第2話 妖言

 十市の死は額田が狙っていた通りの効果を上げた。

 大海人の即位以来、天変地異が続いている。日照りも大雨もおこったし、地震など二度もあった。乱で明けた治世の不吉さもあり、祟りを囁く声が止まない。

 大海人もそんな世情に配慮して、卜定に従い倉梯に斎宮を建てての祓えを用意していた。自らその斎宮に行幸し、大々的な祓えを挙行しようと定めたその朝の忌み事だ。

 今上の皇女にして、非業の最期を遂げたの皇后。その十市の突然の死が、人々に祟りの不安をいっそう深く黒々と刻みつけたのは間違いない。

 皇女の死穢を受けて、せっかくの大祓も中止になってしまった。

 これでいい。

 最近、外来の知識を行使する僧や陰陽師が力をつけている。彼らはこの度の大祓にも多数供奉する予定だったが、その話も当然なしになった。

 額田は歌人。

 この国の古いかんなぎすえだ。外来の知識を振り回す輩を、良く思ってはいない。外国とつくにの有り様にこの国を近づけようとする動きが最近は顕著な事もあり、古いかんなぎの在り方はないがしろにされつつある。

 額田にはそれが納得いかない。

 この国にはこの国が積み重ねてきた有り様がある。なぜそれではいけないのか。

 大友が破れた今、孫の葛野は最後の切り札だ。流されるだけの十市によって、葛野の皇子としての正統性が傷つけられるのは我慢ならない。

 この国の本来あるべき姿。

 古くから続くかんなぎと、豪族たちに大王が推戴される国の形。

 それこそが額田の望みだ。

 大海人の思う通りに進めば、そんな国の形など弾きとばされてしまうだろう。外国とつくにを真似た国では、伝来の知識を振りかざす僧や陰陽師が重んじられるようになるに違いない。

 そうさせて、なるものか。

 だが、葛野を闇雲に押し出したところで、事は成就しないだろう。

 今上の孫、先帝の皇子。

 しかし葛野は先帝の皇子であるという事実を、他ならぬ祖父である先帝によって否定されている。

 何か、決め手となるものが欲しい。

 葛野こそが大王であるに相応しいと証明するに足る何かが。

 額田は喪の色を纏う。

 濃い鈍色の背子からぎぬ淡鈍の被礼。

 葛野にも喪の衣装を纏わせる。

 実母の喪だ。

 少年の葛野も静かにしめやかに、服させなければならない。齢十という歳はすでに非礼を許される歳ではない。

 大王の御位に付くべき皇子であれば尚の事。

 母の死に、葛野は泣かなかった。

 あまりに突然の死に実感もわかないのか、母の死に顔をじっと見つめていた。

 十市の遺体は美しかった。

 生きていた時と同じように。

 しかしすでに季節は四月。

 喪の支度のうちにも死相は進む。

 殯屋に安置される頃には燻らせた香の香りに、独特の死の匂いが交じるようになっていた。

 あの娘も生きていたのか。

 そうなって初めて、額田には十市が人形ではなかったのだと得心できた。そう得心できたところで、母として心が動くわけでもなかったのだけど。

 美しい人形のような娘は、骸となって醜く朽ちてゆくのだろう。

 外国とつくにの作法では、死者を殯屋に置くこともせず、そのまま火にくべてしまうのだという。

 なんというおぞましい事をするのだろう。

 死者の跡形も残さずに全てを灰にしようとは。

 死者は心尽くしの品と共に、最終的には地にける。そして根の国、黄泉にいます母神のもとへと送り出すのだ。

 外国の者たちは母神のもとへ灰を送ろうというのだろうか。

 

 十市の殯は短かった。

 あまりに急であまりに不吉な死を迎えた皇女を手早く黄泉へ送りだそうというような、形ばかりの殯だった。

 しかしその短い殯の終わる前に、倉梯斎宮が焼け落ちた。

 もちろんそれは額田の差配だったが、十市の死にまつわる暗い不吉な影をいっそう濃くする事になった。


 大海人の治世を覆う不吉な影。

 その噂は時に高くなり、低く潜み、潮騒のように消えることなく囁かれる。

 それでも新たな年を控え、ようよう明るい気配が京に見えたかという年の瀬、大宰府から早馬の使いが届いた。

 それは大宰府壊滅の報だった。

 大きな地震と、それによって引き起こされた火災によって、大宰府の政庁は壊滅的な被害を受けたのだという。

 大宰府は国の門。

 そこは遠つ朝廷みかどとも呼ばれる、大陸との交流の拠点だ。

 巷には妖言が溢れた。

 不吉の御門。

 不徳の王者。

 度重なる災いは民草の言葉を借りて、くっきりと託宣を結ぶ。

 神は私をよみして下さる。

 額田はそう思った。

 国の在り方を明け渡そうとする御門に、神も憤っておられるのだ。

 ならば神は示して下さるだろう。

 額田の擁する葛野を、大王とするために必要な道筋を。

 慌ただしさと混乱の内に、年が明けた。

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