第三章・王を狩る者《セリアン・スロープ》~ICHIJI‘S view①~
「フゥゥ、フゥゥ、フゥゥ……」
逆巻くオレンジ色の髪。
開き切った瞳孔。
熱を帯びた荒々しい息遣い。
有無も言わせず俺たちを殺しにかかってきた正体不明の襲撃者。
その男からこちらに向けられる殺気は、もはやただの殺意など通り越して、俺たちを肉片一つ残さず蹂躙し尽くさなければ気が済まないといった具合にまで高まりに高まっている。
「フゥゥ、フゥゥ、フゥゥ……」
何らかの犯罪者で、根城にしていたこの廃聖堂に踏み込んだ侵入者をただ排除しているだけなのだろうか?
それとも明確に、俺もしくはアンナベルを標的として待ち構えていたのだろうか?
正体不明。
目的不定。
端的に言って謎だらけ。
そんな謎を何一つ解消できないままに危うく心臓を一突きされかけたわけだ。
……それでも幾つかわかることがないでもない。
「……ぶっ殺してやる……」
ピンと頭の上に張り出した二つの耳。
髪よりも若干薄目のオレンジ色がユラユラと揺れ動く尻尾。
長く鋭く尖った爪と、牙。
元々、瞳と性格からどことなく勝気な若猫を連想させる若者だったけれど、まさしく今の見た目は猫科の動物。
それも、控えめに言って獰猛な種類のもの。
名前を聞いてもわからない。
お家を聞いてもわからない。
そんな、か細い声で泣いてばかりいる迷子の子猫ちゃんと言うには、あまりにも庇護欲のそそられない猛り切った姿だ。
「……セリアンスロープですって?……」
アンナベルが思わずといった感じで呟く。
外見通りの冷徹で冷血なクールビューティーでないことは最初から知っていたけれど、そう力なく呟いた様子は、普段の落ち着き払った彼女らしくもない呆けたものだった。
メガネの才女の心を揺さぶったその言葉。
セリアンスロープ……。
「それは、あの猫耳くんのことでいいんだろうか?」
「は、はい。……はい、はい、その通りです」
俺の問いかけにハッとしながら正気に戻るアンナベル。
メガネの弦に手をやり、落ち着こう、落ち着こうと自分に言い聞かせているのがわかる。
「セリアンスロープ……それは獣人族の、いわゆる別呼称のことです」
「獣人……亜人だとか魔人だとかの存在はアルルから教えてもらったけれど、それは初めて聞くな」
「……定義や特徴など懇切丁寧に教えてあげたいのはやまやまなのですが、それにはこの世の生物すべての成り立ちや分類・分布、その他もろもろの説明から始めなくてはなりません。……お聞きになりますか?」
「……今はいいかな」
「……賢明です」
正直、こんな会話を挟んでいる余裕も俺たちにはなかった。
「うぅぅぅぅぅ……」
逃げの一択……。
幸いなことに、再びそう躊躇いなく思えるだけの正常な危機察知能力を俺も彼女も持っていた。
遭遇した瞬間から、俺はこの青年からどう逃げ切るかということを全力で考えていた。
相対するまでもなくヒシヒシと伝わっていた並々ならない戦闘能力と殺気。
実際に軽く戦闘を交わして確信したこちらの不利。
相手にできないことはなかったけれど、割とトリッキーな戦い方を好むような戦闘スタイルは予測がつきにくく、動けないアンナベルを守りながら、しかも無手でとなるとやはり逃げるのが一番の最善策だった。
精神的にまだ未熟なところがあってくれたおかげでどうにかハッタリで誤魔化し、その隙をついて一撃で無力化できるだけの蹴りを食らわせた。
常人であるならばこれだけで十全だった。
はるか廊下の先にまで飛び、したたかに全身を打ち付けて気を失う。
その間に俺たちはさっさと元来た道を逃げていく。
未熟ゆえに一度キレたらどうなるかわからないという不確定要素も充分に加味した上で練った、ワンヒット&オールアウェイという筋書き。
……しかし、不確定要素があまりにも不確定に過ぎた。
俺の描いた即興の台本など、薄い紙切れのように簡単に破いて台無しにしてしまうほどのイレギュラーだ。
「……逃げ切るのは……無理そうですね……」
俺の傷口から手を離し、ポツリとアンナベルがこぼす。
「……だろうね」
俺もまた小声で同意するしかない。
逃げの選択すらもはや潰されている。
血走ったあの猫目の鋭さは、捕食対象をとらえた肉食獣のそれ。
こちらが背を向けて走り出した瞬間、おそらくはより上がっているであろう自慢のスピードでもってあっという間に追いつかれ、餌食にされるのがオチだ。
だから俺もアンナベルも真っすぐに敵を見つめるしかない。
目を逸らした方が負けだなんて、本当に空腹の野生動物と相対しているような気分だ。
「傷の具合はどうでしょう?」
「問題ないよ。おかげさまで」
「……では、こちらを……」
そうして彼女が前方から目を切らさず手渡してきたのは一振りの刃物。
剣や刀よりも短く、ナイフと呼ぶには長い、シンプルなデザインの小太刀。
「私の私物で恐縮ですが、さすがに無手よりはましかと」
「君の武装は?」
「大丈夫です。同じ物がもう一振りと、細々とした暗器を少々。あとはそれなりに魔術の嗜みもありますから」
「くの一みたいな装備だな。おまけに忍術まで操るだなんて」
「クノイチ……というのが何かは存じませんが、私もあの彼と同様に、どちらかと言えば隠形が専門なもので。……タチガミ様は慣れない武器で大丈夫ですか?」
「問題ない」
俺は黒い鞘をスッと目の高さまで上げる。
そしてアンナベルもまた同じ型の、白い色違いの鞘を同じように掲げる。
お互い、ギラギラした目でこちらの一挙手一投足を睨みつけている青年を刺激しないように、ゆっくりと、慎重に……。
「俺に扱う武器の得手不得手はない」
「姫様の魔術のようで頼もしい限りです」
「俺をあんな天才と一緒にしないでくれ。俺のはただの器用貧乏だよ」
「ふふ……姫様も前に同じようなことを言っていましたね」
「『自分の才能が末恐ろしいですわ。わたくし、マジ天才』とか素で言っちゃうあの高慢ポンコツキャラのアルルが?そんな謙遜を?」
「あの方が自分で自分を天才と呼ぶときは、客観的にみて紛れもなく事実である時のみ。基本的にはとても謙虚な方ですよ。そして苦手を見つけては努力に努力を重ねて克服し、やがては誰よりも秀でた結果をのこすという割と泥臭い方でもあります」
「……努力できる天才ほど怖いものはないな……」
「タチガミ様もそういった部類の方なのでは?」
「……俺は努力をしてこなかったタイプの、しかも凡人だよ」
「謙遜ですか?」
「いや、客観的事実」
「では、私と同じですね」
「君こそ天才肌じゃないの?」
「まさか。私は努力というのもおこがましい、単なる詰込みでできた凡人です」
「望んでもいないものを与えられ」
「それに抗うかのように」
「已むに已まれず」
「生きていくために仕方がなく」
「…………」
「…………」
「確かに、俺たちは似た者同士みたいだ」
「……ですね」
本当に俺たちは似た者同士だ。
なんの打ち合わせをすることもなく、こうやって場違いな会話をすることで互いの呼吸を合わせ、タイミングを合わせ、即席の連携の溝を埋めていく。
俺には彼女の意図がわかるし。
彼女には俺の狙いがわかる。
……ああ、本当に似ている。
俺の良く知るアイツとも。
似た者同士、よくコンビを組まされたアイツとも……。
こうやって、何も言わないうちから不思議と通じ合っていたものだ。
「フシュゥゥゥ……フシュゥゥゥ……」
「そろそろ、彼も辛抱の限界ですかね……」
「だろうね」
今すぐにでも飛び掛かってきそうな敵の野生。
それを押さえつけているのは、他でもない、一度は一杯食わされた俺たちへの警戒心だ。
そんな相手が逃げるでもなく、余裕の表情で会話をしているのだから何かあるのではないかと躊躇っているのだろう。
どれだけ理性を飛ばしているようにみえても、その一線を越えていかないだけさすがと言ってもいい。
やはりこういった切迫した戦いの経験はかなり積んできているようだ。
まったく……。
努力する天才と同じくらい、用心深い玄人というのは厄介なものだ。
「では、最後に獣人族について一つだけ頭に入れておいてほしいことがあります。おそらくあなたであればそれだけである程度彼らの種族について理解をし、戦闘に役立てられるのではと思います」
「ああ、頼むよ」
キィン……
黒と白。
二つの鞘から抜き放たれる刃。
美しい波紋の走るその二振りの刃が、相も変わらず大きな窓から差し込む長閑な陽光に閃く。
「っっっ!!ぶっ殺すぅぅぅっっっっ!!」
ドバガァァァァンンンン!!
先ほどよりも更に力強い猫耳青年の踏み込みが床石を陥没させる大きな音。
火薬が爆ぜたように鳴る音と大仰に亀裂の入る床。
それらの演出に見合うだけのもの凄い速さで、青年が向かってくる。
「獣人族の別称、セリアンスロープですが……」
もう、彼女の声はまともに頭に入ってこない。
全神経、全集中を、飛んでくる野獣に合わせている。
しかし、せっかくの彼女の助言。
聞き逃すまいとする気持ちが、その言葉をギリギリのところで脳に届かせてくれる。
―― その意味は大昔の言葉で≪王を狩る者≫ ――
―― 魔獣の王・ドラゴンの唯一にして無二の天敵であった存在です ――
……え?
じゃぁ、龍神の子とか言われてる俺。
……やばくないですか?
ガキィィィィィィィィィィンンン!!
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