惨劇の始まり(屍)

 突然の名取なとりの登場に、僕は完全に面食らっていた。

 それは向こうも同じようで、手を繋いだままの僕らを見て、名取は尻餅の状態であんぐりと口を開けたままだ。

 カズハだけ、大通りの先を眺めたり、いきなり振り向いて踏切の方を確認したり、しばらく辺りを見回していた。おそらくあの山羊頭やぎあたまの行方を探しているのだろう。あまり目の前の名取のことは気に留めていないようだった。


「立てる?」


 とりあえず名取へ手を差し伸べてみる。


「ああ、えっと、その……あんがと」


 やや混乱しながらも僕の手を掴んで立ち上がった名取は、「うんしょ」と呟いて通学カバンを肩に掛け直した。猫やウサギをあしらったキーホルダーの群れがジャラジャラと音を立てる。


「うあ……スカートもバッグもびしょびしょ、サイアク……」


 それを言ったらこっち二人はもっとびしょ濡れなわけだけど、特に気にする様子もなく名取は転がっていたビニール傘を拾い上げる。

 それを見て、もう大丈夫と判断したのか、


「ユウ、行くよ」


 と言葉少なにカズハが立ち去ろうとした。

 腕をぐっと引っ張られて「おっと」とこぼした僕の声は、


「ちょ、ちょっと待ってよ!! 置いてかないでってば!!」


 名取の叫び声でかき消された。ほとんど悲鳴に近かった。


「マジでさ、こここれ、なんなのかな? アタシ、さっきまでアブッチと一緒に帰ってたんだよ? そしたらきゅきゅ急にアブッチいなくなるしさ、空だって赤くなってるし、血みたいな雨がざーざー降ってるしさ……」


 足を止めて半身で振り返ったカズハの眼差しは不機嫌を隠す気配すらなくて、まだ何か用? って顔にありありと書いてあったけど、名取はお構いなしに一気にまくし立てた。と思ったら今度はガサゴソと通学カバンを漁って、金ラメのデコデコしいスマホを見せつけてくる。


「ほ、ほら、スマホだって電源入んなくって、もうアタシ、どうしたらいいかわかんなくって……」


 言葉の通りディスプレイは真っ黒だった。自分のをポケットから取り出してみると、確かにこっちも電源が入らない。カズハはどうだ? って言いかけた時には、カズハは僕の手を握ったまま一歩前に踏み出していた。近づいてきた名取に向かって冷たく言い放つ。


「悪いけど、私達も手一杯なの」


 おい、さすがに薄情じゃないか?

 そう言おうとしたのだけど、またカズハに鋭い視線で制されて、僕はもごもごと口を動かすだけになってしまう。


 名取は一瞬だけ、何を言われたのかわからないという風にぽかんとして、だんだんと顔がこの空みたいに真っ赤に染まっていった。


「な、なにそれ。意味わかんない。……ああそう。そういうこと言うんだ」


 もう手遅れだった。僕らの間には亀裂が入ってしまったのだ。名取の声はさっきまでの不安よりも、不満や憤りの方が完全にまさってしまっていた。


「いーよ、わかったよ。こんなわけわかんない状態なのに二人仲良く手え繋いじゃってさ。邪魔して悪うございました! なによ、カズハって、いつも緑川みどりかわと一緒にいるから優しい子だなって思ってたけど、結局他の人のこと考えてないんじゃん!」


 名取は開いた傘をブンッと振り回すようにして背を向ける。赤い水飛沫が僕らの顔に襲い掛かった。思わず顔をしかめる僕の斜め前で、カズハは動じる様子もなく名取をじっと見ている。


「ねーえ、アブッチー! どこ行ってんのよー! ほんとこいつらサイアクでさー!」


 名取はそのまま悪態をつきながら、僕らがやってきた線路沿いの道へと向かっていった。そしてその角に消える直前に、


「ばーーーーーーーーーーかっ‼」


 こっちを振り返って最後っ屁をかましていった。さすがに気分が悪い。

 ただ、こんな風になってしまった原因の一部もこちらにあるわけで、


「いいのか?」


 とカズハにいてみると、彼女は小さく頭を振って、また大通りの先を見据えた。すでに思考は切り替わっているようだった。


「いいの。……とにかく今はこの浸蝕しんしょくの元凶を見つけないと」

「あ、その元凶ってやつ、さっきの山羊頭がそうなのか?」

「いえ、違うわ。いや、そうとも言えるのかもしれないけど……」


 珍しく歯切れが悪い。

 僕の頭もようやく冷静さを取り戻して、少しずつカズハの言葉を消化できるようになってきた。おかげで、ある疑問が膨れ上がってくる。


「なあカズハ、この光景が何か知っているのか? 僕には今何が起きているのか、さっぱり分らないよ」


 カズハは僕の目をじっと見つめた後、悲しそうに視線を落として言った。


「……ごめん。その説明は後で。今はこの状況から抜け出すことを優先しなきゃ」

「でも……」


 そんな答えで納得なんかできるものか。不満が口から噴き出しかけた。

 だけどカズハもかたくなだ。ここで意見が割れたら、それこそ良くない結果になる気がする。今、譲歩すべきは何も知らない僕なのだろう。はやる気持ちをぐっと押さえつける。


「わかったよ。……それで、何をすればいい?」

「ありがとう。他に人を探しましょう。特に、学校の生徒か教師に注意して」


 元凶は人間なのか? 若干の違和感を覚える。


「さっきの名取さんは元凶じゃないのか?」

「違うと思う」

「どうして?」

「もし彼女だったら、きっと私達はもう死んでるから」


 死――


 その冷たい響きに、思わず息を飲んだ。今置かれている状況が冗談抜きで緊迫したものだということをカズハの黒い瞳が語りかけてくる。僕はその言葉を咀嚼そしゃくしながら、本当の本当に本当なんだろうか、とまだ頭のどこかで迷っていた。


 ふと、コハルのことが頭をよぎった。名取が向かった先には残してきたコハルがいる。


「なあ――」


 やっぱり僕、コハルのところへ戻るよ。そんな僕の言葉は、




 どしゃり……。




 スイカが砕けるような生々しい音によって断ち切られた。思わず横にいるカズハと目を見合わせる。その音は、名取が向かった道から聞こえてきた気がした。


 続けて真横から強い風が吹き荒れて、一瞬だけ僕は左手をかざして目をつぶった。

 再び目を開けると、嘘みたいに雨は色を失って、空も辺りの住宅街も元の薄暗い雨模様に戻っていた。線路には電車の車両はなく、踏切のバーはまた空に向かって一直線に上がっている。


 今までの光景はなんだったんだろうか。そう思い直す間もなく、開かれたままのビニール傘がいきなり風に乗って曲がり角から現れて、まるで何かから逃げるかのようにコロコロと転がって大通りに飛び出していった。


「おい、今の……」


 なんとか震えた声を絞り出す。隣でカズハののどがこくりと動く。

 僕らはまだ手を繋いだまま、どちらともなくゆっくりと線路沿いの道へと近づいていった。

 やがてその水溜りだらけの暗い道を見渡せるようになって、十メートルくらい先に仰向けに倒れている人の姿を見つけた。

 いや、果たして人と呼べるのだろうか。それは頭を失った首の断面をこちらに向けて、キャップを失ったボトルのように中身の血液をどくどくとこぼし続けていた。そばには通学カバンが落ちていて、ジャラジャラした猫やウサギのキーホルダーが血溜まりに浸っている。


「名取……」


 それ以上、言葉が続かなかった。ほんの数十秒前まで言葉を交わしていた相手が、今は物言えぬ冷たいむくろと化して地面に転がっている。その事実の重さに押しつぶされそうだった。


 するり、とカズハの手が僕から離れていく。それはこの怪異の終わりを告げていた。


「もしもし、警察ですか? 殺人です」


 いつの間にか電源が戻ったスマホで、カズハが警察に電話を始めている。いつだって彼女は冷静だった。


「そうだ! コハルは――」


 電流が走ったように頭が跳ね上がった。

 コハルは大丈夫なのか!? もし、同じように死んでしまっていたら……嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。そんなのは絶対に……!!


「コハルーーーーーーーーーーっ!!」


 ありったけの声で、道の向こう、川の方に向かって叫んだ。だけど、道の上にはコハルの姿は影も形もない。


「ユウ君、私ならだいじょうぶだよ」


 真後ろ――


 その返事は完全に予想外の方向から飛んできた。

 いつの間にそこにいたのか。コハルは大通りを背にして、白い傘の中でポニーテールを揺らしていた。


「コハルっ!!」


 思わず駆け寄ろうとして、心の中の何かがブレーキを掛けた。


 いつ、後ろに回っていたんだ?

 さっきまで目から血を流していたあの姿はなんだったんだ?

 なあ、まさかとは思うけど、名取を殺したのはひょっとして……。


 だけど、真っ赤に染まっていたはずの彼女のブラウスは、はぐれる前の真っ白に戻っていて、鎖骨のあたりが雨に濡れて薄っすらと肌色が透けて見えた。


 何が何だかわからない。

 そんな僕の疑い、恐れ、迷い……全てを見透かしたかのようにコハルは繰り返して言った。


「だいじょうぶだよ」

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