第2話 少女との出会い
それは、奴隷の少女が魔物に襲われる少しだけ前のこと。
日本と異世界をつなぐ場所に、スーツ姿の男が立ち尽くしていた。
「ここは?」
右も左も深い霧に覆われたような白い空間。
正面にある小さなテーブルには、1人の老人が座っている。
それ以外には、何もない。
「いきなり呼び出してすまんかったのぉ。とりあえずは立ち話もなんじゃて、そこに座ってくれるかぇ?」
老人が優雅に微笑んで、空いた椅子を手のひらで指し示した。
ここがどこなのかわからない。
彼が誰なのかわからない。
それゆえに、断るという選択肢はなかった。
「……わかりました」
促されるままにテーブルへと近付けば、ひとりでに椅子が動き出し、座りやすい位置まで下がり始める。
「…………」
そんな椅子の姿を見詰めて、思わず息をのんだ。
この世のものとは思えない空間に、ひとりでに動く椅子。
「ここは死後の世界で、あなたは神様かな?」
おとぎ話のような話だが、それ以外に候補はない。
ピタリと止まった椅子に手を添えながら問いかければ、うれしそうに老人が肩を揺らした。
「ほほほ、さぁてのぉ。当たらずとも遠からず、じゃな」
シワだらけのまぶたを持ち上げて、老人が鋭い視線を向けてくる。
瞳に込められた意思は、値踏みだろうか?
「取り乱しもせず、物怖じもせず、か……。ワシの目に狂いはなかったようじゃのぉ」
まぁ、まずは飲みなされ。
そんな声が聞こえたかと思えばテーブルの上に不思議な光があふれ出し、2客のティーカップとモダンなポットが現れた。
思わず動きを止めれば、老人が微笑みながらポットを傾ける。
「安心して良いぞ。おぬしはまだ、死んではおらぬよ」
「……そうですか」
老人が楽しげに笑い、男が安堵の息を吐く。
華やぐ茶葉の香りが周囲に広がり、こはく色の液体がカップの中を泳いだ。
「良い香りですね」
「ほほほ、ワシのお気に入りじゃて」
微笑む老人に会釈をしてカップを受け取り、口元で水面を揺らす。
広がる香りに身を委ねて唇を湿らせれば、ふわりとした優しい甘みが口の中に広がった。
「……素敵な香りだと思います。少なくとも僕は飲んだことがない」
「ほほほ、そーじゃろぅのぉ。おぬしの世界には存在せん茶葉じゃわい」
楽しげに笑った老人が、自分のカップに口を付けた。
小さく喉を震わせて一息入れれば、再び老人の瞳に鋭さが宿る。
「おぬしを呼び出した用件じゃがな。頼み事があるんじゃ。ワシの頼みを叶えてくれれば、代わりにおぬしの望みを叶えようぞ」
真剣な表情を浮かべたまま、老人がパチンと指を鳴らした。
その音を合図に、巨大な泡がテーブルの下から浮かび上がってくる。
カップやポットを通り抜けて、目線の高さでピタリと動きを止めたかと思えば、その中央にボロボロの服を身につけた1人の少女が映し出された。
「召喚獣として、この子の手助けをしてはくれぬか??」
その少女を指差して、老人がそう言葉を続ける。
シャボンの中の少女は奴隷らしく、裕福そうな男にムチを向けられていた。
「戦う力はプレゼントしよう。精神面も強くしよう。救い方はおぬしが思う通りで良い。成果に応じて能力の追加も行おう。無制限にとは言えぬが、相談にも応じるぞ」
「……能力、ですか」
「そう、能力じゃ。あちらの世界ではスキルやギフトと呼んでおるようじゃがな。魔法あり、ドラゴンありの世界じゃ。能力のプレゼントは破格じゃが、楽な話ではない」
再び老人がパチンと指を鳴らせば、巨大な泡が光の粒になって消えていった。
霧だけが立ちこめる空間を見つめ直して、唇に指を当てる。
「あなたにもらった力を使って少女を救えば、僕の願いを叶えてくれる。そういうことですか?」
「その通りじゃな。……おぬしには、どうしても叶えたい願いがあるじゃろ?」
意味深に言葉を紡いだ老人が手のひらを天に向ければ、その上に1粒の種が舞い降りた。
一瞬にして芽が生え、茎が伸び、大きな花を咲かせる。
神にしか出来ぬと思われるその光景を目に、ふぅー……、とため息が漏れた。
「わかりました。精一杯、やらせてもらいます」
もとより、断ることはありえない。
手の中の花を光に変えて、老人が口元を緩めた。
「ほほほ、期待しておるぞ」
ひと仕事を終えたとばかりに、老人がグーっと背伸びをする。
「向こうでの滞在時間は1日9時間じゃ。それ以外は日本に戻すゆえ、気楽に構えてくれて構わぬぞ。働きに応じた賃金は、日本円で支払えばいいかのぉ?」
「そうですね。そうしてもらえると、ありがたい限りです」
「あいわかった。困ったことがあれば、メニューとつぶやけば大丈夫じゃ。そうすれば状況がわかるじゃろうて。なにか質問はあるかのぉ?」
必要な話を終えたのか、老人がふぅと背もたれに寄りかかった。
向けられる瞳からは、先ほどまでのような鋭さは感じない。
そんな老人の姿を横目に、男が情報を整えていく。
自分がやるべきことと、その手段、成果報酬。
「期限などは?」
「ありはせぬよ。強いて言うなら、少女の寿命が尽きるまで、じゃな」
「……そうですか」
最低限の情報を受け取り、ゆっくりと目を閉じる。
それ以上は考えるまでもなく、心が決まっていた。
「彼女が心配です。あの少女の側まで送ってもらえますか?」
「ほほほ、無論じゃ。いくぞぇ?」
老人の言葉にうなずきを返せば、パチン、と指の鳴る音が聞こえる。
「おぬしの幸せも願っておるぞ……」
地面が揺れるような感覚の中に、薄れ行く老人の声が届けられた。
次いで感じたのは、木々のざわめき。
ゆっくりと目を開けば、地面にうずくまるように、1人の少女が倒れていた。
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