巫の系譜

真夜中 緒

第1話 毒杯

 十市は額田の差し出した毒杯を、なんの抵抗もなくあおった。

 額田は静かにそれを見守り、空になった盃を手に部屋を出た。十市の息は静かに止まり、朝には冷たくなっている事だろう。

 十市は額田の産んだただ一人の子だ。

 額田の二度目の夫であった葛城天皇に乞われて、葛城の息子である大友の正后むかいめとなった。

 葛城は大友を嫡子と扱っていたし、葛城の死後には即位もしたのだが、十市の父である大海人が異を唱え、反乱を起こした。

 吉野へ隠遁した父に、十市が密書を送って反乱を助けたのだなどと、まことしやかに言う者もある。

 十市に、そんな意気地があるものか。

 たおやかに美しいけれど、ただそれだけのような娘だ。

 十市を見ていると、額田は昔唐人に貰った人形の事を思い出す。

 美しく彩色された貴婦人の面立ちに、艶やかに豪奢な衣装。髪には触れるときらきらと鳴る、小さな銀歩揺まで飾られていた。その人形を貰った時は、姉と二人でとても喜んだものだ。

 しかし、額田はすぐにその人形に飽きた。

 精巧な装飾を施された高価な人形は、子供が抱いて遊ぶには不向きだった。眺めるだけの美しい人形よりも、抱いて遊べる素朴な人形の方がいい。美しいだけのものなど、面白くはなかった。

 十市はまるであの人形だ。美しいけれど手応えがない。大友の正后むかいめになる折も、ただ唯々諾々と大友を迎えた。十市が大友との間に男の子を授かった折は、少し驚いた。

 あの人形のような娘でも、子を産むことは出来るのか。

 子は葛野と名付けられ、皇子として育てられた。

 皇子とは天皇の子が呼ばれる名だ。

 天皇ではなくても大兄の子であれば皇子となる。皇子でなければ皇位を踏むのは難しい。皇子であっても母の身分が低ければ、皇位は踏めないものなのだ。

 葛野は皇子だった。

 今はもう、そう呼びかける者は少ない。

 大友は葛城の嫡子として扱われていたが、正式に大兄とされてはいなかった。母の身分が低い大友は、大兄とすることは難しかった。

 大兄は帝の弟である大海人だった。

 おそらく大海人に大友の後ろ盾になってほしくて、葛城は十市を大友の妃に配した。

 確かに大友の即位に際して、十市は皇后おおきさきにたてられた。

 だが、それがなんだというのだろう。

 大友は結局大海人に倒された。

 即位して、直ぐに倒された帝など、即位しなかったことと変わりがない。実際に、大海人は大友の即位そのものを無視した。

 大友はただの皇子であり、十市も皇后おおきさきとは扱わない。当然その子の葛野は、皇子ではなくおおきみとして扱われるようになった。

 なぜ黙っているのかと、どれだけ十市の事を歯痒く思ったことだろう。葛野は十市の子だ。父である大海人にすがって皇子の称号を願ってもいいはずではないか。それで許しは出ないにせよ、何もせずにただなされるがままでいるなどと、額田の理解を越えている。

 そのうち、十市に新しい婿を迎える動きが出始めた。

 それは駄目だ。

 そうなれば、十市が皇后おおきさきであったことは徹底的に否定される。皇后おおきさきは二度と夫を持たないことが普通だからだ。そして葛野が皇子であることも、やはり完全に否定されてしまう。

 十市はなんの抵抗もせず、新たな夫を受け入れるだろう。大友を迎えた時のように淡々と。

 だから、額田は十市を殺すことにした。

 殺さなければならなかった。

 

 額田は歌人、言霊を扱うはふりであり、かんなぎだ。その技は母方に代々受け継がれた女系の職能で、額田は殊更に、その能力に秀でている。

 言の葉には神が宿る。

 時に、唯人のさり気ない言葉にさえも。

 歌人は、美しく整えた言の葉に神を招く。

 神を招き、神の宿った言の葉は神の言葉だ。神の言葉は多くの人の魂を揺り動かす。

 人は歌う。

 男が女に、女が男に、親が子に、子が親に。

 額田は神の言葉を用いて、数多の人に呼びかける。

 歌人の技は権の傍らにあってこそ生きる技だ。ならば歌人が権の傍らを目指すのに、なんの不思議があるだろう。

 権家、皇家の血に潜み、母から娘へ伝えられる。そうやって歌人の生命は今まで続いて来たのだった。

 額田には姉がいた。

 姉は父にちなんで名を鏡という。

 歌人の姉妹は、両親が共に天皇の尊位に上った兄弟に奉られる事になった。

 兄に姉が

 弟に妹が

 けれど兄弟の上下はそのまま至尊の位への距離でもある。額田は不満だった。鏡よりも額田の方が、ずっと言葉を扱う事に巧みだったからだ。

 幸い、兄弟の母である時の御門みかどは額田を気に入り、何かの折の歌を額田に命じる事が多かった。

 乞われて百済の戦を助けるために軍を発した折も、額田は御門に歌を献じた。

 

 熟田津に船乗りせむと月待てば

  潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

 

 額田の歌に応えるつわものの声。

 地をとよもす叫び。

 これこそ、歌人の仕事だ。

 言葉は神を、人を、動かす。

 自分の歌が人の心を動かし、奮い立たせた実感に、額田は酔った。

 もっと、動かしたい。

 歌で、言葉で。

 歌人としてのその欲が、額田に葛城を誘わせた。

 すでに母である御門の代理として、政の舵を握っている葛城に比べれば、その葛城のさらに補佐に過ぎない大海人は魅力的とは言えない。

 葛城もまた、額田を欲していた。

 政権の立役者でありながら大きな瑕疵をもつ葛城は、その傷を埋める者を必要としていた。

 瑕疵とは、密通である。

 葛城と叔父にあたる天皇すめらぎかる皇后おおきさきである同母妹いろも 間人はしひと皇女との密通は、半ば周知の事実だった。むしろそういう事実のある間人を皇后とする事を条件に、軽が即位を果たしたのだ。

 軽の皇后となっても、間人と葛城の密通は止まなかった。

 軽が十年の在位の後に崩御しても、まだ葛城が即位することなく、一度は譲位した母、皇祖母尊すめおやのみことたからが重祚したのは、結局止むことのなかった葛城と間人の密通に目を瞑り、蔑ろにされ続けた軽先帝への同情と、そこからくる葛城への反感を無視することが出来なかったからだ。

 葛城の正妃むかいめはすでに父を失った石女うまずめで、人目にはつかない存在だった。そこに額田が加われば、人の目はそちらに惹かれるだろう。当代きってと噂される艶やかな歌人は、薄暗い噂も、目立たない正妃も、塗りつぶしてしまうはずだ。

 しかも葛城には嫡子と呼べるほどの血筋の男子がいない。皇子は何人かいるものの、皆身分のおとる嬪の所生で、大兄にたてることには無理がある。

 唯一夫人の生んだ健皇子は唖で、しかも幼いうちに薨じてしまった。

 女王である額田が皇子を生めば、その子が大兄となる可能性は高い。

 葛城は額田を得た代償に、くだんの健の同母姉である鸕野讚良皇女を大海人に与えた。すでに大海人の正妃となっていた大田皇女の同母妹でもある讚良は、葛城の娘の中でも最も格式の高い皇女の一人だ。それは葛城が額田にそれだけの価値を見出していたということだ。

 額田の自尊心は満足した。


 思えば

 あの時、あの皇女を与えるべきではなかった。

 姉の大田皇女はいいとして、妹の鸕野讚良皇女を大海人に与えてはいけなかった。

 葛城の死に際し、出家して吉野に籠もった大海人の事を、庶人は「虎に翼をつけて放てり」と噂した。

 神意はときに妖言に宿る。

 あの「翼」は唯一吉野に同行した妃、鸕野讚良の事だった。

 深い森のような

 凪いだ海のような

 たおやかな美女である姉の大田と違い、女の匂いの薄い皇女。

 しかし妃の優劣というものは、単なる女の優劣ではない。

 讚良が大海人の力強い翼となり、その飛翔を支えた。

 彼女がいなければ大海人は吉野に斃れ、大友はつつがなく帝位にあり続けたかもしれない。そうなれば額田の娘十市は皇后、孫の葛野は大兄皇子。額田は彼らの傍らで、言霊を操り続けたことだろう。

 そうなれば、人形のような娘にも飾りどころがあったものを。

 静かに夜は更けてゆく。

 十市の息はそろそろ止まっているだろうか。

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