第7話 歌会
蘇芳で染めた
結上げた髪を飾る鼈甲の櫛、紫水晶と珊瑚の花簪に銀歩揺。
目尻と唇に紅をさし、指先は爪紅で飾っている。
久方ぶりの御門臨席の歌会のために、額田は心を尽くして装いを凝らした。
歌会はただの宮中の遊びではない。
神を喜ばせるための神事でもあるのだ。
優れた歌人であれば身分とは関係なく招かれる。まして女王であり御門の夫人であった額田ならば招かれないはずがない。
歌会の場に額田が現れると、ため息のようなさざめきが広がる。
当代きっての歌人。
かつて今上の皇女を産んだ寵姫。
今も自分は美しい。
額田はその事実を確認する。
肌の白さにくもりはなく、髪に一筋の白いものもない。
娘の十市のような整った顔立ちをこそ持たないけれど、こぼれ落ちる色香は自分の方がはるかにまさっていると、額田には自信があた。
御門は歌会の始まる直前に皇后を伴って現れた。
御門は年相応に老けている。
ただ、今も活力には満ちていて、どっしりとした両肩の線も厳つい。
皇后もまた老けた。
しかし少女の頃から落ち着き払った印象の強かった皇后は、むしろ外見がやっと中身に追いついたようにも思える。ゆったりと結い上げた髪に、翡翠と真珠の見事な簪を飾っていた。
額田は自分の髪に挿した銀歩揺が、急に軽々しいように思えた。肩にかけた被礼もだんだらが派手派手しく若作りにみえるかもしれない。
そうこうするうちに歌会が始まった。
歌会が始まれば額田は歌にのみ集中する。
神を喜ばせ、人を動かす言霊を練る。
額田の紡ぐ艶やかに美しい言霊に、人はみなため息をもらす。
題が読み上げられ、即興に歌を詠む。
例えば別れ。
例えば山。
例えば恋。
そうだ、あの時もそうだった。
まだ葛城の御門の御世、薬狩りの後の宴。
茜さす 紫野ゆき 標野ゆき
野守りが見ずや きみがそでふる
宮廷をあげての行事の後の宴は、必ず歌が交わされる。「しのぶこい」という題に、ふとそんな歌が額田の口をついた。視界の隅に大海人の姿が見えていたせいだろうか。
大海人の隣には讚良の姿もあったはずだ。数年前に姉の大田が薨じたことで、讚良は大海人の正妃の立場になおっていた。
紫の匂える妹をにくくあらば
人妻ゆえに われ恋めやも
打てば響くように大海人が詠う。
場は一瞬静まり、それから不自然なほどの喝采がおこった。
葛城は黙って見ていた。
それから讚良も。
その視線を感じながら、額田はひときわ艶やかに微笑った。
「お久しぶりでございますわ、御門。」
歌会を終えて、額田は御門に話しかけた。こんなところで堅苦しい作法はいらない。御門とはいっても額田にとっては昔の夫でもある。
「葛野は息災か。」
額田の孫である葛野は、今上にとっても孫だ。そうは言ってもほとんど接点のない二人は、十市の殯の折に一度顔を合わせたことがあるだけのはずだった。
葛野、とだけ御門は呼んだ。
王とも皇子とも付けず。
「はい。元気に暮らしておられますよ。」
額田もあえて皇子とは呼ばない。ただ言葉を崩すことなく答える。
額田もまた女王だ。葛野が皇子でなければ言葉を正す必要もない。
御門と、近づいてくる皇后に退出の礼をとり、額田はその場を辞した。
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