惨劇の始まり(五)

 驚いたことにコハルは何も覚えていない様子だった。

 空が赤く染まっていたこと、自身が不気味な姿に変異していたこと、何をいても、「ごめん」「わからない」ばかりで完全に暖簾のれんに腕押し状態になっている。


 そんなはず――


 出かかった言葉が自然と途切れる。

 あの時のコハルの様子は確かに理性があるようには見えなかった。覚えていないとしても無理はないのかも……。


 一昨日のこと覚えてないの?


 頭の中でカズハの言葉が再生される。

 僕だって一昨日は姿をくらまして、戻ってきたときには何も覚えていなかったとか……。コハルにも今、同じことが起きているのかもしれない。

 それに一瞬頭をよぎったあの映像は、一昨日のことだったのか。同じ線路沿いの道で、僕はあの状態のコハルに会っていた? 言いようのない気持ち悪さが胸の内に溜まっていく。


 そうこうしていると、次第に蟻が群がるようにあたりには野次馬が集まりだしていた。住宅地の一角で起きた連日の殺人事件ともあって、あっという間に噂が広がったのだろう。

 暗い雨雲の空にサイレンが遠く聞こえた。警察の到着にはまだ少しかかりそうだ。


 転がっている名取の無残な姿はやっぱりどこか近寄りがたく、誰もが遠巻きにうろうろと様子を伺っていた。

 ある一人を除いて――


「ミカ! おい、嘘だろ……。ミカ! ミカ!! あああっ!!」


 人だかりを割って駆け寄ってきたのは同じくクラスメートの油屋あぶらや勝巳かつみだった。存命の望みなど抱きようがないその姿に、油屋はどう触れたらいいのかもわからない様子で、ひたすら彼女の名前を喚き散らしていた。繰り返されるその悲痛な叫びは、無情に降り注ぐ雨の雫の間を縫ってどこまでも響き渡りそうな気がした。

 あまりにも居たたまれなく感じて、その場から離れるように人だかりの間をすり抜けていく。すれ違う中にはその光景を撮影している人もいた。それには少しばかり吐き気を覚えた。


 カズハの姿が見当たらないのであたりを見回していると、踏切の脇、通りを挟んだ反対側に佇む彼女の後ろ姿を見つけた。電柱の足元にはうず高く積まれた白い花束と何本か並んだ缶コーヒーがあって、カズハはじっとそこを見下ろしている。

 僕の後ろにぴったりついてきたコハルが悲しそうに声をかけた。


「殺された中学の先生へのお供えだね……」


 カズハはそれには応えずに、少しだけの沈黙の後、


「スミレの花……」


 とぼそりと呟いた。

 僕が「お、おい」と制止するのも聞かず、カズハは置かれている白い花の山を両手でかき分けて、その真ん中に埋もれていた十輪ほどの小さな花束を取り出す。少し紫がかった花びらは、よくよく見れば布花ぬのばなのようなクラフトフラワーで、雨に打たれながらもその形を変えてはいなかった。


「気になるのか?」

「うん……。供花としてスミレは珍しいし、時期も違う」

「時期?」

「スミレは春の花。咲くのはせいぜい五月まで」


 瞬間的に、一人のクラスメートの顔が脳裏をよぎった。かき上げられる黒のロングヘア、瀧川たきがわ澄玲すみれ……短絡的な連想だろうか。


「この花にしたい理由が何かあったのかな?」


 コハルが素朴な疑問を口にする。僕もカズハもそれには答えられなかった。そもそも事件に関係はあるのだろうか。殺された望月もちづき先生へ供えられた花なのか、あるいは……。何かが掴めそうで掴めない。そんなもどかしい思いで僕らはしばらくその紫色の花びらを眺めていた。




 ポタリ――




 不意に、雨よりも一回り大きな水滴が一粒落ちてきて、カズハの手元の花びらの上で弾けた。元をたどるように視線を上げていき、


「あ」

「あっ!」


 僕とコハルがほぼ同時に声を上げた。ずっと探していたものがそこにあった。

 監視カメラだ。電柱の中腹に取り付けられた金属製の四角い箱から、丸いレンズがちらりと顔を覗かせている。


「ねえ、これ! 事件の様子も記録されていないかな?」

「ありそうだな」


 久しぶりに期待に胸が膨らんだ。おそらく踏切の入り口の様子を収めるという責務を負ったそれは、斜角を見る限りは線路沿いに伸びる道の奥、名取の殺害現場も十分記録範囲に含めているように思えた。


「よかったね、ユウ君! これで変な疑いは晴れる……それこそ犯人が捕まって――」

「ああ、事件も終わるかもな」


 この忌々しい出来事からようやく解放されるかもしれない。僕らの声は希望に弾んだ。

 だけどただ一人、カズハだけはずっと無言で、浮かない顔のまま名取の殺害現場をぼんやりと眺めていた。


 やがてサイレンの音が無視できないくらいに大きくなって、パトカーが一台、続いて赤い回転灯を点した黒い車がもう一台、踏切の向こうからやってきた。野次馬もそれを見て、足早にその場から立ち去る人もいれば、死体を指差しながらパトカーに歩み寄っていく人もいて、辺り一帯が目まぐるしく掻き混ぜられ始めた。

 車から飛び出してきた数人の警官は、名取の姿を確認するや、すぐにブルーシートを道一杯に広げて僕らの視界からそれを遮り、野次馬を外に追いやっては無線で何かを交信し始める。

 油屋もまるで引きずられるようにして名取から引き剥がされていったものの、まだ感情の昂ぶりが抑えられないらしく、近くにいたやや年配の女性の肩を揺さぶっては大きな口を開けて何かを叫んでいた。何を言っているのかは続々と到着する他のパトカーのサイレンにかき消されてよく聞こえなかったが、突然、散々に揺さぶられていた女性の頭がぐるんとこちらに向き、指が僕らにむかっておずおずと差し向けられた。


 最初に見つけたのは誰だ?


 たぶん油屋はそんなことを尋ねていたんだろう。般若はんにゃのようになった油屋の顔がゆっくりとこちらを向いて、目が合った。赤いランプの光を浴びて、そのまなこは燃えるように赤く輝いていた。


 ただ、その光景はいきなり現れた黒い影によって遮られた。


「また……お前さんか」


 熊のような広い肩幅に、唸り声のような咳払いが雨の中で響いた。


「おまけにまたこの場所か……」


 病院以来の再会となる日野ひの刑事が、傘を持たない方の手でボリボリと白髪混じりの頭を掻いていた。

 そして、まるで僕の頭の中が見えているんじゃないかってくらい、この熊男は僕が思ったままを口に出してなぞるのだ。


「面倒なことになってきたな……」







 ただ、最初にそう思っていたよりも、日野刑事への説明は遥かにスムーズにこなせたと思う。

 突然空が赤く染まって、カズハと二人逃げるように走り出したら名取さんにばったり会って、ほとんど喧嘩別れみたいになって、変な音がして確認しにいったら名取さんが首なし死体になっていました。

 これをほとんど一息で話し終えた。


 半分支離滅裂なのは前回の病院の時とそんなに変わらないのだけど、それでもどこか落ち着いて話せたのは、やはり一回目の経験があったからなのだろう。殺人事件の事情聴取なんて経験しないに越したことはないが、二回目となっては間違いなく一回目の経験が糧になっていた。

 あとはカズハが一緒にいたということ、踏切に監視カメラがあったことが、ありのままを話す勇気に繋がっていたように思う。


 カズハは加賀美かがみとかいった黒縁メガネの刑事に連れられていって、離れたところで同じように説明をさせられている。コハルや油屋も、僕のところから姿は見えないがおそらく同じ状態だろう。そこかしこで傘が乱立して事情聴取が行われている。

 僕のところには少し若めの警察官が加わって、わざわざ隣で僕のために傘を余分に広げてくれている。おまけに濡れた身体を拭くためのタオルまで渡してくれた。割と至れり尽くせりなところもあるものだ。


 日野刑事は最初のうちは「コハルって誰のことだ?」とか「空が赤いってどんな風に?」とか、意外なほど丁寧に一つ一つ確認を入れていけれど、たぶん僕の供述があまりに現実離れしていたのもあって、途中から「うーん……」と唸ったまま目を閉じてずっと考え込むようになってしまった。

 最終的に、


「わかった、もういい」


 という言葉が吐き捨てられたのは、その前の言葉からたっぷり三十秒ほど経過した後になってのことだった。ひょっとしたらもう僕なんかの証言よりも、踏切のカメラの映像を確認した方が早いとか、そういう判断もあったのかもしれない。

 日野刑事はまた前回と同じように胸ポケットに手を差し込んで、おそらくは録音を停止してから、


「気を付けて帰れよ」


 と一言だけ残して立ち去ろうとする。


「あ、このタオル……」


 という僕の中途半端な問いかけには、「やる」の一言だけで、こちらを見るそぶりもなく他の警官達に合図を送り始めた。何とも飾り気のない優しさに、僕はありがとうのお礼も言えないまま立ち尽くしていたけれど、お供の警察官まで傘と共にいなくなってしまったので、慌ててそのタオルで頭を覆う羽目になる。

 どうせなら傘もくれないかな、なんて欲張りな目でその背中を追っていたら、大通りにライムグリーンの軽自動車がハザードランプを点けたまま停まっているのを見つけた。

 脇では瀬尾せおさんが傘をさして立っていて、同じようにタオルを手にしたカズハが今まさに車に乗り込もうとしている。


 慌てて僕も駆け込んでいく。


 もう今日は散々だ。もう今日は沢山だ。


 昨日から立て続けに訪れる非日常の数々に、僕の心はすっかり疲れ果ててしまっていた。

 苦笑いを浮かべる瀬尾さんの傘の中でまた身体を拭いて、手前半分が空いていた後部座席に思いっきり身体を投げ込んだ。


「はあーーーーっ」


 盛大なため息が漏れる。まだ慣れない車の中で、安堵の気持ちが身体中に広がり始めていた。


 だけど瀬尾さんが運転席に回って、シートベルトを締めながら半身でこちらに投げかけた言葉が、そんな気分を粉々に叩き壊してしまうのだった。


「ねえユウ君、この殺人事件……本当に何も関わっていないわよね?」

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