【肆】 香油
。
一 香油
二 衣装
三 月明り
四 恋敵
五 説教
六 先従隗始
七 臍曲がり
八 感情
九 くちづけ
十 刃
十一 悪さ
十二 火傷
一、香油
縁側で、諭利が髪を洗っている。
膝立ちで、礼をするように頭をさげ、長い髪を垂らす。
大きめの桶に薬湯を入れて髪を浸し、諭利は指で優しく揉み込んでいる。
黒絹の髪はしっとりと水を含み、
水面の照り返しが、諭利の顔に首筋に、柔らかな光の波紋を描く。
「色っぽいな。」
餌を嗅ぎつけた犬のように、草介が寄って来た。
「俺はそうやって、あんたが髪を洗っている姿が、好きなんだ。」
眩しげに目を細め、草介は笑った。
間近に寝そべって、諭利の動作の始終を眺める。
髪を洗う、「礼」という字の形状のような姿勢を、草介は美しいと感じた。
髪を洗い終え、諭利が手拭いを取ろうとすると、草介は待っていたように先に手ぬぐいを取り、髪を拭き始めた。
「香油を髪につけるんだろ。
俺にやらせてくれよ。」
「まだだよ。
もう少し乾いてからだ。」
諭利は、草介から手ぬぐいを取り返して、髪を包んだ。
その隙に、草介は化粧台の上に置かれた乳白色の硝子の小瓶を手に取った。
蓋を開けると、熟した桃の実のような香りが漂った。
共に暮らしていた女が、似たような物を使っていたが、そちらは、微かに油が劣化したような粗悪な臭いをさせていた。
「ソウ、扱いには気をつけておくれよ。
この国では売っていない物なのだからね。」
草介が、大きな手で小さな瓶を持っているのを見るとハラハラする。
その香油は
「ああ、わかった。」
小瓶は、よく見ると凝った造りをしている。
瓶自体が花の蕾のような形状で、蓋の内側と瓶の
草介に、諭利の衣装は一見地味に見えて実は高価だと教えたのは、哲郎だ。
あいつは質屋の息子だから、目敏く人の持ち物を値踏みする。
哲郎の
「物書き」なんて事をしているわりに、草介は生身の人間をよく視ていなかった。
こんな風に注視してしまうのは、諭利に惚れているからだ。
お茶を飲み終えると、諭利は頭に巻いていた手ぬぐいを取った。
半乾きの髪に
「ソウ、
「赤子を扱うように、だろ?」
両手で髪を挟んでゆっくりと滑らせ、丁寧に馴染ませてゆく。
麗しい香りが鼻を
諭利と初めて会った夜から、草介はこの香りの虜だ。
花に寄る虫のように本能的に引き寄せられる、以前どこかで嗅いだような、懐かしい記憶に繋がる香りだった。
「ああ、いい匂いだ。……」
草介は髪の束を手にとって、唇をつけた。
「なあ、」
草介は問いかけ、哀しげな目を諭利の襟足に注いだ。
「抱かれにゆくのか?」
二、衣装
「邑重に会いに行くんだろ。
清張の使いで、邑重に船を造らせるのと引き換えに、あんたはその身を捧げてやるのか?」
「つまらないことを、……」
諭利は、草介を見ずに呟いた。
諭利の目は、
その衣装は、諭利が色合いを確かめるために並べているものだ。
最近、邑重に会うといって、諭利は頻繁に出かける。
会う理由は、哲郎から訊いているし、諭利にも同じことを説明されている。
邑重に会う前、諭利は、店を番頭に任せて早めにあがり、髪を洗い、衣装を選ぶ。
朝に着て出た衣装のままで十分に美しいのに、いつもより少しだけ上等な物を選んで着る。
これは決して、見過ごしにはできない事柄だった。
諭利には、杉田屋との親密な交際が噂されているが、実際はそうした仲ではないと確信している。
次に、市蔵と白浜屋だが、こちらも友人の域を出ることはないだろう。
他は、清張に遊吉、──関係は疑わしいがこの国にはいない。
あと、──
草介が警戒しているのは、邑重だ。
今はそうでないにしろ、先はわからない。
邑重が、その
一度も会ったことがないが、哲郎の話しでは、窯国の人間特有の、
「ソウ、私は『清張の使者』として邑重に会っている。
清張の名を
それに、邑重は、やはり物作りをする人だけあって余人より目が利くのだよ。
細かな所までよく見ている。
だから、気を抜けないんだよ。」
「面倒臭い男だな。
俺はあんたがどんな
重要なのは中身だからな。」
おまえも かなり面倒臭い男だよ、と、諭利は胸の
草介は、色々と視ていながら知らん顔をしている。
どうせ知らん顔を通すならサラリと見流してしまえばいいのに、すべて覚えていて溜め込んでしまうのだ。
それで次第に気鬱が募り、身体にも変調をきたしていたのだ。
「お前はもう少し、身なりに気を使ったらどうだい?
せっかく よい体格をしているのだから。」
「その体格が問題なのさ。
古着屋には、俺の体に合うものが置いてない。
手直しに出すにも金がかかるだろ、──難儀なことさ。」
夜具にしても、既製のものでは足が布団からはみ出てしまう。
諭利はそれを知っているけれど、気を利かせて草介に合うものを新丁すると、こいつは更に調子に乗るので、気づかないふりをしている。
「あんた、本当にその気はないのか?
ただの使者、と言いながら、随分と浮ついた様子じゃないか。
向こうはきっと勘違いしているぜ。
そうやって気を持たせると、後々 面倒が起きるんだぜ。」
あんたは、あちこちに良い顔をしているくせに、なんで俺にだけ素っ気ないんだ、──草介の顔に、そう書いてある。
「そうだね。
その面倒とやらは、おまえ ひとりで十分だよ。」
三、月明り
『月明かりの下をあなたと歩きたい。』
そう云って、邑重は諭利と共に店を出た。
町の各所に門限があり、戌の刻を過ぎると中心部から順に門が閉じていく。
会話が弾んでいても、諭利は時刻になったら帰ってしまう。
邑重としては、大人の男としての余裕を示したいので、諭利を無理に引き留めることはしないのだ。
川縁を歩いていると涼しい風が吹き上げてきた。
目前に門があり、門の奥に橋が掛かっている。
「ではここで。」
諭利は云い、邑重と、門前で挨拶を交わして別れた。
諭利は、門の向こうの橋を、静かに渡って行く。
邑重は次第に小さくなる背を名残惜しく見守る。
明日から、仕事で島へ行かねばならず、しばらくは諭利とも会えない。
そう思うと、ここであっさり家へ帰る気にはなれなかった。
タンタンタンタン。
橋を駆けてくる足音を、諭利は聴いた。
足音は近づき、ピタリと横に止まった。
「やはり、家まで送らせて貰えませんか。」
息を弾ませ、邑重は云った。
橋を渡りきる前に、諭利に追いついた。
「あなたが考えているよりも、私の住まいは遠いのですよ。」
「構いません。」
追いかけて来た邑重に、諭利は嫌な顔をしなかった。
そこで一つ、邑重は安堵した。
次第に民家は疎らになる。
田植えを終えたばかりの水田が続いている。
町から半刻ほど歩きづめだが、傍らに諭利がいることで、道行きの長さは感じなかった。
「梅をね、焼酎に漬けているのですよ。
そろそろ良い頃合いに浸かっているだろうから、試しに飲んでみようと考えていたところです。
──いかがですか、ご一緒に。」
「いいのですか?」
ええ、と諭利は頬笑んだ。
今まで、諭利に距離を置かれていたけれど、ここで一足飛びに縮まったように感じた。
諭利の方から、家へ上がって酒を飲もう、と誘っている。
意を決し、追って来た甲斐もあったようだ。
「──ああ、そうだ、」
諭利は、思い出したように云った。
「今、家に厄介者がいるのです。
野良犬がね、迷い込んだまま住み着いているのです。
これが、図体がデカくて多少目障りですが、──まあ、相手にしないでください。」
坂を上がると小さな
諭利は先を歩いて垣根の柵を開いた。
邑重は、柵を入りかけて足を止めた。
邑重の目には、縁側に悠々と身体を
「帰ったか、遅かったな。」
草介は体を起こして
「土産はないのか。
出掛ける時に、美味い寿司を持って帰ってやるから待っていろ、と云ったよな。」
「そんな事、云った覚えはないよ。」
諭利は顔を
「ごめんなさい。
お気になさらず、さあ、どうぞお入りください。」
「いえ、今夜はここで失礼します。」
「野良犬」とは、この若い男のことなのだ、──邑重は、酷く動揺した。
四、恋敵
「せっかくおいでになったのだから、寄っていってください。
先ほど話した焼酎を、今すぐお持ちいたします。
それと、箸休めくらいのものは、すぐに用意できますから。」
「いえ、今日は帰ります。
この
あなたが云った通り、静かな場所ですね。
それに、──思った以上に、遠かった。」
邑重は苦笑した。
「明日からまた
「そうですか。……
ここまで来て頂いて、何のお構いもせずに、ご免なさい。
ぜひ、またお越しください。」
「今度は時間のあるときに参ります。
刻限を気にせず、ゆっくりと語り合いましょう。」
ではまた、と邑重は会釈した。
邑重が垣根を出ると、草介は立ち上がるなりサッと縁側から下りて、諭利に近寄った。
「早く入れよ。」
草介は云って、諭利の肩を抱き、
その様子は、垣根越しの邑重の目に入っていた。
草介は、邑重がこちらを見るだろうと算段し、芝居を打ったのだ。
『俺のものだ。』
──あの若い男の目には、ハッキリと敵意の炎が見えた。
野良犬が住み着いている、──諭利はあの男と暮らしている。
二人の間には、あの男が執着する理由が確かにあるのだ。
心が乱れた。
息が苦しく、目が眩み、足元がおぼつかず、何処をどう帰ったか判らないほどに、邑重は動転した。
「──家に上げてどうする気だったんだ。」
「送ってくれたのに、そのまま帰すのは失礼だろ。」
「ハン、若い娘でもあるまいに。送って貰って嬉しいか。」
──あの男、今頃どんな顔をしているだろう。
想う相手に、共に暮らす男がいると知ったのだ、心穏やかでないはず。
「あんたも酷なことをするよな。」
「何がだい。」
「あの男は、美味そうな肉の匂いに釣られ、こんな山奥まで付いて来たんだ。
そりゃ、少しは味見をさせて貰えるモンだと思うだろうさ。
ここへ至る道行きは、足取り軽く、浮かれ浮かれていただろうさ。
──ところがだ。
家には男がいるわけさ。
舞い上がっていた体は、奈落の底へと真っ逆さまだ。
可哀想にな、……あの男の心中、察するぜ。」
「ひとが悪いのはお前だろ、何だか楽しそうだよ。」
「ああ、楽しいね。
これでスッパリ諦めてくれたらイイんだがな。
あんたも、その方がイイんだろ?
これは貸しにしておいてやるぜ。」
「何が、『貸し』なんだい?」
「とぼけるのか。
あんた、あの男があんたに惚れてるのを知らないワケじゃないだろ。
あんたは俺を使って、あの男に線引きをしたんだ。
俺はあんたに利用され、巧いことあの男を追っ払ってやったんだ。
──だから、『貸し』さ。」
草介はニヤリとした。
五、説教
愉快だ、恋敵を打ち倒してやった。
草介が見た限り、諭利はあの男に恋情がない。
もし、その気があれば、今ごろはどこぞの連れ込み宿で、適当に楽しんでいることだろう。
邑重は、草介には分の悪い敵だ。
邑重は、若衆好みの筋金入りの男色家だ。
草介が知らない衆道の手管を、幾らも知っているはずなのだ。
そんな
「あんたはあの男が苦手だよな。」
「お前は、ズケズケものを云うんだね。
土足で人の内側に踏み込むと、嫌われるよ。」
「あんただから云えるのさ。
俺は余所では大人しいんだ。」
だから、草介は言いたいことを言える諭利の側を離れたくない。
居心地の良い
邑重は誰より遠ざけておく必要がある。
「あんたはつまらない説教をしたがらないから好きだ。
つまらない奴が、偉そうに説教をしたがるのはウンザリだ。」
特定の人物を思い浮かべ、草介は苦々しげに呟いた。
「ガキの頃、俺は体が弱かったから、学問所には行かず、講師を家に招いていた。
豊国の都でも名の知れたお偉い先生に、礼を尽くし、是非に、と頼み込んで来て頂いていたのさ。
そいつは、初対面から、『お前が桂家の嫡子だからと媚びたりしないぞ』という態度だった。
シカツメらしいそいつの
真面目に聴くふりをしながら、内心は『早く終われ』と念じていた。
そうして、上手く凌いでいたつもりが、やっぱりガキなんで、つい
そしたら、ジジイは自分の腿をパシンと叩き、『何の為の学問だ、誰の為に話をしていると思っているのだ』と怒りだした。
どこぞの貧乏武士の倅が苦学をして大成しただとか、優秀だが学ぶ事を諦めざるをえない者が大勢いるだとか。
揚げ句に、自分の身の上話までし始め、こうして学ぶことができる己の立場に感謝をしなくてはいけない、と説く。
俺を戒心させる為というより、恵まれた環境にある俺を妬んで、当て擦りをしている風にしか聞こえなかった。
全く、貴様は何様のつもりだ、タカが田舎の講師ぶぜいではないか。
こんなクソ田舎で、お偉い先生と崇められて満足しているような小者だろう。
田舎者は都の大学を出たと聞けば、そいつを神様みたいに崇めてくれる。
だが、都じゃその程度の奴はゴロゴロいるさ。
都で官職に就けないあぶれ者が、田舎でガキ相手に講師なんぞを始めたりするのさ。
ジジイは高名な学者サマだからな、ガキのお守りなんぞできるかと、内心では思っていただろう。
『どんなに気に入らない相手でも、教えを乞う者は師を師として敬うべきなのです。
人の上に立つ者は、常に自分が公人であるという意識をもたねばなりません。』
ジジイは、そう、俺を諭した。」
六、先従隗始
「『身勝手な振る舞いは許されません。
あなたには、人の数倍の忍耐が必要なのです。
気に入らない者とも付き合わなくてはいけない、どんなに私が嫌いでも、礼節をもって対応してください。
あなたが、私にどう接するかを周囲の者は見ているのです。
あなたの素養を見て、評価を点けているのですよ。
まず、身近な者の信用を得なくてはいけません。
その者が、あなたが領主となられたとき、あなたの支えとなるのです。』
欠伸が出るようなつまらない講義しかできんくせに、その上つまらない説教をする。
要は、自分を敬えと云いたいのだ。
『今王誠欲致士 先従隗始 隗且見事 況賢於隗者乎』(戦国策)
先ず
俺にだって言い分があったさ。
だが、ガキの俺は黙って聞いていた。
我慢をしろと云ったが、俺はずっと我慢をしていた。
自分の思い通りになることなんて、何一つ無い。
病身に生まれついたせいで、色々なことに制限があった。
『桂家の嫡子がそんな脆弱でどうするか』と、父に云われ続けていた。
ガキは何も考えていないと侮っていたのだろうか。
裕福な家に生まれたガキは、悩みなどないと思ったのだろうか。
俺のことなど知らないくせに、お前は『甘い』と決め付けて、偉そうな悟り顔で説教をしてくる、──そんな奴が、俺は大嫌いだった。
人に物事を教える者は、謙虚さを持つべきではないのか。
教師という
ジジイが云うように、俺は恵まれた環境にある。
だから、それを有効に使わない手はないと考えた。
国の書庫に出入りし、貴重な文献を見ることをしたし、必要な書物を国外から取り寄せることもした。
俺は、さほど苦労をせず、朱国の尊徳院に入ることができた。
名門の貴族の子弟しか入学を許可されない最高学府だ。
そして、朱国への留学を控えた前日、俺はジジイの家に出向いた。
『あの日、あなたが諭してくださったお蔭で、学問と真剣に向き合うことができました。』
俺は殊勝な顔をし、頭を下げた。
教え子が師を越える事こそ、師たる者の本願ではないか。
貴族でないお前は、逆立ちしても入れない尊徳院だ。
ジジイは表情を崩さず、『おめでとうございます。』と云い、『ですが、』と、言葉を足した。
『入ることが最終の目標ではないはずです。初心を忘れず、今後も精進なさいますよう。』
精一杯の負け惜しみ、──俺が奴を嫌っているように、奴も俺を嫌っている。
だが、教え子が尊徳院へ入ったとなれば、自らの名声も高まる。
何ともし難いところだよな。」
「お前は嫌なヤツだね。」
草介を見据え、諭利は静かに告げた。
「お前が本心から礼を述べているのではないと、その人も気づいていただろうね。……」
必要以上に人に敵意を向けるのは、自らが深く傷ついているからなのだ。
七、臍曲がり
お褒めの言葉、痛み入る、──とでも云いたげに、草介は皮肉な笑みを浮かべた。
颯が、どれほどイヤな子供だったか、目に浮かぶ。
質問をするにも入念に下調べをし、教師が曖昧な解答をしようものなら、あげつらってほくそ笑むような小憎らしいガキだったに違いない。
そんなクソガキと根気強く向き合っていたその師は、やはり師としての確固たる信念を持ち、真剣に指導にあたっていたのではなかろうか。
颯はただの子供ではない。
豊国の、広大な領地の主となる者だ。
師は、単に学問を授ければ良いというものではない。
颯の言動には、領民の生活がかかってくる。煙たがられようと憎まれようと、領主としての心構えを教えねばならない。
「ソウ。……
案外、その人は、お前のことを真剣に考えてくれていたのではないだろうか。」
草介は眉を
颯は、師が正論を述べていると分かっていて、反発していた。
このヘソ曲がりの性格からして、子供に媚びへつらう師であれば、見下して相手にもしなかったに違いない。
今ここで、「お前は間違っている」と説教を始めたら、草介はヘソを曲げて口をつぐんでしまうだろう。
そこから、草介を
草介には、身近に信用の置ける者がいなかった。
頼れる者もいず、行く宛もなく、ふわふわと漂っていた。
草介に必要なのは「居場所」だ。
私が、草介が元の場所に戻るまでの、仮の「居場所」であれたら、と諭利は思う。
「ソウ、梅の焼酎を飲んでみようか?」
「いいねえ。」
草介は、にんまりとした。
爽やかな梅の香りが漂う。
ぐい呑みの底に沈んでいる梅の実を、草介は指でつまみ上げ、「ガキの頃からの好物だ」と云って、美味そうにしゃぶっている。
邑重に線引きをした、──という草介の意見は当たっている。
邑重とは、一定の距離を保って付き合うべきだ。
無口で気難しいと聞いていた邑重だが、会うと気さくな人柄だった。
そして意外にも、諭利に対し、積極的な「好意」を示してきた。
邑重の相手は享楽亭の給仕で、花の盛りの十六、七歳の少年たちだと聞いていた。
三十路に近い年齢の者には、興味を持たないと諭利は思っていた。
邑重から、「あなたとは、以前に会っているのです」と云われた。
以前、──とは、国を出る前、十二年以上も昔のことで、諭利には邑重に繋がる記憶がない。
訊ねても、「いずれ」と言葉を濁し、邑重は教えてくれない。こ
ちらに気を揉ませるための戯言かもしれないが、妙に胸に引っ掛かるのだ。
「要らぬ情けをかけるなよ。」
諭利の心を見透かしたように、草介は呟いた。
ああ、そうだな、と諭利は胸の裡に呟いた。
溺れる者を救うには、己も共に溺れる覚悟が要る。
生半可な気持ちで、人に手を差しのべるべきではない、──これは、芙啓から学んだことだ。
八、感情
数日して、貸していた本を承が返しに来た。
「ありがとうございます」と、承は云って口をつぐんだ。
内容が内容なだけに、感想を言い辛いのだろう。
いつもなら、ここの部分が面白いとか、疑問を感じたとか、具体的な話をするのだが、今回は単純に楽しめなかったようだ。
「あなたが何を感じたか、何となく分かります。
私があなた位の年頃なら、きっと似たような感想を持ったでしょう。」
諭利はこう前置きをし、続けた。
「この男は私と似ています。
こういった『弱さ』が、私の中にもあるのです。
そのことに気づき、認めるようになったのは最近のことです。
年を重ね、私は『人』というものが段々と愛おしく思えてきたのです。
若い頃には、人の嫌な所ばかりが目につき、少しの
思えば、……私は酷く『人』を憎んでいました。
他人を思いやる気持ちはなく、ただ自らを哀れみ、心を閉ざしていた。
そして、他人を傷つけることに
けれど、そんな私にも手を差しのべてくれる人がいた。
払っても払っても、その手は目の前にあった。
私は、人の温もりに触れた。
狭い世界を抜け出し、多くの優しさに出会い、この世は捨てたものではないと思えた。
『老い』とは惨めだと、若い私は考えていたけど、今は老いていく自分を、興味深く感じているのです。」
「あなたの
承は顔を曇らせた。
「それでも、私は納得できません。
この男が生き長らえて天寿を全うしてしまうのには、疑問を感じます。
この男の『弱さ』のせいで、女たちは命を落とすのです。
人の命を奪っておいて、己だけが救われ、赦されて幸せに生涯を閉じるのでは、女たちが浮かばれないではありませんか。」
「そうでしょうか。
女たちはこの男をとても愛していたのです。
それは母が子に抱くような愛情でした。
母はどんな不肖の子であっても、その子の幸せを祈るのです。
そうでない母がいることも、私は知っています。
ですが、少なくともこの物語の女たちは無償の心で男を愛しているのです。
決して男の没落を望んではいません。
穏やかな生活のなかで、心安らかに一生を終えることを祈っていたと思います。」
「男は、それで幸せでしょう。女たちも、それで満足なのだとしましょう。
ですが、周囲の者はどうでしょう、女の身内は、男の妻子は、──他人を巻き込み、傷つけ、自分たちだけ幸せならば満足だなどと、そんな身勝手を、愛というのでしょうか。」
たかが物語、全て虚構なのだが、こうして承が真摯に捉えて意見を述べるのを、諭利は好ましく思う。
「恋愛は、身勝手なものですよ。
私も人を愛した経験がありますが、知らずに人を傷つけ、結果として、私の幸せの陰で泣いている人があったとしても、身を引くことができなかったり。……
己の感情も、ままならないものなのです。」
九、くちづけ
「誰からも、祝福される恋ができたら良いのですが。」
そう呟き、寂しげに頬笑む諭利から、顔をそらし、承は云った。
「男は、本当に女たちを愛していたのでしょうか。
愛という名を借り、単に体の欲を満たしたに過ぎないのではないでしょうか。
この話の作者も、悪戯に読み手の欲を掻き立てているようにしか思えません。」
──私自身、肉欲を掻き立てられた者の一人なのだから。……
「あなたには、私が随分と子供に見えるでしょうね。
私は、男女の情愛の深みを知りません。
誰かに、強く惹かれたことも、愛を告白したこともありません。
人を、愛してみたいという想いはあります。しかし、それは女の肌に触れてみたいという『慾』に繋がっているのです。」
承は顔を赤らめ、視線を下げた。
「ご免なさい、承様。
私の言い方があなたを困らせてしまったようですね。
男が女の肌に触れてみたいと思うのはごく自然な感情です。
ご自身を卑下なさらないで下さい。
私にもそういう感情があります。
わけもなく人肌恋しく、狂おしくなるときがあるのです。」
諭利は何か思案するように間をおき、「肌を合わせ、伝わる想いもあるのですが、……」と呟き、承を見た。
「口づけを、してみますか?」
承は、俯いたまま目を見開いた。
「肌に触れてみたいと思うように、口づけをしてみたいと思いませんか?
私でよければ、お相手しますよ。」
この人は何を云い出すのだろう、──あまりのことに、承は言葉が出ない。
「私の顔は忘れてください。
好きな女人の顔を胸に浮かべてみて。
想いを寄せる相手は、おありでしょう。」
本当だろうか。
この人のことだから、顔を寄せた瞬間に「嘘です」なんて、スッと
唇に、触れてみたい、──という思いが、承のうちにはある。
諭利に見つめられていると、鼓動が速くなり、感情がせめぎ合って、言葉がでない。
承の心を読んだように、諭利は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「では、そこにあがってみましょうか。
あなたの目線が高くなるように。」
促され、承は階段状になった飾り戸棚を上がった。
そうすると、自分の目の位地に諭利の額があった。
承は不安げに諭利を見下ろしていた。
思いを寄せる相手の顔を、と云われても、特に浮かばない。
──諭利の唇に、触れたい。
美しい歌声を奏でるあなたの唇に。
私の心を強く動かしたのは、あなたの歌声だ。
さあ、と諭利の目が促す。
どうぞ、ご正味あれ、──諭利は顔を上向きに、少しだけ首を左に傾けた。
承の目に合わせた視線は、承の唇に降りていく。
ほとんど閉じかけた目蓋に、長い睫毛が際立っている。
美しい、──能のように洗練された美しい形状。
この人は、身の内に麗しい音楽を宿している。
ゆっくりと顔が近づく、承の動きに合わせ、誘うように唇を心持ち薄く開く。
諭利が傾けた方向と反対に、承は頭を傾けて目を閉じた。
十、刃
唇が重なりかける。
そして、触れた、と感じた瞬間には、承は顔を引いていた。
片方の目を開いて、諭利は困ったような笑みを浮かべた。
この少年の誠実さが、頬笑ましい。
「好きな相手を、と云ったのに、……」
諭利の手がのびて承の頬に触れ、親指が唇に押し当てられた。
「この唇に、私はもう少しだけ触れていたかった、……」
親指は下唇を捲って、湿り気を帯びた内側をなぞった。
「この柔らかさを、もう少しだけ味わいたい、と云ったらお嫌ですか?
やはり私とでは、そんな気分になれませんか?」
承の瞳が揺れた。
わずかに、──見過ごしてしまうほど微かに、承は首を横に振っていた。
「では、もう一度。」
教師が、正しい答えを導きださせるような口調だった。
承は諭利の肩に手を置き、唇を重ねた。
諭利の唇が押し返してきた。
位置をずらし、下唇を柔らかくくわえられた。
舌の先が、口の内側をそろりと舐め、肉の弾力を楽しむみたいに、唇をたゆたわせる。
心地よい、──木漏れ日が唇の上に揺らめいている感覚。……
そうして、いつまでも唇を離せずにいると、諭利が肩口をそっと押してきた。
承はハッとして、顔を離した。
しつこく口に吸い付いていた自分が恥ずかしくなり、顔がカッと熱くなった。
「もっと深いのをしてみませんか?」
その言葉を理解しない内に、承は体を持ち上げられ、踏み台から下ろされた。
諭利の顔が間近に下りて来て、承は戸惑った。
両手で頭を抑えられ、無理やり唇を押し当てられた。
舌が口をこじ開け、荒々しく内側を探る。
呼吸も出来ず、
諭利は舌を絡めて吸い上げた。
ゴクリ、と唾液を嚥下した。
味わいたい、と諭利は云った。
自分は
ザワリ、と股の内側が泡立った。
血潮が一点に凝縮するのが分かり、承はうろたえた。
諭利は太腿を承の股の間に押し込んで、体を密着させた。
慌てて体を離そうとするが、腰は力強く引き寄せられている。
──どうしたらいいのだろう、そこが強く猛っていると、諭利に悟られてしまう。
「誰にも云いません。」
諭利は耳元で囁いた。
「かわいいひと。
私はあなたが愛おしい、──とても愛おしい。」
吐息が掛かり、耳朶に唇の軟らかさが伝わってきた。
『愛おしい。』
なんて甘い響きだろうか、身体が蕩けてしまいそうだ。
腿が痺れて、膝にも力が入らない。
──怖い。
漠然とした、恐怖。
自分の中の何処かの蓋が開いて、そこから恐ろしいものが流れ出てくるように感じられた。
己が怖い、諭利が怖い、──そう、改めて諭利を「怖い」と認識した。
この人は親切で優しいけれど、危険な部分がある。
この麗しい姿の内には、鋭い刃が隠されている。
そして、その青白い刃の閃光に、私は強く惹かれている。
心臓がドクンと跳ねた。
背を支えられ、寝かされた。
諭利の手が襟をひらく。
なす術もなく、きつく承は目を閉じた。
十一、悪さ
承の緊張が伝わる。
手負いの小動物のように、承は息を殺している。
獣が、血の匂いを嗅ぎ付けて近づかないようにと、固く目を閉じ、祈っている。
「目を開いて、私を見て。」
諭利の手は、承の胸の上にある。
承は恐る恐る目を開き、諭利を見た。
「伝わったでしょうか、私の想いは。」
承は
目には哀しみが満ちていた。
諭利は承の頭に手を添えた。
指先は頬を撫で下ろし、離れた。
「ごめんなさい。
あなたが可愛くて、つい節度を越えてしまいました。
こんなに怯えさせてしまって、心が痛みます。
このようなことは、もう二度といたしません。
ですから、……そんなに悲しげな顔をなさらないでください。」
諭利は承の着物の前を整えて、上体を起こしてやった。
再び、頬に触れようとのばした手を、諭利は引いた。
「もう、お帰りなさい。
夜が更けてまいります。
お一人で、帰れますね。
家屋の明かりが点っているうちに、
そして、できればまた、ここへいらしてください。
ここへ来るのがお嫌であれば、店の方へおいでください。
あなた好みの茶を用意し、お待ちしております。」
承は促され、表に出た。
何処か、追い立てられるようにも感じた。
諭利の顔を見れず、「さよなら」とも言えず、口を横にギュッと結んだまま、軽く会釈をした。
「お気をつけて。」
諭利は、承の姿が見えなくなるまで表で立っていた。
いつもなら、生真面目に振り返る承だが、今日はそれもなかった。
承は、農道を歩きながら考えていた。
日が暮れてしまったら、誰も通る者はない。蛙の鳴き声だけが、田園に響いている。
──酷い人だ。
私の心を掻き乱しておいて、こんな風に放り出してしまうのだから。
あなたが可愛くて、だなんて見え透いた言い訳をして、済まなそうに顔を曇らせて。……
今頃は、私のことを嘲笑っているのではないですか?
それとも、もうすっかり私のことなんて忘れてしまっているのでしょうか。
──酷い人だ、あなたは、……悪い男だ。
承の行く手に人影が見えていた。
人影は次第に大きくなり、承の前に六尺三寸の壁が立ちはだかった。
草介は、承の表情を窺った。
礼儀正しい少年は今日は黙ったままで、すれ違い様、少し頭を下げる仕草を見せた。
何か軽口を叩いてやろうとしたが、云えるような雰囲気ではもなかった。
「──さっき、小僧と擦れ違ったぜ。
いつもと違って無愛想で、どうもご立腹のようだったが、あんた、何か機嫌を損ねることでも云ったのか?
いつもは仲良し小良しのくせになあ。
そういや、あんたも妙な空気だな。」
諭利は机に向かい、書き物をしながら、草介の言葉を黙って聞いている。
草介は目を細め、顎の髭を触りながら諭利の動作を眺めた。
走らせる筆先に、心の揺れが見えた。
「そうか、──小僧に悪さをしたんだな?
そうでもなけりゃ、あんな風にはならないぜ。」
十二、火傷
反論をしないところをみると、図星のようだ。
友人でありたい、何があっても味方でいる、なんて云っておきながらこれか、と少々失望したが、諭利だって生身の男だ。
抑えが効かなくなることだってあるだろう。
だが、それはそれで好都合だ、と草介は思った。
「だから云っただろ。
小僧は生身のあんたを受け入れられない。
俺なら、いくらでも相手をしてやる。
望む通りにしてやれるぜ。」
「ソウ、」と、諭利は背を向けたままで、草介に語りかけた。
「ここに
そしてその目の前に蝋燭があり、火が点っている。……」
机上には、火を点した蝋燭がある。
「炎は、金魚の尾のようにユラユラとして、綺麗だよね。
思わず手で触れたくなるだろう。
手を近づけると仄かに温かさが伝わってくる。
赤く、ユラユラと煌めくものを、童はその手で捕まえたい。
そうして、眺めているうちに、手をのばし、触れてしまう。──」
諭利は手を蝋燭の炎にそろりと近づけ、弾かれたように、手を引く。
「すると、思いもしない熱さに驚く。
そして、後からくるチリチリとした痛みに、不用意に炎に触れようとしたことを後悔する。
嫌でも、火は怖いものだと知るよね。
事前に火が危険なものだと説明されていても、聞いただけでは本当の恐ろしさなんて分からない。
だから、人の目がないところでならと悪戯をして、
小火で済めばいいけれど、一度の不始末で大火事になってしまう事だってある。」
諭利は、紙の一角に蝋燭の火を近づけた。
炎が上がってきた。
炎に舐められ、紙は捩れながらミシミシと小さな音を立てて熔けていく。
諭利の瞳に、炎が艶かしく揺らめいている。
「大人は童が炎に手をふれる前に『危ない』と怒鳴ったり、手をピシリとやって火傷を防ぐけど、私は童が炎に手を
目の前でなら、素早く手当てができる。
ごく小さな、痕に残らない程の傷で済ませられる。」
縁側に歩いていき、紙を持つ手を上に振った。
蝶のように炎は宙へ舞った。
一瞬に光を放ち、瞬きの間に黒い煤となって潰え、音もなく落ちていった。
「火は恐ろしいものだと知ったなら、次からは扱い方に注意を払うようになる。」
振り返り、諭利は草介を見た。
「小僧は、あんたに火傷を負わされたってことか?」
諭利は背を向け、机の前に座り直して再び書き物を始めた。
立ち入るな、──これ以上は語らないという姿勢だ。
──成程、手強い相手だ。
草介は、改めて黒髪の麗人を見つめた。
仕掛けをし、諭利は承が炎に手を触れるのを眺めていたのだ。
触れるか触れないかは、当人の選択。
しかし、逃れるのは困難だ。
既に、承は諭利の手中にある。
喜ばせるのも怒らせるのも、ちょっとしたさじ加減。
心地よく
諭利は、承に対して、ただ親切で優しい人であろうとは、考えていないようだ。
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