7-6 約束の時は来た

 輝石を汚したはルシュディだ。これは間違いがない。では、理由は?


「でも、こんなにラヴィアンの大地は闇に染まっているでしょう!」


「先日までは、ここまで淀んでなかったのですわ。理由も分からず、私たちは呑まれて動けなくなった。怖ろしいほどの悪意と、殺意。修練を積んでいたからこそ、耐えられたのです……」


 世界が何かで繋がっているならば、コイヌールも何かと繋がっているのだろうか。



(女神ウンディーネさま。あたしをお守りください)



 姫巫女らしく、汚れた水の噴水に祈りを捧げた。様々な声が呼応し、溶けた喧噪のようで吐き気がする。噴水はゴボっと黄土色の水を噴き上げた。


「王女さま、あたしたちは大丈夫です。ここで、貴女を、待ちます」


 アイラは階段から上がってくるスメラギと、側で支えるサシャーを見下ろした。

 泣いてはいけないといい聞かせて、ありがとう。の願いを最大に込めて、サシャーとスメラギを一緒に優しく抱き締めた。


「あたし、行くね。……あたしは勘違いをしているのかも知れない」


(早く、ラティークに知らせないと、取り返しのつかない事態になる)



 ――言う通り、皆は助けた。今はただ、ラティークが気がかりだった。




★5★


「こんなに靜かなのか? アリザム、第一宮殿をよく知っていたな」

「さて。私は連絡係も兼ねておりますので」


 そっけない返答だ。ラティークとアリザムは第一宮殿の回廊に差し掛かっていた。


「……ハレムに入り浸り、なんて状況ではないだろうな。しかし、靜か過ぎる……」

「ラティーク様であれば、有り得る話ですがね」


 アリザムに向かって自嘲して、ラティークは絢爛豪華な宮殿の天井を見上げた。


 第一宮殿の規模は第二宮殿とは違う。当然奴隷の数も、ハレムへの貴妃の数も違うし、第一王子に逢いに来る外交官も多い。だが、今は死に絶えたかの如く、どこもかしこも静まり返るばかりである。


「王子、私は疑問に感じます。ルシュディさまは闇に魅入られてはいても、穏やかなお人だ。悪意など微塵もない」


 ラティークはアリザムの言葉に足を止めた。


「アリザム、おまえには人の心が見えるのか? それとも、取り出して細かに観察できる特技があるか、もしくは神の如き人の矮小さを手に取れるよう理解できるとか?」


 回廊の途中に大きな肖像画がある。しかし、どれも切り裂かれており、紙は捲れ、一つとして描かれた顔は判別もできない。辛うじて、どれも女性だと分かる程度だ。


「ルシュディに悪意がないなどと、なぜ言い切れる。僕は悪意を持たない人間などいないと思っている。何かが引っかかる。シェザードが言っていたよ。『この石を使ったものに、人の心はない』とね。アリザム、手を」


 ラティークは石をアリザムの手に乗せたが、アリザムは顔を顰め、石を落とした。


「なんだ、これは。怖ろしくて持てやしません、貴方はなぜ」


 ラティークは石を拾うと、また元通り、胸に仕舞った。


「心臓が二つあるように感じる。アイラに持たせるよりはずっといい。二度とあんな顔を見たくない。兄が何をしたのか、突き詰めてやる――と、床の紋様が変わったな」


 二人が止まった場所は王宮と後宮の間。まるで紋様や柱が違う。二つの宮殿を繋いでいる回廊だ。


「ここからが、ハレム宮殿。第一王子のハレムは宮殿規模です。いくつもの部屋を渡り歩く。部屋には数十人の貴妃が待っていた。ロングギャラリーにはずらりと絵が並び、歴代の王妃たちが輝かしく飾られていたはずです。この回廊には常に貴妃が王子が通る瞬間を待ち構えて、たむろしていたはず……」


 ラティークはぎょろりと眼を走らせた。


「アリザム、扉。……開けるぞ」


 扉には闇の毛虫がたくさん這っていた。無視して扉を開け放った。隙間からは女子の服の断片がちらりと見えた。暗い中、ラティークの爪先が水に浸った。


「ラティーク王子?」声に首を振って扉をそっと閉めた。爪先は赤く汚れていた。


「本来のハレム争いは、熾烈です。ラティーク王子の適当さが逆に良かったのでしょう。魔法で操るなんぞ、できるわけがなかろうに。いつまで騙すのです?」


 アイラの話だ。ラティークは首を竦めた。


「ついつい反応が可愛くて。『この腐れ王子!』の罵声を覚悟しているけれどね」


「そろそろ宮殿の最奥部。王座のある間です。第一王子はいつもこの部屋にいらっしゃる。ハレムの状態など気にもせずにいるのでしょう。国すら興味がないご様子」


 ――果たしてそうだろうか? ラティークは震える拳を握りしめ、喉を鳴らした。


「情けないな、指が動かない。兄にアイラは渡せない」


 ラティークは上着を脱いだ。アリザムが無言で剣を差しだしてきた。


「斬るならば、お首を。刺すならば、胸と腹を。気絶させるなら、刃を裏にして、首を。同じく、貴方様の急所も同義です。ご武運を祈ります王子」


 ラティークは剣を見詰めた。一瞬自分も悪意に苛まれていないかを疑った。人が人を殺す。これは果たして道理か……。


 受け取った剣を鞘ごと腰の鎖にしっかりと括り付けた。


「アイラを足止めしてくれ。できたら、僕の母を探してくれ。この宮殿にいる」


 喉に嫌な唾液が滑り落ちた。ラティークは背中を向けた。


「約束の時だ。シハーヴ! 闇が消えるまで、最期まで僕と来い! 扉を開けろ!」


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