惨劇の始まり(九)
誰もいない学校の廊下っていうのは何度見ても寂しいもんだ。
乳白色の壁一つ挟んだ教室内ではさっきまで僕とダイチを包んでいた喧噪が行き交っていて、ドアの隙間からは
ただ、それは決して悪いばかりの感覚じゃない。むしろ、こうして独り歩いていると、本来の僕の居場所はここなのだという一種の安心感さえ湧いてくる。
この高校に入学して以来、僕はなかなかクラスに馴染むことができずにいた。もともと友達付き合いが苦手な性分でもある。三ヵ月を経て、結局は同郷のカズハやコハルと話すばかりになってしまった。
唯一の例外がダイチと言ってもいい。不思議な奴なのだ。特にきっかけがあったわけでもなく、急に話しかけてくるようになって、こっちはむしろ距離を置こうとしたくらいなのに、そのままなし崩しに頻繁にクラスで話すようになってしまった。
ダイチがもともと広く人懐っこい性格ならそこまで気にならない。だけど、様子を見ているとどうも僕にだけやたらと積極的なのだ。控えめに言っても整った顔立ちに抜群の運動神経、どう考えても僕には不釣り合いだ。なんで僕なんかと、って疑問がどうしても頭をよぎってしまう。
「この事件が起きて、俺はまず思ったよ。ああ、とうとう人間に手を出したか……ってな」
つい先ほどのダイチの言葉が、染み出した喧噪に混ざって、頭の中で思い起こされた。
「動物殺しが止まらなくなって、犯人が一向に捕まらなくて、死んだアヤコが首を求めてる……なんて噂がだんだん広がり始めたんだ。アヤコノノロイだって言って。でも、俺はそうは思わない。きっと誰か別の奴がやってるんだ。ひょっとしたら過去の動物殺しだってアヤコじゃないのかもしれない。だから、だから……俺は絶対に……」
ダイチの言葉はそこまでしか続かなかった。その後、「悪い」と呟いて自分の席に静かに戻っていってしまったのは、自分でクールダウンしようとしたのだろうか。ただ、並々ならぬ決意が内には秘められているのは容易に見て取れた。
一方で僕自身はどうだろう。今も事件に首をつっこんではいるものの、それはあくまでも自分の無実を証明するためだ。事件の真相、真犯人なんて、言ってしまえばどうでもいいのだ。自分の無実さえ証明されさえすれば。
それでいいのか?
ダイチの言葉を聞いた後で、そんな風に僕の意識の片割れが叫び始めたような気がした。
もちろん怖い。この事件はまるで得体が知れない。真相にたどり着けば、自分の大切な何かが
だけど、そろそろ僕も真実に向き合う覚悟を持たないと、このまま何もわからずに事件に
例えば、今朝から一つ悪い可能性が思い浮かんでいる。
コハルが言っていたように、
悪夢や幻覚で見る首なしの少女の姿、あれは悪霊と化した藤崎綾子なのかもしれない。そして僕の行く先々で当時のクラスの担任、生徒を殺し続けている……。そんなことが、はたしてあり得るのだろうか。だけど、これまでの犠牲者の三人とも僕の近くで殺されたことになる。
ダイチと話した後、こうして廊下に出ているのは、トイレに向かった
問題は僕が今までろくに瀧川と言葉を交わしたことがないことだ。その上にあの勝ち気でとげとげしい性格。まともにいって良い結果になるイメージはどうしても湧いてこない。
ごめん、ちょっと事件のことで聞きたいんだけどさ。
……だと、ちょっと直球すぎるか。こんな廊下まで追いかけてきて何? とか邪険にあしらわれそうだ。うーん、どうしたものだろう。こういうセンスの無さには泣きたくなる。
トイレまではもうあとわずかの距離だ。しょうがない、こうなったら出たとこ勝負――
そんな風に心を決めかけた瞬間、不意にトイレの扉が開いた。ただ、それは予期していた女子の方ではなく青い男子の方の扉だった。
「あ」
「お」
軽い驚きの言葉が交差する。
すぐさま僕を後悔の念が襲った。どうして軽々しく一人で出歩いてきたのか。中から出てきたのは
反対に、頭一つ高いところで、水滴の残る油屋の顔には嬉々とした笑みが浮かんでいた。捕食者を前にした草食動物のような気持ちになって、ぞくりと背筋に悪寒が走る。
このまま無言でやり過ごそうか。挨拶でもしてすり抜けようか。そんなとっさの判断も下せぬまま、濡れた大きな手が伸びてきて左腕をがっしりと掴まれてしまった。
「よお、
ぎりり、と締め上げられるような痛みが腕に広がる。
そしてその痛みでようやく僕は理解したのだ。混沌はとうに始まっているのだと。この底知れぬ事件を中心に、僕ら一人一人の思惑が大きな渦を巻き始めて、きっと僕らはその渦に呑み込まれて奥底へと引きずり込まれてしまうのだ。光も届かない、ずっと深い闇の中へと……。
「うわっ!」
乱暴に空き教室の中へ放り込まれて、ボーリングの球みたいに机や椅子にぶつかっていく。がしゃんがしゃん、と仲良く悲鳴を上げたその中の一つに手をやって、なんとか姿勢を立て直した。
「な、なにすんだよ!」
我ながらなんとも凄みのない台詞だった。
実際、油屋は教室の入口で薄ら笑いを浮かべたままだ。その眼は半分生気が失われていて、表情も昨日よりかなりやつれている。
いずれにせよ、今は冗談抜きにまずい状況だ。油屋の手には奪い取られた僕のスマホが握られている。連絡を取れないようにして、この後僕に何をするつもりなのか。考えるだけで脚が震えた。
そこで、教室内から別の声が上がる。
「緑川じゃねえか。アブ、どうしたんだ? こいつ」
「ちょうどそこで見つけてよ。連れてきたんだ」
周りを見渡すと、状況はさらに絶望的だった。天然パーマの
「おい、入口ふさいどけ。こいつが逃げないようにな」
そう言いながら油屋は僕のスマホを後藤に投げてよこした。後藤はそれを気だるそうに片手でキャッチすると、まだニヤニヤとこっちを見ながら入口のドアの一つのカーテンを閉め、その前で腕組みをしながら寄り掛かる。もう一つのドアも同じように人が立って塞がれてしまった。簡単には抜け出せそうにない。
後ろの窓も全部厚手のカーテンが閉まっていて、外からは中が見えないようになっていた。八方塞がりとはこのことだ。
「さあて、尋問を始めるか」
油屋が腕まくりをしながらにじり寄ってくる。一歩、二歩……手を伸ばせば届きそうな距離まで縮まって、本能的に身構えた。
「尋問って……何の真似だよ」
油屋は足を止め、
「わかってんだろ。ミカ、そして
ぐぐっと上体を曲げ、至近距離まで顔を近づけて、
「ぶっ殺す」
ドスを利かせるように短く言い切った。飛んだ唾が顔にかかる。
顔をしかめる僕のことなんか気にする様子もなく、油屋はまた上体を戻して言った。
「聞けばお前、ミカの死体を一番に見つけたんだってな。五十嵐の時もそうだった。……お前、犯人見てんじゃねえのか?」
「し、知らない! 油屋だって、昨日近くにいたんだろ? そっちこそ何か――」
ドッ――
突然の
「――がっ……あ……」
痛みと苦しみで床をのた打ち回る。
「ひゅー」
「うわ、エッグイの入ったな」
後藤達から嘲笑の声が上がった。
真上からは、
「おい、今質問すんのは俺だ。次また余計なことを言ってみろ。お前もぶっ殺すぞ」
と、さらに脅しをかけてくる。
ただ、僕があまりにも苦しそうにもがいたからか、後藤から声が上がった。
「でもよ、暴力もやりすぎはヤバイんじゃね? 後がメンドイからよ。なんか別の……そうだ、アブ!」
なんとか床に転がりながら目を向けると、後藤はこれまでで一番
「こいつ、暗闇が苦手なんだよ」
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