惨劇の始まり(惨)

 下校途中の道のりは物々しさを増していた。

 校門ではマスコミ関係者と思しき数人がいて、それをそそくさとすり抜けていくと今度はパトカーとすれ違った。否が応でも事件のことが頭をよぎる。


 カズハとコハルと三つの傘を並べて、一昨日と同じくらいの時間に学校を出て、同じくらいのペースで歩き、午後四時になった場所を確認したのがつい三十分くらい前のこと。今、案の定と言うべきか、防犯カメラ探しは暗礁に乗り上げていた。


 歩いている最中から嫌な予感がしていたけれど、四時になったのは線路の高架をくぐってすぐのところだった。一番人気ひとけがないところと言ってもいい。

 そこを中心に三人一緒になって防犯カメラを探すのだけど、見つからない。コンビニすらないこの界隈を散々探し回って、ようやく少し外れた古い電機屋の入口にそれを見つけたと思ったら、坊主頭の店主に「これ、防犯用の偽物フェイクで動いてねえのよ」と言われ、頑張りムードもすっかり消沈してしまっていた。


「まだ諦めるのは早いよね!」


 力なく戻ってきた探索の中心地点で、コハルが声を張り上げる。その音が高架下のコンクリートの壁にぶつかってグワングワンとハウリングした。無理に作った明るい声はこの殺風景にはどこか場違いで、ひとしきり周囲に響いた後は少しばかりの虚しさしか僕らの間には残っていなかった。言い出しっぺのカズハなんか餌が見つからなかった野良猫みたいな顔をしていたし、僕も敗戦間際のサッカー選手みたいになっていたと思う。


「私、もっかい回ってみる!」


 それでも流石は小稲生こいなせの元気印、コハルはまた気丈に駆け出して行った。向かったのは最初に巡った川沿いの道ではなく、直角に伸びる線路沿いの道だ。白い傘と揺れるポニーテールがどんどん小さくなっていく。


「あんまし独りで遠くにいくなよーっ!」


 事件のこともある。心配になってそう叫ぶと、コハルは振り返ってグッと右手の親指を立てて掲げた。


 離れて行く背中を見守っていると、その先、ずっと遠く、線路がなだらかに降りていって空と地面が混ざり合うあたりに小さく踏切が見えた。そこは少し大きな通りになっていて、ちょうど安全バーが降りてきたのか、排水溝に引っかかった落ち葉のように車と傘が溜まっていく。


「気になる……?」


 カズハが声をかけてくる。


「あのあたりが……そうよ」


 何が? とくまでもない。先生殺しの現場であり、そして去年、藤崎ふじさき綾子あやこなる女子生徒が自殺した場所だ。


「どうして……自殺なんてしたんだろうな」


 半分独り言のように、カズハに問いかけた。

 考えにくい出来事のようで、案外理由なんてゴロゴロ転がっているのかもしれない。昨日のテレビでもいじめ自殺のニュースがあったし、家庭内の不和、不治の病、生活苦、失恋……ひょっとしたら好きな芸能人が死んだとか、他の人にはどうでもいいことだったりするのかも。


 カズハは答えなかった。ただ静かに少し傾けた傘の中で、ずっと僕を見ていた。


 突如、けたたましい轟音が降ってきて、僕らの頭上を電車が走り抜けていく。

 ガタンゴトン、ガタンゴトン、電車の規則正しい足音が鳴り響く。

 心臓の鼓動がつられて動く。


「ねえ、ユウ……一昨日のこと覚えてないの? この辺りを下校してた時のこと」


 ガタンゴトン、ガタンゴトン。


「ちょうどこの辺りでね、急にユウが居なくなったの」


 ガタンゴトン、ガタンゴトン。


「時間にして数分くらいだったと思う。それで、探してたら、この道を独りでぼんやりと歩いていて……」


 ガタンゴトン、ガタンゴトン。


「でもユウは何も覚えていないみたいだった」


 ガタンゴトン、ガタンゴトン。


「ねえ……信じていいのよね?」


 心臓が一際大きく跳ね上がった。


 なんだよ、それ。今言ったこと、本当なのか? だって、いつも通り二人で歩いていたろ?

 今のが本当だったら、先生殺しの方の僕のアリバイはなくなって、そしたら僕が殺人犯候補ど本命じゃないか。

 おかしいよ。だってカズハ、今、君はそんな奴と人通りのないこの道の上で二人きりだ。次の瞬間、君は頭を失って無残なしかばねに仲間入りしたっておかしくない。


 ズキリと、また頭が酷く痛んだ。

 脳裏に浮かんだのは、コハルだ。いつものあの笑顔じゃない。両目は真っ赤に充血し、滝のように血の涙を流している。肌は血色を失ってほとんど真っ黒だ。まるで死に際のような形相ぎょうそうで、そんなコハルがこの線路沿いの道で独り立ち尽くしている。


「違う……違う……違う……」


 様々に駆け巡った思考をうわ言のように必死で否定する。ずっと僕の眼球はぐるぐると忙しなく動いていたと思う。それでも僕はカズハのことをなんとか視界にとらえ続けていた。

 カズハは目の前で、諦めと不安が混ざったような悲しげな微笑を浮かべている。それがだんだんと判別できないまでにぼやけていき、




 ぐにゃり――




 完璧なまでに視界が歪んだ。

 辺りの空気が変色する。

 気づいたらまた空が赤黒く染まり、住宅地は灰を被ったように白くなって、そこへ真っ赤な雨が降り注いでいた。いつも夢で見たような光景だ。


 いや、一つ今回は決定的に違っている。

 目の前にカズハが立っているから。


「これって……」


 カズハはなんとか捻り出すように、そう一言。ゆっくりと上空を見回して、赤と黒の渦巻き模様を見つめていた。


「カズハ、この世界なんだ。夢でいつも見ていて、首なしの少女が出てくるんだ」


 カズハは無言のままだ。

 駄目なのか?

 心のどこかでは、カズハなら、何か知っているんじゃないかって思っていた。

 だけど、カズハの顔に浮かんでいるのは戸惑いやそのたぐいのように見えた。


 そうだ、コハルは――


 はっと思い返して、踏切へ続く道を見やる。

 コハルもまたこの世界に紛れ込んでいた。踏切に続くアスファルトの道のど真ん中で、ポニーテールの後ろ姿が立ち尽くしている。手元に傘はない。赤い雨が容赦なく彼女に降り注いでいた。


「コハル!」


 駆け寄ろうとしたその瞬間、ぐいっと右手を後ろに引っ張られた。思わずよろめいて、僕も傘を手放してしまう。

 カズハの白い左腕が僕の右手首を掴んでいた。

 何するんだよ、と言おうとした僕の先を制して、よく見て、と黒い瞳で促される。


「アアァー……アァー……」


 地獄の淵から聞こえるような、不気味な声が雨音に混ざって響いた。

 それがコハルの口から漏れ出ていることに最初のうちは気づかなかった。まるで脳みそを失ったかのように力なく響くその声は、普段の明るい声とはかけ離れていたから。


 ゆっくりとコハルが振り返る。

 あごはだらしなく下がり、両目の焦点はてんで合わず、瞳は真っ赤に充血して、そこから血のような涙が流れていた。白い制服がほとんど真っ赤に染まっている。

 まさに生ける屍だった。


 同じだ。さっき頭によぎった映像と……。


 だけど今の状況がまるで理解できない。理解なんかできるものか。

 なあコハル、いったい何が――


「おぶえっ……」


 堪えきれずに嘔吐した。

 胃酸がのど奥を痛めつけ、白い地面を茶色く汚す。


 次の瞬間、今度は腕が前に引っ張られた。

 カズハが走り出していた。


「ユウっ!! 動ける!? 走って!!」


 転びそうになりながらも、何とか立て直す。

 いつの間にか傘をうち捨てていたカズハは、変わり果てたコハルを大きく避けて、僕は引っ張られながらもそれについていった。

 すれ違いざま、空いた左腕を目一杯コハルに向けて伸ばす。コハルは無反応だ。僕の手は彼女の左肩ぎりぎりをかすめて空を切った。


「ああ、くそっ! コハルが……。ねえ、ねえってば! 何が起きてるんだよ!?」


 カズハはまだ前を見ていた。

 その先に視線を向け、ようやく気付いた。

 線路の上に停まったままの電車の車両に人の気配はなく、踏切の前に停まっていた白いワゴン車からは運転手の姿が消え、そしてその間に何かがいる。

 木炭を組み合わせた様な真っ黒で直線的な長い四肢、しかしその上に乗っている頭は人間のそれではなく山羊かカモシカのように見えた。二本の対になった太い角の下で、真っ赤な両の目がこちらをじっと見つめている。

 奇妙なことに、そいつは身体を動かすそぶりもなく、まるで氷の上を滑るように白いアスファルトの上を移動して曲がり角に消えていくのだ。


「な、なんだよ。今の……」


 カズハが少しだけ振り返って叫んだ。


「ユウっ! 今、世界の終わりが浸蝕しんしょくを始めた! 私達は一人ずつ取り込まれてしまうの! だからその前に、元凶を見つけ出して対処しないといけない! だから……私の手をしっかり掴んで離さないで! わかったっ!?」

「……わ、わかった!!」


 なにが、わかった、なものか。

 カズハが言っている意味は全くもってわかってなどいなかった。かろうじて最後だけだ。唯一理解できたその言葉に従って、白く細い手首をしっかりと握り返す。


 カズハの走る速度が上がった。

 僕は振り返る。一度。もう一度。コハルは変わらず棒のように立ち尽くしていた。

 コハルをこのまま置いていくのか?

 首がもげそうなほどに後ろ髪を引っ張られながら、僕の頭は沸騰したように熱くなって何も考えられなくなっていた。


 カズハはもう振り返らない。赤い雨の雫を気にする様子もない。一心不乱に山羊頭やぎあたまの影を追っている。

 そいつが消えた角がどんどん目前に迫ってきて、光を完全に失った踏切が見下ろす中で、僕らは大通りへと飛び出していった。


「きゃあああっ!!」


 その瞬間、すぐそばで鋭い悲鳴があがった。


「あ、な、なんだ、カズハじゃん……。い、いきなり飛び出してきたからビビったわ……」


 目の前で、制服をだらしなく着崩した女の子が尻餅をついていた。長い爪の左手で胸のあたりをさすっている。

 クラスメートの名取なとり美香みかだった。

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