第4話 神剣

 その剣があるべき社にない事は、知っている者ならば知っている事実だ。

 かつて大蛇おろちの尾より取り出された神剣、天叢雲剣あめのむらくものつるぎ

 その剣を携えた英雄が草を薙ぎ、焔の災いを避けたところから、草薙剣くさなぎのつるぎとも呼ばれる。

 大王の代々所持する三種の神器の一つであり、普段は熱田の社に祀られているはずのその剣の行方がようとしてしれない。

 葛城の御門の即位の折に熱田から奉られたのは、確かに草薙剣だった。しかし、その後の大友の御門は正式な即位の大礼を行う前に斃れ、大海人の即位の折の剣は写しだった。

 いや、写しであっても構わないのだ。もとの剣が熱田に祀られ、その神威を写した剣が用いられているのなら。しかし、その剣はそうではなかった。

 形ばかりを写した空っぽの剣。

 とても即位の大礼を担えるような剣ではない。

 かんなぎに噂が走った。

 熱田は剣を失ったと。

 今上の治世にこれだけ禍事が多いながら、かんなぎから公然と不徳の王者という声が上がらないのはそのせいだ。もしも剣の事が知れては、古いかんなぎたちにとってこそ致命傷になりかねない。

 剣が熱田にないことはかんなぎなら誰でも知っている。だが、その事実は御門に対しては決して知らされはしない。


 額田がその社に気づいたのは、本当に偶然だった。甘ったるい梔子の薫りに辟易して雨上がりの気晴らしに馬を借り、足を伸ばしてみたみなとの里に丁寧に祀られた社。その神威に違和感を感じたのだ。

 「あのお社には神剣をお預かりしているんでございますよ。」

 話しかけた老婆はなんの警戒心もなく、事の顛末を話してくれた。

 「ええ、もともとはを摂津国を拓いたお方をお祀りするお社でございます。良き田や畑を作り、実りを得られる方法を皆に教えて下さいました。それで里の守りとしてお祀りしているんでございますよ。」

 京の貴い女性にょしょうのご下問とあり、老婆はこちらが聞かぬ事まで話してくれる。その長い話に根気よく相槌を打っていると、やがて話は神剣に及んだ。

 「もう十何年にもなりますか。あれは前の御門の御即位の頃のことでございます。急な嵐がございましてね。この里でも慌てて舟を逃がすやら、上げるやら、大変な騒動でございましたよ。たいてい嵐というもんは何かしら前知らせがあるもんでございますのに、あの時はほんに突然風が吹き出して、大粒の雨がばちばち打ってきましてね。あれ程の嵐になんの前知らせもないなんてことは、まあ他に覚えがございません。」

 「それで嵐が明けましたら、みなとに剣が流れ着いていたんでございます。どう見てもただの剣ではございませんし、お社にお伺いをたてましたらば『畏みてお預かりする。』ということで、これは尊い御剣みつるぎに違いないと、社にお納めしたんでございますよ。」

 その剣が熱田の剣であることは間違いない。いくらなんでもそんな剣は二振りとない。

 神意だ。

 額田は思った。

 神のお導きがある。そうでなければどうしてこんな偶然があるだろう。

 額田がこの里に足を向けたのはほんの気まぐれ。社に気づいたのは本当にただの偶然だ。

 だからこそ、そこには神意が宿っている。

 この剣は、葛野が手にするべきものだ。

 この剣を然るべき時に葛野が朝廷に持ち帰れば、葛野のこの上ない後押しになるだろう。

 ただ、根回しはしなければばらない。

 古いかんなぎたちには根回ししておかなければ、後々面倒な事になるだろう。熱田にとっては自分たちの手落ちをさらされる事になりかねないのだから尚更だ。

 「そんなに尊い御剣なれば、いずれ然るべきお迎えがあるかもしれませんね。」

 そっと探りを入れると老婆が笑う。

 「ええ、ええ。私どもはそれを待っているのでございますよ。なんと申しましても御剣の御名も存じ上げませんのは畏れ多いことで。正しくお祀り出来るところへお納めするのが一番良いのでございましょうし。」

 額田は微笑んでうなずいた。


 英雄である皇子に授けられた神剣は、皇子に奉られた尾張の美夜受比売みやずひめに委ねられ、祀られるようになった。それこそが熱田の社だ。つまり、剣はかんなぎの女と相性が良いはずだった。

 しかも皇子の契交わした美夜受比売に祀ることができたなら、かんなぎは乙女である必要はないはずだ。

 ならば額田以上に相応しい迎え手がいるだろうか。

 剣を、葛野に。

 葛野を剣の威光をもって、帝座へと押し上げる。

 完璧な企てだ。

 剣を得られなかった祖父の跡を、剣を得た孫が継ぐ。

 どこにもおかしなところはないではないか。

 御剣もそれを望んでいる。

 だからこそ額田が選ばれたのだ。

 額田はそう信じた。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る