第3話 梔子
甘く、重く、まとわりつくように。
梔子の花の季節はそろそろ過ぎかけているのに、咲き残り花がなんとしつこく薫るのだろう。雨上がりのもわりと立ち上るむれた空気を、甘く重く染め上げる。
額田は梔子の花があまり好きではない。
白くぼったりとしてこれみよがしな姿も好かないし、花びらがすぐに傷んで茶色く変色するのも嫌だ。その茶色い花がいつまでも散らずに、枝にしがみつく様も見苦しい。
茶色く萎んだ花の中に、すでにくたびれたような気配を滲ませる白い花を僅かに残しているだけなのに、この濃く重い薫りはなんだろう。まさか茶色い花がらがまだ薫っているとでもいうのだろうか。
怪訝に思いはしても花がらを薫って見る気にはなれない。そうしてみるには萎れた花がらは、あまりに
梔子の薫りは額田に十市を思い出させる。
それは甘い香りや、いつまでも枝にしがみつく見苦しさからの連想ではない。十市にはそういうものは何もなかった。強く主張する事も、生きようとあがく事もなく十市は死んだ。
それでも梔子が十市を思い出させるのは、単に十市の殯の折に梔子が咲いていたからだ。
遺骸をしっかりとした棺におさめ、殯屋の内に香を焚き込めても、独特の死の匂いを消すことは出来ない。
殯の何日目であったか、額田はむっとした殯屋の空気に耐えかねて外に出た。深く息をついて甘く重い薫りに気づく。
はしりの梔子だった。
大ぶりのつやつやとした葉の間から、白いぽってりとした花がのぞいている。
少し、忌々しい気持ちになった。
額田が求めていたのは清々しい空気だった。重たい、甘ったるい薫りなど嗅ぎたくはなかった。
咲いている花を摘み、バラバラに投げ捨てる。薫りはいっそう濃く立ち上り、地面に散った花びらはわざとらしいほど白かった。
あの時は指先や喪服の袖に、薫りが移って難儀した。殯屋の内にもどればむうっとする死と香の匂いに、甘ったるい薫りが混ざる。結局額田は体調を崩したということで、その日は早めに自室に戻ったが、甘ったるい移り香は中々消えなかった。
考えて見れば馬鹿な事をしたと思う。はしりの花が咲いたなら、他の花も咲くだろう。
実際、梔子の花はそれから次々と咲いた。
十市の殯屋はその短い殯の間、甘い重い薫りに包まれていた。
十市がいなくなったこと自体は、額田にとって大きな変化ではなかった。
もう夫を迎え子を生んでいた娘だ。日常的に世話を焼いているはずがない。そもそも十市が幼かった頃でも、額田は歌人として忙しく、世話は乳母に任せっきりだった。
ただ十市が死んだことで、葛野の養育を額田が行うようになった事は、それなりの変化だった。
もちろん葛野にも乳母がいて、日常的な世話は乳母が行う。
たが、葛野は額田が帝位にとのぞむ皇子だ。
額田は日常的に葛野に接した。接する中でできるだけ自然に、葛野を染めようとした。
葛野は賢い子供だった。
与えられるものを白絹のように吸い取り、求められる振る舞いをすぐに悟った。
あの、人形のような娘が生んだ子とも思えない。
手応えの返ってくる葛野の相手は、額田にも快かった。
葛野をどうやって押し出すのかは中々に難しい。もはや皇子と扱われてもいない皇子。それでも額田には、葛野しかいない。
考えあぐねる内に季節は巡り、再び梔子の季節を迎えて、額田は喪服を脱いだ。
葛野の衣類も明るい色に改める。
喪服を改めてからしばらくして、額田は難波宮を訪れた。
舟を下りたころから暗くなった空は、額田が難波宮につく頃には大粒の雨を降らせはじめた。激しい通り雨は暑気を払うほどに長くは降らず、それこそ焼け石に水をまいたようなもわりとした湿気を立ち上らせた。
湿気は宮の内にもこもる。
外の方が風に当たりやすい分だけでもいくらかましかと宮を出て、甘い重い薫りに気づいた。
宮の片隅で盛りの過ぎた梔子は、ひどく見苦しい姿をさらしている。ひどく醜い、老い朽ちたような姿をさらしながら、薫りだけが濃く甘い。
ふと、脳裏に十市が浮かぶ。
十市の短かった殯が。
美しい人形のように生きて、死んで人らしく朽ちた娘。
遠に地に埋けて、既に土に還った娘。
なぜか苛立つ。なにか落ち着かない。
梔子の甘い薫りがまとわりつくのが煩わしい。
「馬を。」
宮の馬を借りると、額田はその辺りを散策に出た。とにかくあの甘ったるい薫りから離れたかった。
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