第三章 グランギニョールの倫理
グランギニョールの倫理(一)
「ちょっと、ユウ、何がそんなに不満なの?」
四角い木彫りの座卓の右辺で、母さんが心配そうに眉をひそめた。
対面では
わかってるくせに。母さんだって、あえてとぼけてそんなことを言っているのだ。普段は嘘はついちゃいけないなんて言うくせに、大人はやっぱりずるいのだ。
別に目の前の献立に不満はない。いつものように焼き魚は丁度良い塩加減だし、お米だって程よく硬い僕好みの炊き上がりだ。しいて言えば気持ち肉の量を増やしてくれるとありがたいし、お味噌汁の豆腐は木綿の方が好きだし、食事時のテレビもそろそろ許可してほしいとか思ったりもするけど、そんなの今は取るに足らない問題だ。なんだったらニコりともしない父さんのせいでいつも食卓が辛気臭いのも今日は水に流そう。
カズハだ。そしてガク。
ガクの身体にあった無数の
「ユウ、妙なことは考えないでね。どの家にもその家のルールがあるの。他所は他所、うちはうち」
それを聞いてもう我慢できなかった。
「なんだよそれ! 賢そうな言葉で飾ったところでさ、それってただの見て見ぬふりじゃないか! カズハやガクが死んじゃったらどうするんだよ!」
「そんなこと言ったってその家の育て方には軽々しく口は挟めないものでしょ?
「ああもう! 要はびびってるだけじゃないか。わかったよ。芸術家だかなんだか知らないけど僕が行って――」
「ちょっとユウ、やめてよ。物事をややこしくしないで――」
「んー、ご馳走様。今日も美味しかった」
言い合いにひどく能天気な声が混ざりこんで、思わず目を向けると父さんが手を合わせて目を閉じている。それが静かに開くと僕を見て、
「ユウが正しいな」
と、まだ食事の続きを噛みしめるかのように頷いた。
「もともと良い家庭じゃあないと思っていたが、身体中に痣があって火傷までしているのなら危険だ」
そのままさっと立ち上がり、
「話に行ってくる」
「ちょっと、あなた……」
母さんが呼び止めるも足の運びは淀みなく玄関へ向かい、ガラガラという引き戸の音とバサっという傘の音が続く。母さんはしばらく口のあたりを手で押さえながらその行方を見守っていたけれど、やがて少し決まりが悪そうに口を開いた。
「別にカズハちゃんやガク君のことを心配していないわけじゃないのよ。ああ、でも、良くないことが起こらなければいいのだけど……」
「……そうだね」
母さんの考え方には全然納得いってはいなかったけど、ともかくこれで前には進んだのだ。その結果をもって良しとするのだ。カズハ、ガク、僕ももっと二人に寄り添って助けてあげないと――
「おい母さん、ユウ、来てくれ! 大変だ!」
ザッザッザッザッ――
僕の思考を邪魔するように、玄関にけたたましい足音が戻ってきた。
「ちょっと……どうしたんですか、あなた」
僕と母さんが玄関へ駆け寄ると、父さんは僕らの目を見るなり叫んだ。
「お隣が、火事だ!」
……そこで目が覚めた。
ただ、何かがおかしい。うっすらと目を開けたはずが視界は黒く塗りつぶされたままだ。なんだ、いったい何がどうなってる?
ゴッ――
右肘が硬いテーブルの上面を叩いた。そして、この腰かけてる細いのはパイプ椅子。
「落ち着け。大丈夫だ、ユウ、大丈夫……」
自分の名を呼んで、なんとか際どい所で平静を保つ。
「思い出せ、ユウ。そんな昔の事じゃない。ついさっきだ。大丈夫、思い出せる」
……そうだ。まず学校で
そしたら警察に取り囲まれて、警察署まで連行されて、取調室みたいなところへ通されて、それで
次はビデオか。
そしたら急に日野刑事が外に呼び出されて、その後はどうなった? 待ちぼうけをくらって……そのままか? いつの間にかウトウトしてしまったのだろうか。
「おーいっ!」
とりあえず呼びかけてみる。一秒、二秒、何の反応もない。
「誰かーっ! 誰かいませんかーっ!」
再度呼びかけても駄目だった。
おいおい冗談じゃないぞ。ただでさえ暗闇が苦手だってのに、こんなところで独りにしないでくれ。何をするにも明かりがないと……明かり?
ズボンのポケットをまさぐると、まだろうそくとマッチ箱が残っていた。
ジッ――
マッチを擦り、火を点したろうそくをテーブルに立てる。
深紅色の小さな光が狭い部屋をぼんやりと照らして……いや、待て、何だ、僕の右隣に何かいる。
「うわあああああっ!?」
心臓が飛び出さんばかりの声が出てパイプ椅子から転げ落ちた。尻餅をついたまま部屋の角まで後ずさる。
「おい、なんなんだよお前!?」
山羊頭は徹底して沈黙を保っていた。返事の代わりに黒い右腕がずいと僕の顔に伸びてくる。
「来るな、来るなよ、やめ……が……ごぼ……ぐぐ……」
無防備に叫んでいた僕の口腔に奴の黒い腕が勢いよく流れ込んできた。解き放たれた蛇口の水の様に容赦なく、それは舌の付け根を押さえつけ、食道を掘り進めて胃袋へと――
「がああああああっ!!」
そこまできて強烈な押し戻しを体内で感じた。胃から叫び声を上げるかのように僕は全てを吐き出して、目の前の山羊頭を足裏で蹴飛ばした。
「があっ……げえっ、おうぇえ……げほっ」
口の先から黒い腕がずっぽりと吐き出されるも、のどに残ったあまりの異物感にえずきを繰り返す。そんな僕の様子を山羊頭は意外にも静かに見守っていたようだったが、奴の姿は数秒もしないうちに薄暗い部屋の空気に溶け込んで見えなくなってしまった。
「嘘だろ……」
涙と唾液で顔をべとべとにしながら、半分呆然とした気分になった。
今のはいったいなんだ。まだ胸の奥に
始めはてっきり頭を持っていかれるのかと思っていた。今度は僕の番なのだと……。だけどそうじゃなかった。胃をまさぐられながら感じたのは敵意とか憎悪とかじゃなくて、不思議と何かを懇願するような感じだった気もする。だけど狙いは全くわからない。あるいは胃の中に何かを植え付けようと――
「うえぇ……げほっげほっ!」
また吐き気が襲ってきて、胃の中に居座る気持ちの悪さをどうにか取り除こうとしたのだけど結局何も出て来なくて、仕方なく「べっ」と胃液交じりの唾を部屋の隅に吐き捨てた。
このままじっとしているわけにもいかない……よな?
靴下を一つ脱いで、それを手袋代わりにまだ火が残ったろうそくを取って部屋のドアへと向かう。
ガキン――
ドアノブが妙な音を立てて、ドアはすんなりと開いた。その音に少し違和感を覚えたものの、それでまた得体のしれない何かが襲ってこないかが怖かった。恐る恐る覗いた廊下もまた真っ暗で、手元のろうそくの光だとせいぜい十メートルくらいしか視界が確保できない。遠くの方では四角い窓から赤黒い光が差し込んでいるのが見えたが、建物の中の様子はよく見通せなかった。
自分のか細い足音にもびくつきながら、それでも慎重に歩を進めていると、突然どこからともなく声が響いてきた。
「おーい、大丈夫かーっ!? 全員無事かーっ!?」
ダイチの声だった。
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