惨劇の始まり(六)
「なあカズハ、僕はもう頭が変になってしまったのかな……?」
自分の部屋に戻った後、ベッドの上で膝を抱え、スマホ越しにそんなことを問いかけてみる。
「知らない。あなたが正常かどうかなんて、誰に判断できるというの? その判断をする私は正常なのかしら」
いかにもカズハらしい返答だった。
その言葉はきっと薄い壁を隔てた向こう側でも小さく響いているのだろう。同じ屋根の下に居ながら、別々の部屋で、今僕らはスマホを通して繋がっている。
「冷たいな。そこは嘘でも励ましてくれるかと思ってた」
「別に……。ユウまで気休めで満足するのなら、そうしてもいいけど」
その言葉は暗に
「でも、ユウは連続殺人犯なんかじゃない。もし、まかり間違ってそんな心配をしてるようなら、そこは私が保証する」
僕の不安なんてお見通しか。
振り返ってみると、中学の
「ありがとう。……でも、なにも励ましや禅問答を期待して電話したわけじゃないんだ。単にお礼が言いたくて、さっきのこと」
「……別にいい。私は何もできなかった」
「いいんだ。うれしかったから。……ありがとう」
スマホの向こうはしばらく無言だった。
「この殺人事件……本当に何も関わっていないわよね?」
暗い車の中で、運転席から投げかけられた
「瀬尾さん、そんな言い方――」
言い終わらぬうちに丸メガネの奥から鋭い視線が飛ぶ。
「カズハちゃん、これは大事なことなの」
ぴしゃり。こうなるともうカズハは声をあげられない。ここでは瀬尾さんが家主であって、カズハはどこまでいっても
「別に疑っているわけじゃないの。ユウ君もわかるでしょ? あなたが殺人犯だなんてこれっぽっちも思っているわけじゃないけど、一緒に暮らしている以上はそこをなあなあにして、わだかまりを抱えたままではいけないと思うの。いわばこれは儀式なのよ。私達が普段の生活に戻るための儀式」
聞いていて、少しだけうんざりした気分になった。
きっと僕らには嘘発見器のような器官があって、その場の空気からなんとなく読み取ってしまうものなのだ。綺麗事を並べて装飾してはいるももの、それが本心のままだとはとても思えなかった。もしかしたら瀬尾さんだって、自分自身を騙そうとしているのかもしれない。
「……何も関わってませんよ」
僕の答えが本心かどうかも、さして重要じゃないのだろう。それを聞いた瀬尾さんは、
「よし、じゃあもうこの話は終わりね」
と強引に結論付けて、すぐさま車のエンジンをかける。
そこから家に帰って、夕飯を済ませて、それぞれの自室に戻るまで、奇妙なくらい僕らの間には会話は生まれなかった。本当は名取が殺される間際のこととか、カズハに確認したいことが沢山あった。だけど、話そうとしたら、
「その話は終わりって言ったでしょ」
と運転席から釘を刺されてしまって、瀬尾さんがいる前ではとてもじゃないけど話せる雰囲気ではなくなってしまった。おかげでテレビで事件のニュースを確認することもできず、さっきになってようやくネットで報道の過熱ぶりを知ったばかりだ。
……もっとも、新しい情報は何も見つけられずに落胆したわけなのだけど。
「あまり過度な期待はしない方がいい。親なんて、一番の協力者にもなり得るけど、一番の敵にだってなり得るのだから……」
やや遅れてカズハがそんな警告を返してきた。ましてや私達は疑似家族だし、とでも続くのだろう。あまりに達観した物言いは、彼女のこれまでがそうさせるのだろうか。そこに思いを馳せて、ほんの少しだけ、悲しみが胸をチクリと刺した気がした。
「まあでも事件もそろそろ解決されるのかな。ギスギスするのも今だけの我慢かも――」
「ユウ、それ本気で言ってるの?」
電話口からはナイフのように鋭利な返事が突き付けられてしまった。この暗い雰囲気を和ませようと前向きな言葉を選んだつもりだったけど、どうやら逆効果だったらしい。
「ユウ、まだ気を抜いちゃ駄目。この惨劇はまだ始まったばかりで、これからどんどん酷くなるはずよ。明日も、いや、今夜これからだって何が起こるかわからないつもりでいて」
カズハの言葉には、どこか確信めいた力強さがあった。そんなの、いったい何を根拠に言っているのだろうか。
「それならカズハ、そろそろ聞かせてくれよ。あの光景が何なのか」
「……何のこと?」
「わかってるだろ? 後で教えてくれるって話だったじゃないか。赤い空に赤い雨、世界の終わりが浸蝕を始めたって、いったいどういうことなんだよ?」
「…………」
ふう、とカズハの長いため息が聞こえてきた。話すことをためらう様子、その理由が僕にはよくわからない。
今、彼女はどんな表情を浮かべているのだろう。
「私も……しっかりと理解してるわけじゃないから……。空は赤く、雨も赤く、あの光景はどこか現実を越えたものがある。ねえユウ……まだ、何も思い出さないの?」
前と同じ問い。それを聞いた僕の頭の中で、小さな痛みがゆっくりと鎌首をもたげた。
「思い出すって、何をさ。一昨日のことか? 中学の先生が殺された――」
「ううん、もっと前」
前? 前って、いつだよ?
「今日、あの光景の中で私、言ったよね。世界の終わりが
「ああ、言った」
「私たちは一人ずつ取り込まれてしまう」
「ああ」
「元凶を見つけないといけない」
「ああ、それも……」
痛みがじくじくと広がっていく。
「なあカズハ、どうしてそんなこと知ってるんだ?」
「やっぱり……何も思い出さないんだね」
鼻をすするような音がスマホの奥からかすかに聞こえた気がした。
泣いている……のか?
「だって、これを教えてくれたのは……ユウ、あなたじゃない」
僕?
その瞬間、これまでで一番強い痛みが頭の真ん中を突き抜けて、弾けた。ベッドの上で頭を抱えて、
カズハの言っている意味がよくわからない。わからないわからない。だって、だってだってだって、そんなことを僕が知るわけがないじゃないか。世界の終わりがなんだって? 赤い空、赤い雨、赤い、赤い、赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い――
赤い床――
気づいたら、目の前、ベッドの下、部屋の床が真っ赤に染まっていた。そして現れている。
首なしの少女。
本当に、目と鼻の先、手を伸ばしたら触れられそうな位置にそれは立っていた。どこまでも残酷なその姿。今も首の断面からはどくどくと赤い液体が噴き出し続け、白いブラウスをじっとりと赤く濡らし、両の腕を伝っていつまでも床の上にしたたり落ちていった。その両腕がゆっくりと持ち上がる。まるで僕の頭を包み込むように――
「――ユウ? ユウっ! 大丈夫!? そこにいる!?」
スマホから響くカズハの声がすんでのところで僕を引き戻した。
いつの間にか部屋は元の姿に戻って、首なしの少女の姿も蒸発したかのように消え去っていた。
「……ああ、いる。いる。いるよ」
汗が流れ込みかけた口でなんとかそれだけを返す。
頭の痛みは少し弱まりながらも、まだ僕の脳みそを
「ユウ、今は信じられないかもしれないけど、私達が居た
カズハが何かを言いかけていた。たぶん重要なことなんだろう。だけど頭が悲鳴を上げている。付き合うだけの気力がもう僕には残っていないみたいだった。
「ごめん、ちょっと気分悪くなってきたかも……。もう……寝るよ」
途切れ途切れの息のまま、そう伝えるのが精一杯だった。
カズハは少し考え込むような間があったのだけど、
「そう。……また明日」
と無感情に返してきて、最後に、
「ユウ、私、待ってるから」
という言葉と共に通話を終えた。
待ってる。それはきっと僕が思い出すのを、か。
カズハの言っていること、とても信じられなかった。だけど、僕の中の嘘発見器がずっとずっと強く主張している。最初から最後まで、カズハは全て本当のことを言っていた、と。固い確信があった。そうなると……。
ズキリ……。
またも痛みが思考の邪魔をする。
今日はもうやめよう。そう諦めるとなんだか痛みが和らいでいくような気がした。スマホを放り出し、大の字になってベッドに寝っ転がる。
また、カズハに心配をかけてしまったな……。
あ……心配と言えばコハルはどうなったんだっけ…………?
無事に家まで帰れたのだろうか…………。
一度……連絡を入れておいた方がいいよな………………。
強まる思いとは裏腹に、まぶたはどんどん重くなっていく。放り出したスマホに再び手を伸ばすものの、指は最後までそれに届くことはなかった。
結局、
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