第9話 不如帰

 葛野は近江京をほとんど覚えていない。

 広い空と淡く煌めく水面の印象が、記憶を占めるほとんどだ。

 あとは見たはずのない、自ら縊れる父の影。

 それから、なぜか近江京を思い出そうとすると、母が低く歌っていた子守唄も一緒に蘇る。その歌を歌う母の声音は思い出せても、歌詞を思い出すことは出来ない。もしかしたら、歌詞は最初からなかったのかもしれない。歌人の祖母の娘でありながら、母はあまり歌を詠まない人だった。

 歌を詠まないから、公の場所では無口な印象の人だっただろうと思う。

 確かに口数の多い人ではなかったけれど、葛野にとっては母は決して話さない人ではなかった。

 「吾子。」

 耳に心地よい低い声。

 「聞いてご覧なさい。不如帰が鳴いているわ。」

 「面白い声でしょう?」

 「一生懸命、帰りたい、帰りたいって鳴いているのよ。」

 帰りたいと繰り返す母の目は、どこか遠くを見ていた。

 母はどこに帰りたかったのだろう。


 母の喪が明けてしばらくすると、祖母の額田は時々葛野を難波宮まで連れ出すようになった。決まって難波宮で馬を借り、遠乗りに出かける。目的地はそう遠くなく、決まって河口の里だった。

 「みこさま、必ずお迎えに上がりますと祈られませ。」

 その里の社に額づき、必ずそう言われる。

 なぜ、と問うても答えはない。

 大人というのは皆こうだ。

 まだ子供である葛野にはなにもわからないと決めつける。決めつけて、自分の流儀や考えを当たり前のように強制する。

 葛野にだって考えることも感じることもできるのに。

 祖母は自分をなぜ「みこ」と呼ぶのか。

 自分に何を「お迎え」させようとしているのか。

 やがてぼんやりと、それが皇位にかかわりある何かなのだと察した。

 脳裏に浮かんだのは父の姿だ。

 見たはずもないのに克明に思い描く事のできる、自ら縊れる父。

 そして、嫌だと強く思った。

 父のようにはなりたくない。

 自分が皇位を望むに十分な血統を備えていることは知っている。

 両祖父が兄弟で共に帝。

 けれども立場的に即位が難しいことも知っていた。父は即位したことすら正式には認められていないのだ。だから葛野は皇子でなく、王として扱われている。

 しかも同じ両祖父の血を引く皇子はあと二人いて、葛野よりも年長だった。

 これで即位の目などあるはずがない。

 無理をおして皇位を望めば、父と同じような末路に追い込まれることになるだろう。

 その、子供である葛野にわかっている理屈が、どうも祖母にはわかっていないようだった。いや、わかった上で、それでもあがいているのだろうか。そんなあがきは葛野にとって、迷惑以外の何ものでもない。

 なぜ、静かに暮らしたいと思ってはいけないんだろう。

 葛野は祈る。

 私はその任に耐えません。なにとぞ相応しきお迎えが、早くあらわれますように。

 祖母がなんと言おうと、なんと祈り誓おうと、葛野が抱く祈り、たてる誓いは変わらない。

 静かに暮らしてゆきたい。

 母とそうしていたように。

 母が死ぬ少し前から時折地震が起きるようになり、母の喪が明けてからはいっそう頻繁になった。盤石であるべき地面の揺れは、人の心もゆらゆらとゆらす。

 遠く筑紫では大宰府が、地震によって壊滅したとの噂が、葛野の耳にも届いていた。実際、祖母に連れて行かれる難波宮は、多くの文物とそれを整理する人でごっった返している。壊滅したという大宰府から持ち出された文物が、難波宮に運び込まれているのだ。

 地面が揺れる不安は尽きない。

 尽きないながらもそれが日常ともなれば、多少は慣れてもくる。そうして、繰り返される地震に人々が慣れてしまったころに、それは来た。 

 

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