第5話 葛野

 葛野が父を喪ったのは四歳の頃だ。

 父は戦に破れ、自ら縊れたのだという。

 その事実をいつ知ったのか葛野は覚えていない。幼子にわざわざそんな事を知らせる者もいなさそうなものだが、それでも葛野は物心ついた頃からその事を知っていた。むしろ記憶も淡い遥か昔に、父である人が帯を枝にかけ、そこに頭を通すのを見ていたような気さえする。

 もちろんそんなはずはなく、葛野は母と共に戦場から離れた宮の奥にいたはずだ。だからやっぱり葛野が父の死に様を知っているのは、噂かなにかを耳にした結果なのだろう。

 母の死ははっきりとわかった。

 十を越えている葛野は、その事実がわからぬほどに幼くはもうなかった。

 「御門みかどのお供をして明日からしばらく留守にします。乳母の手をやかせるのではありませんよ。」

 その前の日、母はそんな事を言っていたのに、結局御門のお供をすることはなかった。母は一人きりでずっと遠いところへ行ってしまった。

 母はとても美しい人だった。

 髪からも衣からも、とても良い薫りがした。

 母の死に顔も、やはりとても美しかった。祖母の額田に促され「最期のお別れ」のために覗き込んだ母の顔は、ただ静かに眠っているようだった。

 だが、棺を殯屋に据えての殯のうちに、母の棺は独特の匂いを放つようになった。

 香を濃く炊き込めても誤魔化しきれない死の匂い。その匂いがどのように放たれるのかを葛野は知っていた。

 可愛がっていた犬の仔が死んでしまった時、下仕えが埋めてくれたその死骸を掘り返してしまった事があったからだ。

 掘り起こしたのが何日もたってからのことだったから、仔犬は早くもくたれはじめていた。

 あの仔犬からしていた匂いが、母の棺からした。

 仔犬を掘り起こした事に気づいた母に、葛野は叱られたのだ。

 死の穢を受けるものを見るものではない。

 それは死したものにはじを与える事になるのだからと。

 棺の内には死の気配が満たされている。

 それはじわりと滲み出して、死の匂いとなってまとわりつく。

 殯は死者を送る作法だ。

 死者はもう、死の穢れを振り払えないことを確かめて、地中に埋められ黄泉へとおくりだされる。

 身分の高い死者の殯は時に年をまたぎ、半ば以上死の匂いが薄れてから埋められることもめずらしくない。なしうる事なら穢れを払い、死者を取り戻せないかと願うので。

 いや、そんなはずはない。

 一度死の匂いを放つようになれば、決して死の穢れを振り払えないことはだれでも知っている。それは高天原にしろしめす神々にさえ変えることのできないことわりだ。

 だから長い殯は、むしろ死の穢れがすでに通り過ぎた真っ白な魂を、黄泉へ送り出そうとする試みのかもしれない。

 葛野の母の殯は短かった。

 地に埋められた母の棺は、死の気配に満たされていた。

 あの美しい母は、死の穢れにまとわりつかれ、死の穢れに引かれて黄泉へと降りたのだろうか。

 

 母を喪った葛野は、母の母である祖母の額田に養育されるようになった。

 額田は歌人だ。

 華やかに艶やかな人で、深く美しい声をしている。

 ただ、葛野の母のような玲瓏たる美貌ではなかった。

 醜い人ではない。

 世間では美貌の歌人と呼ばれる人だ。

 葛野という孫のいるような歳なのに、艷やかな黒髪には一筋の白いものもなく、白い頬に一点の曇りもない。

 だが葛野の母のような端正な顔立ちではない。

 額田の美貌は言うなれば、ありふれた美貌だった。華やかで艶やかな人ではあるが、その華やかさ艶やかさは容色に由来するわけではない。

 その祖母は葛野を「皇子みこさま」と呼ぶ。

 葛野はそう呼ばれるのがあまり好きではない。

 祖母が葛野を「皇子」と呼ぶ時、祖母の目は葛野の向こう側にある何かを見ているように感じるからだ。

 母は葛野を「吾子あこ」と呼んだ。

 葛野はそう呼ばれることが好きで、もうそう呼んでもらえない事が悲しかった。

 

 

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