第16話 桜の宮


春の郷に、はいなかった。


珂雪としては、そう答えるしかなかった。だが一方で葵の宮を、春の郷へ連れて行くこともできなかった。



珂雪の話を聞いて、

柊の宮は、大使として春陽殿へおもむき、《桜の宮》に句芒門で起きたことを通告するよう命じた。




再び句芒門へと向かっているさなか、珂雪は先程見た光景を思い返していた。


「胡蝶」という技は「氷花」と同じく、見た目の苛烈さはないが、破るのが難しい。

術をかけてしまえば、術者が解くか、解かれない限り、見破られてしまうこともない。


しかし何らかの方法で、《焔》が目覚める危険性もあった。

その時までに、葵の宮の「氷花」を解かなければ、事態は一層深刻になるだろう。



一方で、のりを越えた飛英の振る舞いも、まったく理解できないわけではなかった。


四獣は、太古から力を欲するもの。


彼はおそらく魅力されたのだ。焔のもつ力に。





——でもそれが、桜の宮を裏切ることになる。



四獣——四神の激しさは、時に国を滅ぼす。


そうならないために、巫女姫は、その身をもって四神を封じるのだ。

その均衡が崩れてしまったら、「四季の中つ国」は成り立たない。



***



春陽殿にたどり着き、門衛に《桜の宮》への取り次ぎをお願いすると、ちょうど天空にヒュウマが飛び去っていくのが見えた。


——あれは。



秋の郷の四獣か。



珂雪はしばらく、光輪の気配が消えていく先を眺めた。


名前は知っていても、会ったことはない。


わざわざここに来るということは、今朝方、句芒門で起きたことを、彼も承知しているのかもしれない。


そうだとしたら二度手間になる気もしたが、今更帰るわけにもいかなかった。



面会に至るまで手数がかかるかと案じていたが、予想以上に早く、珂雪は《桜の宮》のいる広間へ通された。



華の、強く甘い香りがする。

こういう匂いは嗅ぎなれていないため、至るところに咲く名前も種類も分からない花に囲まれると、珂雪は落ち着かない気分にさせられた。


広間の奥——毛氈もうせんを敷いた先、一番高いところに玉座があり、繊細な螺鈿らでんの装飾がされている。


そこへ気怠げに白い細腕をのべた《桜の宮》は、彼女自身が華麗に咲く花のようだった。



——なるほど、これがこの国で一番美しいと讃えられる所以ゆえんか。



その優美さは、確かに目を見張るものがあった。


裾の長い打掛には香を焚きしめてあるのか、桜の宮のはなつ香気には、どこか人を酔わせるものがあった。



桜の宮は、珂雪を認めると言った。


「今日は、おとない人がよくやってきますね」


「——珂雪と申します」


珂雪はゆっくりその場で拝礼すると、さりげなく問いかけた。


「先程の使者は」


「夏の郷から【忍び烏】が来ていないかと。いないことを告げると、名前も言わずに出て行ってしまいました」


——では、彼はあの状況を見ていないのだ。



しかし、それだけ慌てて出て行くということは、彼も何かを予感したのだろう。


光輪というものは、他の郷の巫女姫には見えない。


この場で名乗った以上、珂雪は自分の正体を明かすことにした。



「私は、冬の郷の四獣です。柊の宮から桜の宮さまに、お伝えしたいことがあって参りました」


「夏昊殿で、動きがあったのですか」



以前、

桜の宮は、柊の宮へ使者を遣わしている。

夏の郷の宮代が、登極を阻んでいる——と。


そのため珂雪は夏昊殿へおもむき、その動向を見張るよう言われたのだ。

やはりここに、葵の宮を連れてくるべきだったかと、今更ながらに、珂雪はそう思った。



そうすれば少なくとも、「氷花」を解くことはできた。

しかし、あの現場を見てしまった以上、珂雪は連れ出す気にならなかったのだ。

柊の宮もそう判断したのだから、仕方ないことだった。




「動きはありました。ですが、その前にひとつお伺いしたいのですが」


珂雪は、そう前置きした後に尋ねた。


「以前、大使として来られた飛英という方は、今どちらにいますか」


桜の宮は、目をしばたたいた。


「飛英なら、先程ここを出ていきました。今朝の一報もあり、その人物を探すよう命じたため、しばらく戻ってこないかと思いますが……」



質問の意図を測りかねているのだろう。

少し困惑したようなその口振りに、珂雪は、今ここで真実を伝えたものか、一瞬躊躇した。


そして、

慎重に言葉を選びつつ言った。



「私も、彼を探していいですか。その現状を確かめたいのです」


急な申し出に、

桜の宮は驚いたようだった。


「それはかまいませんが、柊の宮さまから、言づてがあって来たのではないのですか」


珂雪はその場で、深く一礼した。



「それについては、後日お話できると思います。またこちらを訪ねてもいいですか」


桜の宮は、ひとつ頷いて言った。



「夏の郷の使者の行方がしれないというのは、私も気がかりです。またの来訪をお待ちしています」



その言葉に、嘘はないようだった。

珂雪は、最後にもう一度一礼すると、そのまま春陽殿を後にした。



***


珂雪が春陽殿を離れたのは、《綾女の宮》について柊の宮が語ったことも、一部含まれていた。



——完全に四獣を折伏しゃくぶくする前に、綾女の宮は傷を負い、それが致命傷となったのだ。


今、飛英を探しだし彼に糾弾しても、事態はただ悪くなるだけだと、珂雪は考えた。



こちらも、それなりの手を打たなければ。


——そのためには、やはり「氷花」を解かなければ。





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