく一階に降り立ったその瞬間、
ガシャアアン!!
と何かが砕けるような音が突然に響き渡った。また加賀美刑事が発砲したか、と一瞬身体がこわばったけれど、音は背後ではなく前から聞こえてきた。
一階のフロアを進むほどに赤黒い光が強くなり、やがてこの警察署の入口が見えてきた。
「これは……」
そこでは自動ドアがぶち破られていて、粉々になったガラス戸の残骸が灰色と化した絨毯の上に散らばっていた。建物の内側から壊されているようだった。
違和感を覚えて外を見やると、目の前に広がる駐車スペースの先、白いアスファルトに赤い水溜まりが点在するその中に、静かに佇んでいる山羊頭の姿を見つけた。相変わらずこちらをじっと見つめている。
「お前! 何なんだよ!」
怒りに任せて飛び出した。無用になったろうそくを打ち捨てて、赤い雨が降りしきる中へ全力で走り出る。あいつを一発殴ってやらなきゃ気が済まない。しゃべる言葉がなくたって知ったことか。今起きているこれが何なのか、知っていることを洗いざらい吐いてもらわなければ。
だけど山羊頭との距離は一向に縮まらない。滑るように道の奥へ奥へと遠ざかっていく。
それからどこをどう走ったのかはよくわからない。気が付けば山羊頭の姿はまたどこかへと消え去ってしまっていた。
「くそっ! お前の! 思い通りになんて! ならないからな!」
立ち止まり、息を切らしながら、赤い空に向かって叫んだ。掌の上で踊らされているような気持ち悪さに対して、僕にはもうそれしか抗う術はなかった。そしてその言葉も赤い雨に打ちのめされて、ざあざあという音だけがあたりを埋め尽くしてしまう。
誰もいない交差点。光の消えた信号機。いくつもの闇を包んだ家々。僕を取り囲んだそれらを、一吹きの風がびゅうと音を立てて撫でまわした時、
「アアァー……アァー……」
いつか聞いた不気味な声が、遠くから耳に届いた。
赤い雨でけぶる交差点の奥から何かがゆっくりと近づいてきている。
まさか――
心臓がぎゅうと締め付けられた。再び脚を動かして、恐る恐る近づいていく。
やがて間近に捉えたその姿。あごはだらしなく下がり、真っ赤に充血した両目の焦点はてんで合わず、血のような涙を流し続けていた。
生ける
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