第6話 猿女

 京を再びの地震が襲ったのは、十月の事だった。さらに十一月にもう一度。

 今上の即位以来、京を襲った強い地震だけでもう四回にはなる筈だ。間には他の土地でも地震があり、旱も嵐も多い。大宰府のような要衝が、地震で壊滅したのも痛かった。

 大宰府政庁の再建は図られているが、これだけ災害続きだと国庫に余裕もなく、とりあえずは小ぶりでも形を整えようという話に収まらざるを得ない。それやこれやで収まりどころもなく浮いた大宰府の文物は、難波宮に運び込まれていた。

 額田が難波宮に足を運んだのも、その文物が理由だ。大宰府におさめられていた文物は渡来の知識に連なるものが多い。その渡来の知識や祀りに圧迫されつつあるかんなぎとしても気になるところだった。

 もっとも、偶然に見つけた神剣に比べれば、気にする程のものではない。

 熱田に根回しするのはあとの方がよい。

 失態を隠すために、神剣を黙って取り戻そうとするかもしれない。社は伊勢、宇佐、熊野、三輪、賀茂。何より宮中で他の神器に仕える猿女さるめには、まず話を通さなければならない。

 猿女。

 天孫に従い来た女神と、天孫を導いた男神のすえ

 猿女は歌人とは対象的に、徹底的に俗世を離れ穢を嫌う。

 歌人が俗なら猿女は聖。

 歌人が濁なら猿女は清。

 歌人が動なら猿女は静。

 男を通わせるどころか、ほとんど言葉も交わさず顔を見ることすらまれな暮らしを保ち、一点の穢も自身に許さず、ただ神にのみ仕えるかんなぎ

 額田などは何が面白いのかと思わないでもない。

 だが、だからこそ侮ることのできない相手だとも思う。ひたすらに神に向き合い、神に仕える猿女は硬く澄んでいる。その硬さ、清らかさにはつけ入るすきなどない。特に今、実質的に猿女を束ねている猿女真礼さるめのまれは恐ろしいほどに清く澄んだかんなぎだった。

 つけた瓜を割る、清く冷たい小川のような。

 雪の日の明けそめた朝のような。

 触れれば鋭い痛みを感じずにはいられない、そんな清さだ。

 幾度か、宮中で耳にした真礼の歌。

 天まで伸びゆく澄んだ歌声。

 声は場を、そこで聞く人の心を震わせ、清めてゆく。その清さは額田にいつも痛みをもたらす。硬い、冷たい清らかさは、額田を鋭く斬りつけずにはおかない。

 そして自分とは違う、自分のなし得ない神への向かいあいかたがたどり着く高みの、絶望的な高さに息をつめるのだ。

 羨ましくはない。

 妬ましくもない。

 ただ違う。

 そしてその違いは決定的なものだ。

 歌人は人の届くより上の高みを目指さない。歌人の紡ぐ歌はあくまで人に届けるものだ。

 だから額田は天の高みを目指さない。

 目指さない場所にたどり着けるはずはない。

 でも、この世に高みのある事を知らぬほど無知でもない。

 猿女は清く硬い。

 中でも真礼の清さにはすきがない。

 だから彼女に告げる言葉には、真実以外の言霊は用いることができない。手練も手管も彼女には見透かされてしまうだろう。

 額田は考えて、比売田の里に繋ぎをつけた。比売田の里には比売田一族の大刀自がいる。その大刀自に熱田の剣を見つけた事を知らせたのだ。

 もちろんどこ、とは知らせない。ただ剣を見つけた事、額田の亡き娘が先帝の皇后でありその忘れ形見の皇子がいる事を知らせる。

 それで全ては足りるはずだ。

 猿女は俗から遠く、清らかに硬い。

 だが、古い巫である事に違いはない。

 渡来の僧や陰陽師に圧迫されつつある事は変わりないのだ。

 葛野が神剣を手に即位を果たす事で、古い巫が巻き返しをはかれるなら、比売田も猿女も否やとは言うまい。

 しばらくたって額田に猿女真礼から言付けが届いた。

 心に留めておく、という。

 とりあえずはこれでいい。

 額田は成り行きに満足した。

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