間章 脈動のアザーサイド

脈動のアザーサイド(一)

 ――ガク、お前は悪い子だ。


 ――どうしていつも教えたことが守れない。


 ――必要なのは謝罪ではない。学習だ。


 ――痛い? 当然だ。痛みこそ、真に学習を促すのだから。


 ――だからガク、お前も理解しなければならない。


 ――そうだ。これもお前の将来のことを思ってのことなのだ。


 ――ん? ああ、カズハか。


 ――どうした。部屋にいなさいと言っただろう。


 ――なんだその眼は。


 ――こっちに来なさい。


 ――おい。


「おい……おい!」


 突然の呼びかけに、たちばな一葉かずはの華奢な身体がビクリと震えた。黒い大きな瞳をパチリとまぶたが始動させ、カメラのように水晶体のフォーカスが働く。その焦点の先で『自習』の二文字が黒板の中央に大きく並んでいた。


「居眠りだなんて珍しいな」


 左隣の席に伊東いとう大地だいちが腰かけて、笑顔ともつかない顔で話しかける。


「別に眠ってなんかない。少し、ぼうっとしてただけ」


 つれない反論に大地はやれやれと肩をすくめた。


 一葉はすぐに何かに気付いたように教室内を見回し始めた。中央最前列で銀縁メガネの委員長、金久保かなくぼが生真面目に数学の参考書にペンを走らせている以外は、皆が思い思いの席で談笑にふけっている。一見いつも通りの教室の風景……だが、そこには何かが足りていない。


「ユウはどこ?」

「さあな。ついさっきまで俺と話してたんだけど……。便所かな? あ、もしかしたらコハルちゃんに会いに行ったのかも」


 大地がひょうひょうと答えると、一葉の顔色は目に見えて曇った。


「……悪い。でも、そんな顔するほどのことでもないだろ? あいつはあいつなりに頑張ってると思うぜ」

「……そうね」


 口では納得しながらも、一葉はまだまぶたを重たそうにして物憂げな表情を浮かべていた。そのまま視線は何かを思い出すかのように、大地の肩のあたりを通り越して窓の外へと向かう。


 外の景色はまさしく梅雨の本領といったところで、今日も空は分厚い灰色の雲に覆われて、その下で大粒の雨が幾重もの縦線を引いていた。おまけに風も穏やかに吹き流れているようである。校門に向かって人丈ほどの針葉樹が立ち並び、その枝葉が湖中の水草のようにゆらりゆらりと揺れていた。その中を出歩く教師、生徒は一人として存在しない。雨粒が地面をバツバツと叩く音だけがその窓の向こうから響いてくるのみだ。

 しかし、そんな景色の奥の方からウウウとパトカーのサイレン音がかすかに混ざり始めた。教室で話をしていた何人かの女子がその音に気付いて、不安そうな眼差しを窓の方に向ける。その様子を目で捉えながら、一葉はまた力なく口を開いた。


「でも、この雨の季節になって、ユウもかなり不安定になってるみたい。そこへ今回の連続殺人事件が起きて、ユウも何度も巻き込まれて、精神的にも参ってるんじゃないかって思う」

「そうだろうな。というか普通なら発狂ものだぜ。首のない死体だなんて」


 大地はそう言ってから口を横に歪め、目を細めて頭をブルブルと震わせた。


「しかも殺されたのは同級生だ。俺なんか聞いてるだけで心をごっそり削られるような気分だよ。実物を目の当たりにしたら相当キツい……あ、お前も見てたんだっけか。悪い――」

「ありがとう」


 謝罪の言葉を遮って、一葉の小さな口からこぼれ出たのは感謝の言葉だった。大地はそれを聞いて、やや面食らったような反応を見せる。


「ユウのこと、気にかけてくれて。今だけじゃなくて、今までのことも。あなたが側についてくれてなかったら、入学してから三か月、こうはいかなかったと思う」

「よせって。自分のためにやってるようなもんだ。本当だ」


 そう言いながらも、大地は少し頬を緩めてボリボリと頭を掻いた。


「……それで?」


 わざわざそれだけを言いに話しかけたわけじゃないんでしょう? とでも言うように、一葉が黒く澄んだ瞳で先を促す。


「ああ、いや、その……お前らはあんまりこういうの見ないだろうと思ってさ」


 黒くて飾り気のない四角いスマートフォンが胸ポケットから取り出された。

 一葉が画面を覗き込む。


「これは?」

「学校の裏掲示板ってやつ。ここんとこ事件のことばかりなんだけどさ……」


 話を聞きながら一葉の細い指がゆっくりと画面をスクロールしていく。

 確かに書かれているのは事件のことばかりのようだ。ここ二日ほどの書き込み件数は四桁に迫る勢いで、内容はとても品行方正とは言えない有様だ。殺された生徒達をあざけったりけなすような書き込みも少なからずあって、カズハはすぐに顔をしかめた。

 しかしその手は止まらない。画面を次々と指ですくい上げていく。やがて、


「これ……」


 と呟いて指を止めた。


五十嵐いがらしの死体を見つけたのが緑川みどりかわ名取なとりを見つけたのも緑川らしい。コイツぜってー何か知ってるだろ』


 匿名の誰かの書き込みが疑いの火種を投げ込んでいた。その疑いはじわじわと延焼し、中には犯人だと名指しする書き込みまで続いていく。


『証拠もないのに犯人扱いするなよ』


 ようやく一つ、歯止めをかける書き込みが差し込まれていたものの、明らかに情勢は良くない方向に傾いていた。


「これって学校以外の人でも閲覧できるの?」

「ああ、できる。だからまずいんだ。とりあえず火消しを一つ入れておいたけど、マスコミがこれを見つけたら……もうたぶん見つけてるだろうけど、家まで押し寄せてくるかもしれない」


 一葉はさらに不愉快そうに顔をしかめた。


「なあ、何か俺にできることはあるか? 助けが必要だろ?」

「それは――」


 何かを言いかけて、一葉は堪えた。半分口から出かかった言葉を、まるで熱した鉛でも嚥下えんかするように歯を食いしばって身体の内に戻してしまう。


「必要ない。私が言えるのは、逃げた方がいい、ということ」

「どうして……」

「まともには聞こえないかもしれないけど、世界の終わりが始まってしまったの。これ以上ユウに関わっているとあなたも危ない。まだ命があるうちに街の外にでも避難した方がいい」


 あまりにも奇異な物言いに大地は一瞬気圧されかけたものの、


「おい、そんなこと言ったって俺は誤魔化されないぜ。なあ、お前はこの事件のこと、どこまで知ってるんだ? 教えてくれよ。俺にもできることがあるんだろ?」


 と、鋭角な眼光をすぐに取り戻して一葉の瞳をまっすぐに見つめ返した。二人の瞳の間で、時間の流れが圧縮されたように粘度を増していく。


 ウウウ――


 その周りでは、まだ雨の音に混じってサイレンが鳴り響いていた。いや、むしろその音はますます大きくなって、すでに雨音をはるかに凌駕している。何かがおかしい。教室の生徒が一人、また一人と窓の外へ目を向け始める。

 とうとう一葉と大地までその流れに加わったちょうどその時、窓の向こう、レンガ造りの塀の裏道を右から左へ赤いランプが躍りながら通り抜けていった。それは一瞬で窓枠の外へ消えたものの、音の出どころは厚い乳白色の壁の向こう、すぐ近くで動きを止めた。


 ドタドタドタドタ――


 今度は反対側の廊下で誰かが勢いよく走る足音が響く。教室中の首が一斉に百八十度逆を向いた。

 ずっと参考書と睨めっこしていた金久保も、さすがに我慢ならないとばかりに顔を上げている。


「いったい何なんだよ……」


 大地が呟いたその瞬間、教室の扉が勢いよく開いた。


「た、大変だ!」


 廊下と教室の境目で、このクラスの一員である奥山おくやま功太郎こうたろうが息を切らしていた。高校生にしては大きく突き出た腹が、息をつくたびに上下に揺れる。


「おい、何があった!」


 大地が立ち上がって叫んだ。

 教室中の注目が奥山に集まっている。その顔はいつもの気色の良さは消え失せて、まるで幽霊でも見たかのように青ざめていた。そして許しを請うかの如く両手をわなわなと胸の前で震わせて、何度も何度も深呼吸を繰り返し、ようやくのど奥から爆弾を吐き出した。


「緑川が、油屋あぶらやを殺しやがった……」


 その言葉で教室中が一気に沸騰し、どよめきやざわめきのたぐいが渦を巻く。一葉だけがそれをかき分けて走り出ると、奥山の大きな胸ぐらをガシリと掴んだ。


「嘘を言わないで! ユウは人殺しなんかじゃない!」


 金切り声にも近い叫び声……普段とはかけ離れたその様子に、教室内が静まり返る。


「で、でもよ! 後藤ごとうとか、みんながそう言ってる。油屋の死体のそばに緑川がいたって……」

「もうっ!」


 らちが明かない、とばかりに一葉は廊下へと飛び出した。解放された奥山は「うわっ」と声を漏らしてよろめいて、その脇を「おい待てよ!」と大地が駆け抜けていく。


 一葉は迷いなく走り続けていた。サイレンだ。音の出どころを探し、向かった先は教職員専用の玄関口。いつもは人の影もないその場所に今は黒のスーツや青い制服姿の大人達でごった返している。そして大きなガラス戸の先にパトカーや黒いバンが複数台停まっていて、その手前に探していた姿があった。両腕をがっしりと大人達に抱え込まれている。


「ユウっ!!」


 一葉が叫んだ。ただ、その声は目標には届かずに、何人かの警官達が振り返って「おい、こっから先は駄目だ!」と行く手を遮られてしまう。太い腕がのど元に食い込んで、それでも一葉はなんとか前に出ようとする。


「ユウーーーーーーーーっ!!」


 力一杯呼びかける。それでようやく呼ばれた本人が気付いたようで、力なく振り返った顔には諦めとも悲しみともつかない乾いた表情が浮かんでいた。次の瞬間、無情にもその顔は黒いバンの中にあっさりと消えてしまい、すぐさま門の外へと走り去ってしまう。


「そんな……」


 一葉にできることは嘆きの声と共に座り込むくらいだった。両の瞳には一粒ずつ涙が浮かんで、それを拭いながら振り返ると、はっとしたような仕草をする。いつの間にか隣で瀬尾せお先生が立ち尽くしていたのだ。少しだけずれた丸眼鏡を正す様子もなく、紫がかった唇はうわ言のようにこう繰り返していた。


「やっぱり、そうなのね……。やっぱり、ユウ君が……」

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