グランギニョールの倫理(訃)
「ダイチ! 僕はここだ!」
ほとんど脊髄反射で叫んでいた。声の波紋が暗がりの中で床、壁、天井を
「ユウ、いるのね、今どこにいるの!?」
カズハの声だった。彼女もここにいることに驚きながら、今どこにいるのか、それを答えようがないことに僕はようやく気付いた。
「私は一階! ユウは!?」
またカズハの声だ。
それで僕はエレベーターに乗せられたことをうっすらと思い出す。
「僕は上だ! 何階かは確認してみる!」
見知らぬ建物の中は何のあてもなかったけれど、エレベーターホールはすぐに見つかった。廊下が伸びるままに進むだけでよかったのは幸運だった。二つ並んだ鋼鉄の扉の間に駆け寄って、ろうそくで壁を照らすと白色の数字が浮かび上がる。『3』だ。
降下ボタンを押してみたけれどカチカチと乾いた音がするだけで、ボタンは光らないし、箱を吊り上げるモーターの駆動音もしない。
「三階だ! でもエレベーターが動かない! 階段を探してみる!」
「おう、わかった! こっちも探す!」
今度はダイチの返答だ。さっきよりもはっきりと聞こえるようになった気がする。となれば階段が、一階と繋がっている空間がどこか近くにあるはずだ。
やっぱり奇妙だよな……。
合流の目途が立って少し冷静になると、今置かれている状況を整理するだけの余裕も戻ってくる。
遠くの窓に差し込む赤い光。外ではきっとまた空が変色して赤い雨が降っているのだろう。まるで別の世界に迷い込むかのような感覚だ。建物は同じように並んでいるけれども、電気系統は全て使えなくなるらしい。照明はこんなふうに消えてしまうし、さっきのエレベーターだって……。
振り返ってみるに、この変異は回を重ねるごとに長くなって、迷い込む人数も徐々に増えている。自殺した
とりとめもなく考えながら進んでいると、暗闇の奥から階段の欄干が照らし出されてきた。階段前が広いスペースだったおかげでダイチの声も通りやすかったんだろう。もしこれが扉か何かで仕切られていたら見つけ出すのはもっと難しくなっていたに違いない。
ただ、周りには窓がないようで、階段のあたりだけさらに深い暗闇で満ちている。ろうそくの弱い光では上も下も次の階が見通せそうにない。降りる先はまるで地の底までも通じているようにも感じられた。
嫌な想像をごくりと飲み干して、ゆっくりと一歩、踏み下ろしていく。そしてまた一歩。
タン……タン……。
規則正しい足音が暗闇に溶け込んでいく。
なるべく下を見ないように、見ないように、自分に言い聞かせながら。
タン……タン……。
足音は続く。一定のリズムを刻むその音が、まるで催眠術みたいに鼓膜から脳に浸み込んで、意識は深層へと入り込んでいくような気がした。
つい最近、こんな風に階段を歩いたような……。
この状況に強い
はて、それはいつの事だったか。すぐに思考を引き戻して記憶を絞り出してみたけれど、どうにもはっきりしない。
タン……。
考えはまとまらないながらも、足取りは淀みなく二階へと降り立った。右へ振り返ると、階下はやはり暗闇に包まれてよく見えない。でもきっと大丈夫だ。今と同じだけ階段を降りれば――
「みぃどぉりぃがぁばぁああああああ!!」
突然、正面の二階に広がる暗闇から何かが飛び出して、左から水平に
ゴッ――
階段の分厚い欄干に激突して鈍い音を立てた。それは折りたたまれたパイプ椅子だった。背もたれのフレームが塗装を削って、できた粉がパラパラと僕の耳あたりに降りかかる。
「よく避けたなあ……」
「お前――」
ろうそくの光が襲撃者の顔を下から照らし出していた。見覚えのある天然パーマが光を浴びている。
「あ、危ないだろ! なにすんだよ!」
「なに……すんだよ?」
くっくっく、と後藤は醜悪な笑いを顔に浮かべ、
「除霊だよ、
そのまま斧でも振るうように両手でパイプ椅子を真上に振りかぶる。
まずい。
僕は反射的に両腕を顔の前で交差させて防御の姿勢をとり、
ドッ――
辺りに鈍い音が響いた。だけど振り下ろされた衝撃は伝わってこない。
その一瞬で視界にとらえたのは、何かが階下から飛び込んで後藤の細身を吹き飛ばしていったことだ。が、その光景は即座に暗闇に飲まれてしまう。今のでろうそくの火が消えてしまったのだ。
「おい、後藤! お前いま何しようとしてやがった! 落ち着け!」
暗闇の中でダイチが叫ぶ。
「はなせっ! くそっ、やるなら俺じゃなくて緑川だろうが! お前らも呪いで死んでもいいのかよ!」
「くそ、暴れんな! ハヤト! 押さえろ!」
どうやら飛びついていったのはダイチ一人じゃないらしい。「今やってる!」という別の声がして、しばらくバタバタと音が続いていたけれど、やがて後藤は「げう」とカエルが潰れたような声を上げて、モガモガと音を漏らすだけになった。
「ユウ、大丈夫? 怪我はない?」
後ろからカズハの声がした。それを聞いてようやく心臓の鼓動が落ち着いてきた気がした。
「ああ、なんとか」
「……よかった」
カズハも安堵の声を漏らす。と、そこへ、
「おい、何かあったのか!?」
という問いかけが階下から投げ込まれた。どこか大人びたその声はどこかで聞いた気がしたけれど、
「あ、刑事さん、こっちに来れますか? 後藤君がユウに襲い掛かって暴れてるみたいで……」
カズハの返答で思い出す。黒スーツに眼鏡の
「緑川君、そこにいるのか!?」
ただ、僕の思いとは裏腹に加賀美刑事にとっては別のことの方がより重要だったらしい。つまり、僕の存在が。
「どうやってそこへ!?」
「どうって、普通に……歩いて」
「他の警官達はどうしたんだ!?」
「え、いや……気付いたら誰もいなかったですけど」
「そんな馬鹿なっ!!」
段々と加賀美刑事の語気が強まっていく。突然の停電と、自分以外の警察官の消失という得体のしれない事態に、さすがに不安と苛立ちを隠しきれないでいるようだった。続けて「今そちらに行く」という声と共にベタンベタンと床を手で叩くような音がし始める。四つん這いで階段を上がってきているのだろうか。
「おい、モミジとタキは無事かっ!?」
反対側からはダイチの力んだ声が発せられている。まだ後藤を押さえつけるのに苦労しているらしい。それに対しては「私は大丈夫」とかすれそうな声がカズハの近くからあがった。
「オーケーだモミジ。……タキはどうだ!? タキっ!」
ダイチがさらに呼びかける。しかし返事はない。誰もが
「……くそ、あの馬鹿、はぐれやがったか?」
今、この二階の階段付近で様々なことが同時多発的に起きている。だけど、やはりこの真っ暗闇の中では何一つはっきりとしない。もどかしさが募る中、
「ねえ、ユウ、ろうそくはまだ持ってる?」
カズハの言葉でようやくそれに思い至って、ズボンのポケットに右手を伸ばす。中にはまだ二本、小さい円柱の感触があった。そのうち一本を左手で挟みつつマッチ箱を取り出す。
「おい、ダイチ……ダイチ! ちょっとこれは、マ、マズイかもしれねえぞ……」
「あん? マズイって何が?」
ハヤトと呼ばれていた奴がダイチに話しかけていた。どういうわけかその声は恐怖に震えている。その理由に思考を巡らせながら、かすかに水飛沫が床を叩く音を耳で拾った気がした。
ジッ――
マッチを
右、階段のそばには心配そうな顔をしたカズハが。
そのすぐ後ろにはモミジと呼ばれた女の子が。
目の前には四つん這いで両腕を下に押しながら顔を上げるダイチが。
その奥でハヤトはすでに立ち上がって、よろよろと後ずさりを始めていた。そして右腕でゆっくりとダイチの手元を指さして――
「ご、ご、後藤……」
見下ろすと、後藤の身体にはすでに頭部が無かった。天然パーマを失って、ひどく無個性になった死体がそこに横たわっている。こっちを向いた首の切れ目から勢いよく鮮血が噴き出して、僕の制服の裾と革靴を汚していった。血の海が僕の足元を飲み込んで、津波のように広がっていく。
「いやああああああああああっ!!」
モミジの絶叫にも近い悲鳴があたりに響き渡った。反射的にダイチも「くそっ!」と顔をひきつらせながら跳ね起きて、その
「おい、何が――」
その台詞と共に加賀美刑事がモミジの後ろから現れて、固まった。黒縁眼鏡の奥で眼を大きく見開いて、この世のものではない何かを見るような視線を僕に向ける。
「あ、これ――」
僕が何を言おうとしていたのか自分自身でも定かじゃない。だけど、それがどんな言葉だったとしても最後までしゃべりきることはできなかっただろう。
「動くなっ!!」
加賀美刑事が懐から何かを素早く取り出して、僕に向けて構えた。ろうそくの光の中でもなお黒く、優しさの欠片もないゴツゴツしたフォルム。
拳銃だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます