第8話 淡海

 神剣の納められた社は難波宮からほど近い。さり気なく様子を見守るのに、額田は難波宮に出かけることが多くなった。

 難波宮からは海を見渡すことが出来る。

 広い、明るい、水面の景色は、額田に様々なものを思い出させた。

 自らの歌で兵を鼓舞した実感に酔った熱田津。

 それから、葛城がおさめた近江京おうみのみやこ

 近江京からは広い広い水面が臨めた。

 もっともあれは海ではない。あの水面みなもは満々と真水を湛えた淡海おうみだった。


 明るい湖畔にあったのに、近江宮には最初からなにか影のようなものがまとわりついていた。

 いや、その影の正体ならわかっている。

 わからないわけがないではないか。

 近江京への遷都そのものが、大和を捨てての逃避行であったのだから。

 白村江の敗戦や、後押しした百済の滅亡、結局取り戻せなかった任那。唐や新羅の圧力が目に見えそうな程に、ひしひしと感じられていた。

 失敗した、とは誰も言わなかった。

 そんな事を言い立てるには、あまりに重く、苦く、致命的な敗北だった。

 我らの軍が海を越えられたのだから、敵もまた越えてくるだろう。そう慄かずにいることは誰にもできなかった。

 難波宮はもちろん大和よりもさらに奥、しかも敵襲があれば即座に淡海に逃れられる近江京への遷都が、逃避行でなくてなんだと言うのだろう。

 うまさけ みわのやまの 

 あをによし ならのやまの 

 やまのまに いかくれるまで

 みちのくまに いつもるまでに

 つばらにも みつついかむを

 しばしばも みさけむやまを 

 こころなく くもの かくさふべしや

 大和から去り難く、後ろ髪引かれる気持ちを歌い上げたのは額田だ。そうだ、影があるのは当然だった。あれは誰も望まぬ逃避行だったのだから。

 失敗した。

 口に出せない言葉には、さらに口に出せない疑問が添う。

 どこから?

 白村江から?

 難波宮から強引に大和に還ったところから?

 それとも

 乙巳の年に蘇我の大臣が斬られたあの時から、間違った道に足を踏み込んでいたのだろうか。


 せんそした宝皇女が帝位にあるまま崩御した後、葛城は同母妹の間人皇女を即位させた。そしてその新帝と共に近江へ遷った。

 間人皇女との密通ゆえに、即位を逃し続けた葛城が、三度即位を見送る折にその間人を即位させたというのは、ひどく皮肉な形だったが、白村江の敗戦の直後に葛城が即位することはやはり難しかった。

 誰も、何も、言わなくても、誰もがその敗戦の責任を葛城に求めていた。

 中臣鎌足と図り、蘇我大臣を切り、百済と結び、戦いに踏み切ったのは葛城であったから。

 敗戦の処理と近江京の造営に手を取られ、正式な即位の大礼を行う余裕もないうちに間人が崩御した事で、葛城はついに即位した。

 天叢雲剣が失われたのは、おそらくはその頃だ。

 どういう経緯でか失われた神剣は、嵐とともに難波の河口にあらわれた。あらわれてその地の社におさめられていた。

 あとはいつ、剣を本来の形に戻すかだ。

 どうやって、という事は決まっている。葛野が剣を迎え、戻す。そうでなくてはならない。

 それにしても、剣があらわれたのが難波であるのは、ちょっと面白いことのように額田には思える。

 難波は、軽天皇の御世に、葛城が皇后であった間人まで引き連れて捨てた京だ。軽天皇は失意のうちに難波で崩御し、その子であった有馬皇子は、後に謀反の罪で処刑された。

 その、葛城が捨てた京に、葛城の御世に失われた神剣が宿っていたとは。

 難波の海は果てしない広さをもたない。

 そこは丸い湾であるだけでなく、外海から四国と淡路によって遮られた内海だ。だから景色としてはやはり淡海に似ていると思う。

 近江京に移ってすぐ、十市は大友を迎え、葛野を産んだ。そして近江京で大友の即位を迎え、大友の死の知らせを受けた。

 そういえば、十市はどんな風にあの京で過ごしていたのだろう。

 額田には具体的な景色を思い浮かべることが出来ない。

 近江京でも顔は合わせていたはずなのに、浮かぶのは、あの美しい人形のように端正な姿以外、なにも思い浮かべることはできなかった。

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