ある日常の終わり(七)
グイッグイッ――
グイッグイッ――
ワイパーが一定のリズムでフロントガラスを拭いていく。きちんとワックスがけをしているのだろう。水滴だらけになっても一拭きですぐ先が見渡せるほど綺麗になった。でも、すぐまた水滴で覆われてしまう。
ライムグリーンの軽自動車の中は余計な小物が一切ない。ベージュの座席に白のシンプルなクッションだけが置いてある。
「もうそろそろ一年ね」
瀬尾さんが運転席から話しかけてくる。
僕は後部座席でそれを聞きながら、ちらりと横目で右に座るカズハをうかがった。カズハは我関せずといった様子で、左手で畳んだ傘を支えながら、濡れたガラス窓から通り過ぎる街の様子をずっと見ていた。会話を任された僕の相槌も「そうですね……」と、まるでやる気のないものになってしまう。
何のことかはわかっている。六月二十日、僕の両親、そしてカズハの両親と弟が亡くなった日からもうすぐ一年が経つ。瀬尾さんにとっては実の姉を亡くした日でもある。
あの頃もずっと雨が降り続いていた。僕とカズハは
らしい、というのは、その災害のことを僕がはっきり覚えていなくて、いまひとつ現実感がないのだ。あまりにショックが強かったんだろう、とか言われて精神科に通ったりもしたのだけど、結局その時のことはぽっかりと記憶から抜け落ちたままになっている。
さらに聞くところでは、土砂崩れが川をせき止めて、洪水を引き起こして町の大部分が水に流されてしまったという。災害全体では百余名が亡くなって、ほとんど町全体が死に絶えた格好となった。
これまで復興はまったくと言っていいほど進まず、役場のあった場所にせめてもの形で大きな慰霊碑が設置されている。僕の両親の遺体もついに見つからないままだ。これまで何度か瀬尾さんに連れられて、その慰霊碑の前で手を合わせたのだけれど、やっぱり心の整理がつかないままで、今もあんまり悲しい気持ちは湧いてこない。
「また、三人でお参りに行こうね」
瀬尾さんがそう続ける。僕も当然そのつもりではいた。だけど、もちろんです、と応えるのも、行きましょう、と前のめりになるのも何か違う気がした。少し考えて、また僕は「そうですね……」と気のない返事をするのだった。
バックミラー越しに見た瀬尾さんの顔は困ったような、安心したような、複雑な表情をしていた。
そうこうするうちに赤信号に差し掛かる。エンジン音が消えて、雨が窓ガラスをポツポツと叩く。気まずい沈黙が車内に満ちて、しばらく僕は手元の傘を弄って気持ちを誤魔化していた。
ちらりとまたカズハを見ると、彼女はまだぼんやりと外の様子を見つめている。彼女も家族を失って辛いはずなのに、涙を流したり、怒ったりする様子はこの一年を通しても記憶にない。ずっと平静そのものだ。その顔の裏ではどういう気持ちでいるのだろうか。思い切って
十五分くらいかけて、ようやく今の我が家に戻ってきた。雲に覆われた空の下は、夕方にもなるとさすがに薄暗い。
綺麗に先が揃えられた背の低い植込みの中、築三十年の年季を誇る二階建てが
「今日はたぶん遅くなるから、夕飯は二人で先に食べてちょうだい」
瀬尾さんは僕ら二人にそう言い残して来た道をまた戻っていく。遅くなるんだったらわざわざ僕らを送らなくてもいいのに、とも思ったが、素直にその厚意に感謝しつつ、ライムグリーンの流線形が遠ざかっていくのをしばらく見送っていた。
その姿が曲がり角に消えてからカズハの方を見ると、彼女はもう門を開けて玄関のドアに手をかけているところだった。
「……ってことみたいだけど?」
とカズハの背中に投げかけてみる。
正直そんなに食事をしたい気分ではなかったけれど、よくよく思い返せば今日は朝から何も食べていない。時が過ぎれば意思に関係なくお腹はすいてしまうもので、空腹が少々気持ち悪い。何かしら食べておいたほうがよさそうだ。
「ありもので何か作る。……少し待ってて」
ガチャリと鍵の開く音がした。特に意に介す様子もなくカズハは家の中に入っていく。
こういう時はたいていカズハが料理を担当してくれる。共同生活が始まって最初の頃は僕も料理にチャレンジしていたのだけど、何度目かの挑戦の成果物を前にして「ユウはもうキッチンに立たなくていい」とばっさり切り捨てられてしまった。あの時のカズハの冷たい目は生涯忘れることはないと思う。
服を着替えて、先にリビングを独占する。硬い椅子の背もたれに身体を預けてテレビを点けると、ちょうどニュースでこの町の事件について報道しているところだった。
『――被害者は中学校教師の
テレビでは二人の顔写真も流れていた。ああ五十嵐ってこんな顔だったな、なんてぼんやりと思い出す。
望月先生の方は短髪で、運動ができそうな印象以外はあまり特徴のない顔立ちをしていた。記憶を探しても今まで顔を見たことはない……気がする。なかなか頼りにならない記憶だけれども。
カズハも少ししてからリビングへやってきた。紺色のゆったりとした七分袖のシャツに黒いハーフパンツ。制服と比べて華奢な印象がいっそう強くなった。
「事件のニュース?」
「ああ、ちょうどやってた」
『怖いですよ。この近くでそんな事件がおきるなんて思ってなかったです、はい』
『立派な先生だっただけに、残念……。犯人に強い憤りを覚えます。早く捕まってほしい』
『いい奴だったのに、殺されてしまって……ほんと悔しいっていうか、もう一緒に遊べないんだなって……』
地元住民として何人かのインタビューも流れたりした。中には
どうやら、まだ犯人は捕まっていないらしい。それどころか容疑者の名前すら挙がらなかった。疑われている身としてはこのあたりも気になるところだ。なにか犯人に繋がる情報はないものか、食い入るように画面を見つめる。
だけど、数十秒もしないうちにニュースはあっさりと次の話題に切り替わってしまった。いつものように地域のニュースが続いていく。どこそこの議員の汚職があった。どこそこの道路で自動車が事故をおこした。どこそこの生徒がいじめを苦に自殺……暗いニュースばかりだった。
背中の向こう、キッチンからはトントンと包丁がまな板を叩く音や、ジャアジャアとフライパンで炒める音がする。いい匂いが漂ってきた。
やがてテレビの話題はスポーツになり、プロ野球の交流戦を制するチームはどこかについて、整った笑顔達が持論をぶつけあっている。さっきまでの暗い話なんて忘れてしまったかのように……。
実際、僕らの地元で二人が殺された、なんてことは全国レベルで見たらその程度のことなのかもしれない。自殺、事故、そういうものも含めたら毎日百人規模で死者が出ているこの国で、たまたまその内の二つが昨日この街で発生したというだけ……。
「できた」
カズハがテキパキとテーブルに料理を並べていく。トマトサラダに
そして、ラインナップには肉が一切使われていないことに気付いた。
ああそうか、昨晩死体を見た僕を気遣ってくれているのだ。
カズハの黒い瞳に視線を向けると、「なに?」と
「いや、いつもありがとうございます」
指摘するのは野暮ってもんだろうか。素直に礼を言ってから「いただきます」と手を合わせ、一口つまむ。
「……うまい」
自然と声が漏れた。油断したら泣きそうだった。
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