ある日常の終わり(三)
「だから転んだ時に染み込んだって言ってるじゃないですか」
最初、馬鹿正直にそのままを説明しようとした。だけどあの光景自体、僕もよくわからないのだ。普通に話しても怪しまれるだけだと思って、
「夜にランニングしていて、暗闇で死体がよく見えなくて、
そんな
「どうしてすぐに通報しなかった?」
最初に飛んできた質問がこれだ。が、単純に、ランニング中は携帯を持たないようにしているというだけで、そもそも見てすぐに卒倒してしまったのだ。通報など無理だった。
そしたら次がシャツについた血について質問されて、これが今まで延々と続いている。
たぶん意図してなのだろう。同じ質問が繰り返されたりして、こちらも自然と語気が強まってしまう。返り血ではないかと疑われているようだけど……。
日野刑事は質問の最中もずっと僕の目を凝視し続けていた。嘘をつく隙はとてもじゃないがありはしない。むしろその鋭い視線を見返すことすらできなくて、その下の無精髭で荒れたあごのあたりを僕はずっと見続けていた。実際、冗談抜きで森で熊と遭遇したような気分だった。
「じゃあその前、午後四時頃は? 何していた?」
次の質問は少し意外だった。
ふと、カズハと並んで歩く記憶が呼び起こされる。
「その時間は、普通に下校していた……と思います」
「証明できる人は?」
「カズハが一緒でした。
その答えに日野刑事はやや
「あの、その時間にも何かあったんですか?」
「……もう一人殺されているんだ。中学の方。
酷い。この街で一日に二人も殺されるだなんて、相当な騒ぎになるんじゃないだろうか。
面識を
すると日野刑事は改まって、
「それで血の付いたシャツのことなんだがな……」
またか。さすがにしつこ過ぎやしないか、と考えて、はたと気づいた。
日野刑事はこう言ってなかったか。僕が見つかった時、上半身は裸だった、と。
これが本当だとたら、シャツはいつ脱いだんだ?
わからない。確かに血の付いたシャツなんか着ていたくはないだろうけど、記憶通りなら脱ぐ暇なんてなかったはずだ。たぶん日野刑事もその食い違いに気づいているから、あれやこれやと切り込んでくるのだ。
出し切ったはずの汗が、またぶわりと身体中から噴き出した。
何かがおかしい。僕の記憶違いか、あるいはまだ記憶に続きが?
頭がまたズキリと痛んで、言葉を継げなくなった。
なおも日野刑事はじっと睨み倒してくる。
「なあ……もし、この殺人が、お前が犯したことなら、そろそろ本当のことを話したらどうだ」
「違っ、殺したのは僕じゃありません! だいたい人の首が飛ぶだなんて……そんな凶悪なこと僕にできるわけがないです!」
日野刑事は一瞬苦々しい顔をして、またギロリとこちらを睨んできた。
「いいかボウズ、お前が犯人だろうとなかろうと、一つ言っておく。さも聖人君子で、さも人畜無害に見えたとしても、人の心の中には悪魔が住んでいるんだ。誰一人例外なく、な。俺はお前をそう見ているし、お前も周りをそう見るようにした方がいい」
突き刺さるような言葉だった。
この人はこれまで、どれだけの辛酸を舐めてきたのだろうか。その蓄積が端々に滲み出るようで、僕は一言も返すことができなかった。その言葉を
コンコン――
そこで病室の扉がノックされた。入口のところに、先ほどの看護師さんと、白髪で白衣を着た初老の男性が入ってきた。医者だ。
「あの、検査を行ってもよろしいですか。面会時間はまた後ほど設けますので……」
水を差された格好となった日野刑事は、黒スーツの男とも何かを確認するように視線を交わす。そのまま「ちっ」と遠慮なく舌打ちして、またジャケットの胸ポケットに手を差し込んだ。
「
この言葉でようやく一区切りとなった。
随分と長いように感じたが、十分しか経っていなかったのか。最後は嫌な流れだっただけに、この中断はとてもありがたかった。一度、落ち着いてから記憶を整理しておこう。このままだと本当に殺人犯にされかねない。
「何か気付いたことがあればこちらへ……」
慣れない手でおずおずと受け取ると、それを確認して彼は日野刑事を追って部屋を出ていった。日野刑事は最後の最後で僕のことを一睨みすることも忘れなかった。
二人の背中が部屋の外へ見えなくなって、僕はようやく腹の底から息をつくことができた。ろくに動いてもいないのに身体中が汗でべとべとだ。この後、医者の先生が言うには念のためCTやらで検査をするらしいけど、まったく……これで何か不調があったらあの二人のせいだ。
心の中はしばらく荒れた。言われた通り、ちっぽけな悪魔くらいはいるのかもしれなかった。
検査の結果は特に異常はなく、即日退院となった。犯罪被害のカウンセリングの話などもされたのだけど、自分自身が被害にあったわけでもないので遠慮しておいた。
戻ったら刑事さん達が待っているかとも思ったけど、そういうことがなかったのは少し意外だった。
できればすぐにでもこの病院を出たかったがそうもいかない。着る服がないし、靴もないのだ。シューズまでなくなっているなんて妙な話だと思ったけど、そっちにも血がついているのは間違いない。証拠品として押収されたのだろうし、そうでなくてもまた履きたいとは思わなかった。
とにかく残っているのは腕時計だけ。携帯も持ってきていないので連絡を取ることもできない。結局、看護師さんにお願いして、学校に連絡を入れてもらうことになった。
「ユウ」
そして今、迎えが来てくれたことになる。扉のところで少し癖のある黒髪が揺れるのが見えた。カズハだ。右手を挙げてそれに応える。
彼女は白いブラウス、赤い紐リボン、黒いニットのベストに紺のスカート……数日前に衣替えしたばかりの夏服姿だった。カズハは一瞬ほっと表情を崩しかけたものの、すぐに無表情に戻って、僕のいるベッドにてくてくと歩み寄ってくる。そしてベッドの脇まで近づくと、後ろ手からずいとスポーツバッグを差し出してくれた。
「制服と靴、入ってるから。あとスマホも……」
「ありがとう」
両手でそれを受け取ろうとして、バッグを引く手に抵抗を感じた。カズハがまだバッグの肩掛けを掴んだままだった。
「……心配した」
見上げた僕の顔めがけ、ぽつりとカズハがこぼした。彼女の黒い瞳は僕にがっしりと固定されたままだ。こんなに意思を主張してくるカズハはいつ以来だろう。表情こそいつもと変わらないけれど、黒い瞳の奥深くでは様々な感情が渦巻いているように見えた。
「ごめん」
僕はそう言うことしかできなかった。彼女に心配をかけたことが申し訳なく、そして今駆けつけてくれたことが嬉しかった。途端、バッグにかかる抵抗がなくなった。カズハは目を閉じて、優しく左右に頭を振っている。
「怪我はないの?」
「ああ、問題ないよ。着替えたらもう退院できるってさ」
「……そう」
小さな口からため息が漏れた。今度こそ本当に安心した様子だった。
バッグの中は、言う通り学校の制服が入っていた。そこで、今更ながら違和感を覚える。学校に行け、ということなのだろうか。時間はもう午後二時を回っている。これから退院の手続きを済ませて午後の授業が受けられるかはかなり微妙なところだ。
「
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