ある日常の終わり(五)

「ユウ君!」


 呼ばれた方を向くと、太陽のような明るい笑顔が走り寄ってきた。雨宮あまみや小春こはる、小さな白い傘の中で茶色いポニーテールが波打っている。

 彼女は僕から二、三歩のところで止まって、少し低い背丈から大きな瞳でいたずらっぽく見上げてくる。


「おやおや、こんな時間に登校とは。いい御身分ですね! しかも女の子まで連れ添いで!」

「なっ、ち、違うって! 病院にいたんだよ!」


 開口一番にからかってくるコハルに対して、つい返す言葉が大声になってしまう。周りからもチラチラと視線を感じて、慌てて声のトーンを落とす。


「殺人事件に巻き込まれて、気づいたら病院だったんだ。それでカズハに迎えに来てもらったんだよ」


 僕の返答を聞くなり、コハルは少し苦笑を交じりで目を細めた。


「ごめんごめん、話は聞いてるよ。大変だったね。怪我はないの?」

「ああ、僕は大丈夫。コハルは相変わらず元気そうだね」

「もちろん。なんてったって小稲瀬こいなせの元気印だからね!」


 かつての自身の呼び名と共に、コハルはぐいっと傘を持っていない方の腕に力を込めた。力こぶは全然膨らんでいないようだけど、コハルは気にする様子もなく白い歯を見せてニカリと笑う。


 ああ、やっぱり彼女の笑顔だな。この笑顔を見るたび、なんだかあったかくなって救われるような気がする。


「そうだね。僕も元気をださないといけないな」

「うん。五十嵐いがらし君のことは……ほんと残念で、やるせないけど、でも、あたし達は亡くなった人達の分まで元気に生きなきゃいけないんだと思う」


 まるで自分に言い聞かせるかのように話すコハル、その顔を見て思い出した。昨晩もコハルの笑顔を見たことを。

 君はあそこにいたのか?

 ……そうこうとして、さすがに馬鹿げた質問だなと思い留まる。あれは僕の心が見せた幻だろうに。


「ユウ、そろそろ……」


 隣でカズハが僕を促す。確かに、雨の中で話し込んでもしょうがない。


「じゃあコハル、ちょっと先生に用があって。……また明日。気を付けて帰ってね」

「うん、また明日。カズハちゃんもまた明日ね」


 別れ際、僕もなんとか笑顔を作ってみた。少しわざとらしかったかもしれない。

 コハルはまるで笑顔で生まれてきたんじゃないかってくらい、僕よりもずっと自然な笑顔でくすくすと笑って、反対方向へ歩いていった。

 遠ざかる小さな背中を名残惜しく見送って、前を歩き始めたカズハを追う。







 昇降口から中に入ると、すでに瀬尾せお先生が待っていた。どうやらカズハが連絡を入れてくれたみたいだ。

 先生は僕を見るや、頭の先から足元までまんべんなく視線を巡らせる。


「わざわざ呼び出してごめんね。……病院に運び込まれたって聞いたから心配していたけど、本当に大丈夫そうね。安心したわ」


 そう言った先生はパーマの掛かったかったライトブラウンの髪をなびかせて、トレードマークの丸メガネをクイと細い指で押し上げた。いつもは明るい色のジャケットを着るイメージがあったけど、今日は上下とも黒の出で立ちだった。


「ここじゃなんだから……二人ともついてきて」


 瀬尾先生はそう言って校舎の裏側へ伸びる渡り廊下の先、別棟へと向かっていく。別棟には幾つか空き教室があって、先生はその中の一つを適当に選んで扉を開け、乱雑に置いてあった机と椅子の三つをひとまとめにした。カズハも戸惑う様子なくその中の一つに腰掛ける。まるで機械工場の滑らかさで三者面談の準備が整った。


「いろいろきたいんだけど――」


 先生の興味はやっぱり昨晩のことで、そうなると病院に続いての事情説明になるわけで、カズハへの説明を入れたらもう三度目になる。もはや慣れたものだった。適当にかいつまんで話すと、先生は一つ一つ相槌を入れながら聞いていた。


「それにしても無事でよかった。夜中に起こされて、ユウ君が戻らない、って聞いた時は心臓が止まるかと思ったもの」

「……すいません、心配かけました」

「本当に無事でなにより、ね。今後は深夜に出歩くのは考えてよね。少なくとも事件が収まるまでは」


 それは……。

 ずっと続けていた習慣をやめるのは少し抵抗があったけど、隣を見るとカズハも肯定の眼差しでこちらを見ている。大人しく従っておくしかないか。


「あと、校舎の窓ガラスが割れていたのを見たかしら。ユウ君、あれについて何か知らない?」

「いや、別に学校に来てたわけじゃないので……」

「そう……」


 言うなり瀬尾先生は目を閉じて、深くため息をついた。だいぶ疲れている様子だ。

 そこでカズハが横から質問を挟む。


「警報は鳴らなかったんでしょうか。防犯カメラとかも……」


 確かに、夜に校舎の窓が割られたのなら警備会社が駆けつけてもよさそうだ。


「それがね、どうしてかわからないけど警報も防犯カメラも作動していなかったらしいの。警備会社の人が言っていたわ。故障しているかもしれないから調べてもらっているんだけど……」

「怖いですね」

「でしょう? 肝心な時に動いてくれないなんてね。警察もなかなか状況を教えてくれないし……。もう誰の仕業かはわからないのかしら……」


 警察、その言葉で二人の刑事を思い出した。

 彼らはこの学校の件と今回の殺人事件を関連付けるだろうか。……きっと、そうするだろうな。となると僕に関連する材料が増えることになる。今後また話を聞かせろってことになるかもしれない。思わず僕もため息が漏れる。


「まあいいわ。今日はここまで」


 瀬尾先生が、悪い空気を振り払うように言った。


「それじゃあ僕らはこれで帰りますので」


 僕もそう言って立ち上がり、カズハもそれに続こうとしたけれど、すぐさま先生が呼び止めた。


「あ、カズハちゃんはもう少し残ってくれる? ユウ君もその間どこかで少しだけ待っていてよ」

「はあ」


 意図が読めずに僕が間抜けな返事をすると、瀬尾先生は内ポケットから車のキーを取り出して、得意げに指で一回転させた。


「送っていくよ?」


 顔を見合わせる僕とカズハだったが、それを見ながら瀬尾先生は苦笑して言った。


「たまには家族っぽいことさせてよ」







 そうして三者面談はあっさりと終わって、僕だけが教室外に放り出されてしまった。瀬尾さんいわく「女同士の話もあるのよ」ということらしい。


 瀬尾先生こと瀬尾せお静香しずかさんは僕の叔母にあたる。直接の親子関係ではない。カズハに至っては完全に血の繋がりもない。それでも僕らは今、三人で家族だった。

 僕とカズハは今、この先生の家にお世話になっていて、奇妙な共同生活が始まってからそろそろ一年近くが経とうとしている。


 一年前、家族を亡くした僕とカズハを瀬尾さんは温かく迎え入れてくれた。完全に身寄りのなかったカズハも事情を説明したら二つ返事でOKを出してくれたのだ。簡単な決断ではなかったはずだ。

 住居だけじゃなく、自分が勤める学校へ通わせるために助成金やその他諸々の手続きまで。この人の助けがなければ進学や今のような生活は望めなかっただろう。それについては本当に感謝しかない。


 カズハはどうも生活費として毎月いくらか納めていると聞く。瀬尾さんも無理にとは言わなかったようだが、カズハも頑として譲らなかったらしい。もともと裕福な家庭の育ちで、その貯えが残っているということらしいけれど、詳しくは教えてくれなかった。その話になるとカズハは「大丈夫だから」の一点張りで多くを語ろうとしない。


 今回も家庭のことでデリケートな話でもあるのだろう。僕に気を遣ってくれているのかもしれないが、そこに加われないのは少し寂しくもあった。……まあ、僕が加わってもあまり力にはなれないだろうけど。


 しかし時間を潰すにしても、ここ学校では特にやることがない。少し考えて、自然と足は窓ガラスが割られた一階の教室へと向かっていた。

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