惨劇の始まり(七)

「ねえユウ君、聞いてる?」

「うわっ」


 コハルの顔が大きく目の前にあった。いきなり傘の中へ頭をつっこんできたのだ。

 のけ反ると傘まで傾いて、ここぞとばかりに雨粒が僕とコハルの顔を叩いていく。それでもコハルは気にする様子もなく「えへへ」とはにかんだ。濡れたポニーテールがふわりと揺れる。


 下校の道、ひびだらけのアスファルトを僕らは並んで歩いていた。カズハにプリントを届けるという役目を負いながら。


 道の右側では鬱蒼うっそうとした緑がせり出して、シャワーを浴びた木々から滴りそうなほど濃密な深緑の匂いが漂ってくる。反対側は水田だ。広々と田んぼが広がって、植えたばかりの稲の足元では幾匹ものアマガエルが喜びの声を上げていた。


「えっと……ごめん。なんだっけ?」


 その言葉はまずかった。コハルまでカエルみたいに顔を膨らませてしまう。


「もー失礼しちゃうよね。こんな可愛い女の子が隣を歩いているっていうのに、ユウ君はずーっと上の空なんだから」


 可愛いって自分で言うかな、とも思ったけど、指摘したらさらにへそを曲げそうだ。大人しく話の続きを待つことにする。


「ほら、カズハちゃんのこと。お隣さんなんでしょ? 今も一緒に遊んだりするのかなって……。学校でも時々話してるみたいだから」


 ああ、その話だ。それを思い出そうと、懐かしさの中でコハルの話を半分くらい聞き逃していた気がする。


「うーん、最近は全然だよ。でも最初は結構あったかな。ほら、五年くらい前、たちばなさんが隣に引っ越してきてすぐ。ちっちゃい弟がいて、がくって名前なんだけど、あいつ、むしろ僕の方に懐いてたくらいだったから」

「ふうん」

「けど、ガクは身体が丈夫じゃなくて、段々外に出てこなくなってさ。で、橘さんとも段々……みたいな」


 話しながら、カズハの様子を改めて思い出す。もともと感情の起伏がないなって思っていたけど、次第に輪をかけて無感情になっていったのを覚えている。

 ただ、時々顔を合わせたときは寂し気というか、何か訴えるような視線をくれる感じで、モヤモヤしたものがずっと胸の奥につっかえていた。


 隣で「ふうん」と、コハルがまたも思わせぶりな相槌を打った。

 いまいち興味の度合いはわからなかったけど、胸のモヤモヤが流れ出す機会をずっと待っていたみたいで、僕の口は止まらなかった。


「あと、親同士がなんかぎくしゃくしてるんだよね」

「お、なんかお隣っぽい話だね」

「ほら、こういう片田舎だと近所付き合いって色々あるじゃんか。でも橘さんちは頑なにそういう繋がりを断ってるっていうか、排他的なところがあってさ。やりにくい、って前に母さんが愚痴ってた。だからかもしれないけど、僕が橘さんと遊ぶのも、あまり良い顔しなくて――」


 そこまで言って、自然と言葉が途切れた。

 気づけば僕が住むかわら屋根の平屋建てが、すぐそばにある。だけどそれより目立つのがその後ろだ。少し離れたところに、さらに大きな白い立方体の建物がずっしりと腰を落ち着けていた。


「あの四角いのがカズハちゃんの家だよね?」

「ああ」


 よく知らないが、カズハの父親は名のある芸術家だという。この田舎には似付かわしくないデザインの建物も、そう聞くと納得してしまうものがある。窓の少ないその中はアトリエも兼ねているとかで、一緒に遊んだ時もカズハは決して僕を中に招き入れてはくれなかった。


 ただ、今はその建物の中より外だ。この雨の中、二つの人影が傘もささずにその壁に寄り掛かっている。カズハとガクだった。


「カズハ、ガクも、何やってるんだよ」

「……別に」


 小走りで駆け寄った僕らを前にして、カズハは気まずそうに目を逸らした。「やほ」と笑いかけるコハルに対しても冷たい態度は変わらない。

 ガクは隣でしゃがみこんで、小さな背中を壁に預けている。両目の焦点はどこか合っていなくて、思わずゾっとさせられるものがあった。


「何しに来たの?」


 カズハがぶっきらぼうに吐き捨てる。


「いや、プリント……」


 間抜けな答えが僕の口から出てきた。ここで渡しても、きっとすぐに濡れてしまう。


「ふーん、直接話す時は“橘さん”じゃなくて“カズハ”なんだねー」


 コハルは一人納得するように呟いていた。

 そんなのどうだっていいじゃないか、と口を尖らす僕には目もくれず、彼女はそのまましゃがみこんで、


「おうちに入れないの?」


 と隣のガクに話しかける。たっぷり十秒ほど経って、傍目にはそうとわからないほど微かにガクの頭が縦に動いた。


 そこからのコハルは速かった。いきなりガクの細い両腕をがしりと掴んで引っ張り上げると「行くよ!」と叫んで走り出す。走りながらもしっかりガクの腕をつかんだままだ。


「行くってどこへ!?」

「もちろんユウ君ちー!」


 叫んだ僕に、無邪気な答えが返ってくる。

 いやいや、ちょっと待てって。なんで僕の家なんだ。カズハを残してどうしろっての?


「ほらほらー! カズハちゃんも早く屋根のあるとこ行こうよー! 風邪ひいちゃうよー!」


 雨粒の波紋が混ざり合う田んぼの上を、コハルの声がこだましていった。

 恐る恐るカズハを振り返る。


「私は一人で歩けるから……」


 彼女は酷い頭痛でもかかえたみたいにおでこに手をやっていた。







 というわけで我が家に四人が集まってしまった。僕にコハルにカズハとガク、同級生の女の子が二人も同じ屋根の下にいる。

 父さんは仕事でいない。母さんも普段はいるはずが、車がなくなっていた。買い物に出ているのかもしれない。


「ねえシャンプーどれ使ったらいいかなー?」


 風呂場からコハルが声を上げた。


「母さんのを使って、ピンクのやつ!」


 しかも女の子二人はこれから風呂だいう。コハルが強引に話をまとめてしまった。風邪をこじらせないように、ってのはわかるんだけど、こっちだって健全な男子なんだ。なんだかいけないことをしている気分だ。この状況はちょっと刺激が強すぎる。

 ああ、だめだだめだ。

 煩悩ぼんのうめ、消えろ消えろ。


 ただ、そんな僕の目の前にはびしょ濡れのガクが佇んでいる。少し大きめで所々ほつれたTシャツ姿、うちに上がってからも一言もしゃべらない。まさに消沈といった様子は僕なんかとは大違いだ。ずっと魂が抜けたように部屋の壁を見つめている。おかげで舞い上がった僕が馬鹿みたいだった。


 とりあえず、風呂は順番待ちだとしても、身体ぐらい拭いてあげないと。


「なあ、何があったんだ?」


 タオルを取り出しながらいてみる。ガクは全くの無反応だ。

 仕方ないな、と頭をタオルで拭こうとして、あることに気付いた。

 唇が破けていて少し赤い。口の中、怪我しているのか? でもどうして……。


「きゃっ」


 同時に、風呂場の方からコハルの短い悲鳴が聞こえた。


「コハル、どうしたー?」

「な、なんでもない。だいじょうぶだから……。こっち覗いちゃだめだよ!」


 最後は少しお茶らけていたが、なんとなく深刻な口調で、嫌な予感がしてガクのTシャツを急いで脱がす。出てきた中身があまりに衝撃的で、思わず脱がしたシャツを床に落としてしまった。水をたっぷり含んだそれが、ぐちゃ、と重々しい音を立てる。


「ひどいな……」


 痣だらけだ。肩から腹にかけて、ほとんどまだら模様に青黒い丸が点在している。

 どう見ても殴られた痕だ。誰に? そんなこと、決まりきっていた。

 所々火傷のような痕も見つかって、見ているだけで何か熱いものが込み上げてくる。抑えていなければきっと怒りで叫びだしていたに違いない。

 まず僕にできること、丁寧に丁寧にガクの身体を拭いていく。壊れ物を扱うように、願わくはその心に再び温かさがこもるように。


「ユウ兄ちゃん…………ありがとう」


 タオルがその身体の上を何往復したかわからない。ようやくガクが口をきいた。かすれて消えそうなお礼の言葉だった。

 一瞬手を止めかかったものの、どうしていいかわからなくて、また同じように身体を拭いていく。


「ユウ兄ちゃん……優しいな。ユウ兄ちゃんが……お父さんならよかった。母さんはカズハ姉ちゃんで……三人で新しい家族……」


 とても聞いてはいられなかった。

 歯がゆくて、ぎゅっと唇を噛みしめる。


 ズザザ――


 そこで、タイヤが砂利を掻き鳴らす音が外から聞こえてきた。母さんの車だ。戻ってきたのだ。「ただいま」の後すぐに玄関の靴の多さに気付いたらしい。


「ユウ? 誰か遊びに来てるの?」


 そう言いながら廊下を歩いてきて、ガクの身体を拭く僕と目が合った。

 一瞬にして、にこやかだった母さんの顔が凍り付いた。まるで見てはいけないものを見てしまったかのように。

 実際、母さんの中ではそうだったのだろう。どさり、と買い物袋を床に落として、にわかには信じられない言葉を吐いた。


「ユウ、やめて。その子とは関わっちゃ駄目なの」







 ……そこでようやく目が覚めた。また、明日が来てしまったのだ。


 気づけば僕は白いベッドシーツの上でうつ伏せになって倒れていた。

 夢の内容は割とはっきりと覚えている。寝覚めは最悪に近い。首なしの少女とは別種の後味の悪さがあった。たぶん昨日、瀬尾せおさんとあんな会話をしたから……。


 きしむ身体をなんとか引きずってカーテンの隙間を覗く。

 外は相変わらず陰気な雨が降り続いていた。弱まる気配は微塵もない。太陽の光を拝めるのはまだしばらく先になりそうだった。

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