惨劇の始まり(屠)

 捻じ切れそうな腹の痛みにもがいていると、後藤ごとうのへらへらした語りが始まっていた。


「ほら、緑川みどりかわって毎回ビデオ学習にはいねえじゃん? 初回だけ出てたけどよ、そん時は傑作だったぜ。こいつ、電気消した途端、身体ガタガタ震わせてやがんだ」


 人のコンプレックスを晒し上げて何がそんなに面白いのだろう。後藤の顔から得意満面の笑みが消えることはなかった。が、それはまだいい。それより次にしそうなことが問題だ。


「ぐう……。やめ……ろ……」


 制止の声を上げようとするも、今にも掻き消えそうな乾いた音しか出てこなかった。


「あれあれー? もうブルっちゃったのかなー?」

「ち、ちがう……げほっ、うえっ……」


 いや、違わないか。その通りだ。怖い。

 だけど僕が言っているのはそういうことじゃないんだ。暗闇はまずい。僕の第六感が最大音量でレッドアラートを繰り返している。


「よせって、後藤……。嫌な予感がするんだ」

「嫌でーす。やめなーい」


 憎たらしいまでのスローモーションで後藤の人差し指が照明のスイッチに伸びた。


 パチッ――


 本当に軽率に、あっさりと教室は暗闇に落ちてしまった。一瞬だけ鼓膜が焼けるような静寂があたりを包んで、やがて雨音がカーテンを通り抜けて染み込んでくる。


 早く明かりをつけないと……。


 立ち上がって後藤のいたあたりを目指す。足取りは悔しいまでにおぼつかない。ガツン、と椅子を一つ足蹴あしげにしてよろめいた。


「な、なあ……後藤! お願いだ。電気を――」


 ゴッ――


 今度は側頭部に強い衝撃。


「がっ!?」

「おい、緑川。言ったよな。余計なことしゃべってんじゃねえよ。お前はただ犯人のことだけしゃべれ」


 また床に転がされ、背中を机に激しく打ち付ける。


「いっ……てえ……」


 油屋あぶらやの……蹴り? そうか、声の位置を狙って……。

 暗闇で多少の加減があったのだろうが、それでも意識が飛びかけた。


「本当だって、は、犯人なんか知らないんだって……。な、なあ頼む――」

「ひゃひゃっ! いいな、今の情けねえ声! 緑川、今のもっかい言ってくれよ。今度はちゃんと録画しとくからよ」


 だめだ。後藤は心底この状況を楽しんでいた。言い終わるや否や、ぱっと視界の一角が真っ白に染まる。スマホのライトがこっちを照らしているらしかった。さらにもう一つ別方向からも光が増える。

 真っ暗な教室の中央で、痛めつけられた僕の姿がスポットライトを浴びる。それはどうしようもなく情けなくて、屈辱的だった。


「ああ、くそっ。マジでむかつくぜ」


 しかし苛立ちの声を上げたのはまたも油屋だ。今度はまるで容赦のない蹴りが襲い来る。二度……三度……。


「ぐ……う……」


 その度に僕のあばら骨がミシリと悲鳴を上げた。


「なんでミカじゃなきゃいけなかったんだよ。なんでこんな奴が生き残ってんだよ。くそっ……くそがっ!」


 そんなこと、僕の知ったことか。僕だってなんでこんな目に合わなきゃいけないんだ。

 ああなるほど、確かに油屋、お前は恋人か何か知らないが名取なとりと死に別れて可哀そうな奴だよ。でも、だからってこんなリンチまがいの事をして良い理由なんかないだろ。くそったれだ。もしアヤコノノロイなんてものが本当ニアルノナラ、コイツラコソ――




 闇――




 僕の中に黒い感情が芽生えかけたその瞬間、教室が再び暗闇に落ちた。向けられていたスマホの光がなんの前触れもなく消えたのだ。


「……あれ?」


 何が起きたのかわからない、という後藤の声。それも当然だ。光を失ったのは一つじゃない。二つ同時だ。そしてじわりと、床についた手の隙間に粘り気のある液体がまとわりついた。


 なんてこった。たちまち後悔が頭の中を支配する。

 アヤコノノロイ……やっぱり僕が引き起こしているのか?

 もしも負の感情が、僕の中の闇が、その呪いを現実に招き入れているのだとしたら。


「おい! どうしたあっ!?」


 油屋が声を荒げる。


「わっかんねえよ! いきなり電源が落ちて……。ったく、おいおい、マジかよ。故障とか勘弁だぜ?」


 後藤の慌てた返事の裏で、


 びちゃり……。


 あの足音がした。

 いるんだ。この教室の中に。


「ね、ねえ。なんか、床が濡れてない?」

「マジだ。何だこれ?」

「おい、いっかい電気つけろ」

「やべ、スイッチどこかわかんねえよ」


 奴らはまだ能天気なことを言い合っている。このままでは誰かが死ぬ。予感を越えて、確信があった。

 どうする? どうしたらいい? この怪異を抜け出すには。カズハ……。


 あ。


 一番頼りたい人を思い浮かべて、つい最近、同じような目にあったことを思い出した。

 その時カズハはどうしていた? 僕にくれたものがあるじゃないか。


 弾かれた様にズボンのポケットをまさぐる。取り出したのは小さなマッチ箱。着火面を指でなぞり、マッチ棒を慎重にこすり上げる。


 ジッ――


 小さな赤い火がともり、真っ暗だった教室内をほんのわずかに照らし出した。

 黒く濡れた床の上、ストーンヘンジみたいに散らかった机と椅子。

 手前には膝立ちになっている油屋。

 奥で壁に片手を伸ばしている後藤。

 壁には彼らの影が黒く伸び、皆の視線が雁首がんくび揃って僕の手元に集まっていた。


「アアァー……」


 いきなり、その中の一人が低く不気味な声を上げた。

 僕の手からポロリとマッチがこぼれ落ちる。赤い光が高さを失って、ジュッ、という音と共に教室は三度目の暗闇に落ちた。


 コハルだ。どうして? ここにいるはずがない。

 だけど見間違うはずもない。揺れるポニーテール……それに血のような涙を流す様は昨日見た彼女そのままだった。


「おい、ちょっと待て。今、一人増えてなかったか?」


 油屋が漫然と疑問を口にした。

 それで僕は放たれた矢のように様に動き出した。誰かの死を防ぐとか、コハルをどうにかするとか、そんな方法は全く思い描けていなかった。だけどこのまま留まっていたら誰かが死ぬだけじゃなく、コハルが殺人鬼として疑われるとか、もっとずっと良くない結果が待っている気がした。

 だとすれば動くしかないだろう。ドアの位置は把握した。後は油屋達が僕を追いかけてくれれば……。


「アブ、怖いこと言うなよ」


 後藤の声のうねりを切り裂いて、僕は飛ぶように四歩でドアにたどり着く。身体の痛みももう忘れていた。

 壊すくらいの勢いでドアを開け放ち、廊下へと飛び出していく。


「なっ!?」


 背後からは油屋達が驚くような声。

 それよりも前だ。廊下の窓の先は当たり前のように赤黒い空が広がって、白い灰と化した校庭に赤い雨が降り注いでいる。血溜まりのような大小様々の歪んだ円が点在する様は、さながら地獄の一風景のようだった。

 いや、もう僕は驚くまい。飛び出した勢いそのままに廊下を駆け抜けて、渡り廊下を目指して、その後は、その後はどうする!?


「おい待て! 緑川あっ!」


 油屋の怒鳴り声が響いた。

 振り返ると、教室の入口から皆が雪崩をうって飛び出してきた。油屋が、後藤が、一、二、三、四人、全員が頭をちゃんと肩の上に乗せている。後藤と他の二人は窓の外の景色に絶句していた。油屋だけが、一瞬足が止まりかけたものの、イノシシのように僕に向かって猛進してくる。


 皆が生きている。それに少しほっとして、蹴られた腹や太もものあたりが再びズキズキと熱を帯び始めていた。だけど今更止まってなんかいられない。教室は……誰もいなかったら行き止まりだ。だとすれば、もう外しかない。

 渡り廊下を走りきった僕はそのまま昇降口へ……飛び込もうとして急ブレーキかけた。太ももの痛みが跳ね上がり、油屋との距離はみるみる縮まってしまう。だけど、そうせざるを得なかった。目の前で影のような身体をした山羊頭やぎあたまが行く手を塞いでいたのだ。


 初めて間近に見るその異様な姿、人のような黒い身体は何もない虚空に見えて、触れようとしてもまるで距離感がつかめない。その上で剥製のようにゴツゴツした山羊の頭が乗っていて、頭頂からは二本の太く曲がった角が生えている。少し長い口元はピクリとも動く気配はなかったが、赤く濁った二つの小さな目が僕のことをじっと見つめていた。何か強い意思を感じるようだった。


 こうしているうちにも油屋は迫ってきている。引くか進むか、決めかねていた僕だったが、それは致命的な迷いにはならなかった。油屋が予想外の動きを取ったからだ。


「おい、ありゃミカ……か? おい! ミカっ!」


 いきなり油屋がそんなことを叫びだした。振り返ると、彼は渡り廊下の窓から校庭を見渡して、窓ガラスを両手でバンバンと叩いていた。


「やっぱそうだ! 俺は信じてたんだ! お前が死ぬわけがねえって!」


 いったい何が起きているんだ? わけがわからない。

 前に向き直ると、もう山羊頭の姿はなくなっていた。


 そして再び背後を振り返って、僕は自分の目を疑った。

 今の一瞬のうちに、油屋の巨体が僕の足元に倒れている。例によって、頭部を失った状態で。


 死が、すぐそこにうつ伏せになって横たわっているのだ。さっきまで怒鳴り散らしていた頭はない。あれだけ粗暴を振るった大きな体躯も時が止まったように微動だにしない。ただ首の切れ目からどくどく真っ赤な扇を廊下の上に作り上げ、僕の上履きを汚していった。

 壁の外から激しい雨音が染み出してくる中で、そんな油屋の最期はどういうわけか絶望的なまでに静かなものに感じられた。


 ――まだ殺した奴が周りにいるかもしれない。


 ようやくその考えに行きついて、頭を上げてあたりを見回すと、渡り廊下の奥から後藤達がばらばらと走り寄ってきて、僕目掛けて指さした。

 学校中に響き渡ろうかという悲鳴の中で思い知る。犯人扱いされるのは、きっと僕だ。今回、僕は最悪のあみだくじをたどってきてしまったのだ。


 気が付けば窓の外はただの薄暗い雨模様に戻っていて、彼らの後ろではコハルが同じようにこちらを見ていた。先程までの赤く汚れた不気味な姿ではなく、元の清潔な姿で。


 ――だいじょうぶだよ。


 そうコハルの口が動いたように見えた。

 コハルが犯人扱いされることはきっとないのだろう。だけど、段々とコハルを信じられなくなってきている僕もいる。


 またコハルの口が静かに動く。

 そんなことコハルが言うはずがないのに、その口はこう綴っているような気がした。


 ――これで二人はまた一緒になれるから。

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