ある日常の終わり(二)
「ユウ」
凛とした声に名前を呼ばれた。同居人の
カズハはいつものようにリビングの、くすんだ白いソファにその華奢な身体を深くうずめて、手元で小さな本を揺らしている。少し癖のある黒髪はちょうど耳までを隠すショートヘアで、風呂あがりなのだろうか、濡れて艶を帯びていた。合間から、さっきまで涼しげに文字を追っていたのだろう黒い瞳が僕をとらえている。
「今夜も行くのね」
その問いに、僕は「ああ」と適当に返事をして窓を開けた。湿気た夜の空気が流れこんで、ぬるりと肌を撫でられる。
「雨よ」
「わかってる」
夜のランニングは日々の習慣になっていて、少しくらいの雨なら欠かすことは無い。継続はなんとやら、だ。
時刻は深夜の零時を回って、街の明かりは数えられる程しかなく、遠くに高層ビルの赤い光が星のように並んでいるのが見えた。
残るは黒。どこまでも深い暗闇が街に覆いかぶさっている。
ごくりと、自然にのどが動いた。恐る恐る右手を伸ばしてみると、窓から出た肌がしっとりと濡れた。
梅雨入りのニュースが流れたのは一週間ほど前だったか。都心から遠く離れたこの街にもしっかり雨の季節は訪れて、昨日からの雨は今夜もまだ霧雨となってサラサラと降り続けている。
窓を閉め、冷蔵庫を開けて、胃にスポーツドリンクを流し込んだ。身体の内側にじんわりと冷たさが巡る。
「気を付けてね」
不意に、背中に気遣いの言葉が投げかけられた。
思わず振り返ると、カズハの大きな瞳がじっとこちらを見ている。夜の闇にも劣らない吸い込まれるような黒に、身体がギクリとこわばる気がした。が、次の瞬間には彼女の視線は手元の本に戻ってしまって、続く言葉はない。
なんだろう。一緒に暮らすようになってもう一年くらい経つけれど、いまだに彼女が何を考えているのかよくわからない。あるいは単なる気まぐれだったのか。
「ああ、気を付けるよ。じゃあ行ってくる」
努めて気丈に返事をするも、脳裏にはカズハの表情がしばらく貼りついて消えない。
玄関へ向かうと、今日もレディースシューズが幅を利かせている。踏まないように細心の注意を払う必要があった。
「よし」
いつものランニングシューズを履いて、振り払うように一声。玄関のドアを開け、僕は雨の夜へと踏み出した。
背中越しに聞こえたドアの閉まる音が、今夜はやけに重く響いた気がした。
雨は嫌いだ。
糸を引くような霧雨を全身に浴びながら、ぼんやりと思う。
そうこぼしたところで今更どうしようもない。この空模様で屋外を走っている以上、雨に濡れるのは避けようがないからだ。白いランニングシャツは水を含んで肌にびったりと貼り付いている。どうにもこの感触は好きになれない。
スッ、スッ、ハッ、ハッ――
規則正しい呼吸を繰り返しながら脚を動かしていく。闇夜のスクリーン上を電灯の白や信号の赤、青、黄色が流れていく。
周りに人の姿は見当たらない。たまに客を乗せたタクシーが通り過ぎるくらいだ。
まるでこの街で生きているのは僕一人だけみたいだな。
そんな錯覚すら起こさせる夜の闇。僕から色々なものが引き剥がされていく。夜の空、雨の雫、濡れた路面、通り過ぎるガードレールや住宅の一軒一軒、その全てとの繋がりを失いながら、僕は独り走り続ける。
明日なんてこなければいいのに。
ぼんやりと、そんなことを考えた。
別に今が特別幸せというわけでもない。特別不幸せというわけでもない。
ただ、明日があるから僕はまた学校に行かなければいけないし、ゆくゆくは卒業して、大人になって、年老いて、死ぬ。時間がずっと進まなければ歳をとることもないし、お腹がすくこともないし、別れが来ることもないのかもしれない。勉強だってしないまま、寝ずにずっと遊んでいてもいいのかもしれない。
その願いは決して叶わないということは、頭のどこかではわかっていた。
今回も僕はやがてあっさりと現実へと連れ戻され、視界の奥からは満開の
よく続いているほうだな、と自分でも思う。
体力づくりとか、健康維持とか、そういうのも確かにあるけど。
いつからか、僕は暗闇が駄目になってしまった。
暗闇に身を置くとどうしようもなく恐怖が襲ってきて、冷静さを失ってしまう。暗所恐怖症、ナイクトフォビア……呼び方は色々あるけれど、その克服が本当の目的と言っていい。
よく見る悪夢だってそうだ。僕に暗闇への耐性が備われば、あんな悪夢だって見ないで済むかもしれない。
その意味では、問題はここからだ。
川沿いの公園の縁、レンガブロックで舗装された直線は、街灯が均等間隔で置かれてはいるものの、より一層暗くなる。公園の大きな木々が光を遮ってしまうのだ。
ぞわりと、露出した肌が騒いだ。脚が震えて力が抜けてしまう。それでも口を堅く結んで強引に身体を動かした。きっと今の僕の走りはでたらめな動きをしているのだろう。
向かう先は何も見えない真っ暗闇で、その闇がもぞもぞと蠢いて今にも広がりだしそうに思えた。堪えきれず僕は前から目をそらす。
と、その瞬間だった。街灯の光が一つ消えた。
背中越しの遠くの方だ。見えたわけじゃないが、なんとなくそれを感じた。
なぜ?
そう考える間もなくまた一つ消える。遠い方から順々にかき消されて、暗闇が僕を追ってくる。
必死に走り続けた僕に、暗闇はあっという間に追い付いて、今まさに脇を通り過ぎたばかりの一本が消えた。
「うわ、わ、あっ……!」
声にならない悲鳴が漏れた。目をつぶり、息を潜め、その場にしゃがんでうずくまる。抱えた膝はがくがくと震えっぱなしで、ただただ暗闇が怖かった。
……どれくらいそうしていただろうか。
恐る恐る目を開けると、そこには赤い空が広がっていた。現実感のない光景に愕然とする。空からは赤い雨が降っていて、地面では街路樹も、街灯も、レンガブロックの道も、すべてが灰のような白にどっぷりと染まっていた。
「これは……あの悪夢の中?」
呟いて、ゆっくりと立ち上がった。胸が壊れそうなほど動悸が激しいのは、きっと走り続けたせいじゃない。悪夢で何度も目にした光景の中で、意識はどうしようもなく覚醒していて、息をするたびに頭がクラクラした。
逃げるように、また走り出した。
逃げるって、何から? わからない。でも怖い。止まっていられない。首と胸をまとめて締め付けられるようだ。もう――
「だいじょうぶだよ」
不意に耳元で誰かがささやいた。やわらかい、それでいて透き通るような優しい声。
走る僕のかたわらに、太陽のような温かい笑顔を浮かべる少女の姿があった。
「コハル」
乱れる呼吸のなかで、どうにかその少女の名前を口にした瞬間だった。視界が横転した。
と気づいた時にはもう遅い。走り続けた足腰じゃろくに踏ん張りも効かず、受け身も取れないまま地面に身体を投げ出してしまった。
ばしゃあ、と水飛沫が上がり、身体中に痛みが走る。
「……ってぇ」
すぐさま頭をもたげて少女の姿を探す。が、見つからない。
……当たり前か。彼女がこんなところにいるはずがないのだから。
それにしても酷い有様だ。泥水にまみれて汚らしいったらない……ってなんだよ、これ。
血――
白かったはずのシャツがべったりと赤く染まっている。
ぎょっとして、転んだままの足元を見ると、真っ赤な水溜りができていて、そこにつまずいた原因を見つけた。
人……。いや、上下とも黒いジャージ姿のそれは道を遮るように横たわり、しかしながら人と言い表すためには致命的な箇所が欠けていた。
頭がない。
そんな、馬鹿な。
なんとか繋ぎとめていた僕の意識は、そこで急速に遠のいていった。
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