ある日常の終わり(六)
問題の教室は渡り廊下を戻ってすぐのところだ。
窓ガラスが割られるなんて、一昔前の不良の学校みたいだ。正直この学校で起こるのは意外だった。何があったのか様子くらい見ておいてもいいだろう。
目的の教室はすぐに視界に入り込んできた。
どうやら被害は窓ガラスだけじゃない。廊下側のドアが一つ外されていて、そこにも白くテーピングが
ためらいよりも好奇心が勝り、テーピングをくぐり抜けて教室内に入り込んでみる。するとすぐ脇の掃除用具入れのロッカーがベコリと凹んでいて、窓枠も奇妙に歪んでいた。どちらも相当に強い力が働いたように見える。
「何がしたかったんだろうな……」
教室を壊す、その意図がよくわからなかった。
このクラスに恨みでもあったのだろうか。そういえば
教室の真ん中でしばらく考え込んでいると、窓の外、校門へ続く道の上に見覚えのある姿を小さく見つけた。黒縁メガネに黒いスーツ。……確か
いつからそこにいたのだろう。黒い傘を少し傾けて、こちらに視線をくれているようだった。
偶然……そう思いかけたところで、甘い考えを改める。
僕のことを尾行してきたんだ。病院からずっと。
うすら寒いものを感じた。強烈に、この場から離れたい
そうだ。あまり時間をかけても良くない。カズハと瀬尾さんが戻ってくる前には昇降口に居ておこう。
そう思って廊下を振り返った、その時だ。
ぐにゃり――
視界が歪んだ。平衡感覚を失って立っていられなくなる。思わず近くの机を掴んで目をつぶった。
なんだろう、今の感覚は。
恐る恐る目を開けると、変わらずそこは学校の教室で、ただ、すぐに違和感に気付いた。
色がない。
茶色かったはずの床、机、椅子。深い緑だったはずの黒板。すべてがモノクロームに変わっていた。廊下の蛍光灯の明かりまでもが消えている。
「あ」
反射的に弱々しい声が口から漏れた。それは教室の空気を力なく震わせては僕の耳をじわじわと犯し、やがて雨音にかき消されていく。
雨――
窓の外に向き直り、景色の変わりように
また、あの悪夢だろうか。いや、あの夢とは違う。
昨晩の記憶がよみがえって、不安が一気に膨れ上がる。さっきまでいたはずの加賀美刑事を目で探すも人っ子一人見当たらない。
とにかく昇降口へ。
その目的だけをかろうじて思い出した。きっと昇降口に戻ればカズハがいる。
意を決して灰色の廊下を振り返る。昇降口までは距離にして十数メートル、たったそれだけだ。
テーピングの下をくぐり抜けて、まずは廊下へ右足を一歩踏み出す。つま先に感じる廊下の感触、徐々に体重をかけて音を殺す。頭をあげて、廊下を左右とも奥まで見渡した。
誰もいない。でも足音をたてれば、たちまち怪異が飛び出してくるかもしれない。そんな嫌な想像をすぐさまかぶりを振って消し去った。
進むのは昇降口への最短コース。この緊張の中、音を殺して歩くのは、深い雪の中をラッセルするっようなもので、たった数歩で脚が
そして昇降口への曲がり角にようやくたどり着いた時、
びちゃ……。
僕の右足が水音をたてた。たててしまった。完全に迂闊な足音だった。後悔が恐怖と共に脳を一気に
恐る恐る見下ろすと、いつのまにか廊下は一面真っ赤に染まっていた。
血。血。血――
真っ赤な血がどろどろと廊下を流れ、僕の上履きを汚していく。
「うわ、ああ……ああ……!」
堪えていた悲鳴が、とうとう歯の隙間からぼろぼろとこぼれ落ちた。
そして僕はたどってしまった。血の流れを。まるで吸い寄せられるように視線を上げて、
「ひっ」
いた。行く手を塞ぐように。昇降口の手前だ。夢で何度も目にした首なしの少女が薄暗い廊下の真ん中に現れていた。
見間違うはずがない。切れた首からどくどくと鮮血があふれ出て、どろどろと床に流れ落ちて、彼女の足元を中心に沼のように広がっていく。
目の前で首なしの少女は微動だにしない。
鮮血が、さらに廊下を広がって、辺りを赤く赤く塗りつぶしていく。
赤く、赤く、赤く赤く赤く赤く赤赤赤赤――――――
「ユウッ!」
突然、真正面から強く声をぶつけられ、意識が揺さぶられた。一瞬、ハンマーで殴られたかとすら思ったほどだ。
気づけば眼前すぐそばにカズハの黒い瞳があって、たまらず僕は驚きのけ反る。
いつの間にカズハはこんなに近くに、いや、今はそれより――
急いで廊下を見渡したけれど、世界はいつの間にか嘘のように色を取り戻していて、今はただの薄暗い校舎内になっていた。
首なしの少女も、流れていた血も、文字通り影も形もなくなっている。
「ユウ、大丈夫? なんだか、ぼうっとしてたみたいだけど……」
「ぶはっ……はあっ、はあっ」
ようやく呼吸をすることを思い出した。溜まっていた空気を吐き出して、なんとか息を整える。
「ねえ、本当に大丈夫? メッセ送ったのに、全然反応がなかったから……」
大丈夫か、と
今の体験はなんなのか。幻覚? うまく説明できそうにない。
それに、見たことそのままを説明したって、カズハの心配を助長させるだけなのは目に見えていた。
「あ、うん、大丈夫……だと思う。でも……ちょっと疲れてるのかな」
そう言って無理やり自分自身を納得させる。疲れて変な幻覚をみた。それが一番説得力のある説明のような気がしていた。
「そう。とにかく瀬尾先生がもう車を出して待っているから……行こう」
カズハもどこか腑に落ちない様子だったが、
「ああ」と答えて、後に続こうとしたその瞬間、
ブブブブ――
僕のスマホが制服のポケットで控えめに自己主張をした。取り出して見てみると、ちょうどメッセが届いたところだった。差出人は……カズハだった。
『昇降口で待ってる』
何でもない内容……。でもこのタイミングで届いたことが、とてつもなく気味の悪いものに感じられた。きっとカズハが言っていたメッセとはこれのことだ。
なぜ、それが今になって届いたのだろう。たまたま電波状況が良くなかったのか、あるいは……。
なんだか、考えるれば考えるほど思考が汚されていくような気がした。溢れ出る気味の悪さを振り切って、僕はただカズハの後を追いかけていくのだった。
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