【肆】 香油



  一  香油  ─ こうゆ ─

  二  衣装  ─ いしょう ─

  三  月明り  ─ つきあかり ─

  四  恋敵  ─ こいがたき ─

  五  説教  ─ せっきょう ─

  六  先従隗始  ─ まずかいよりはじめよ ─

  七  臍曲がり  ─ へそまがり ─

  八  感情  ─ かんじょう ─

  九  くちづけ  ─ くちずけ ─

  十  刃  ─ やいば ─

  十一 悪さ  ─ わるさ ─

  十二 火傷  ─ やけど ─





  一、香油  ─ こうゆ ─



 縁側で、諭利が髪を洗っている。

 膝立ちで、礼をするように頭をさげ、長い髪を垂らす。

 大きめの桶に薬湯を入れて髪を浸し、諭利は指で優しく揉み込んでいる。

 黒絹の髪はしっとりと水を含み、黄金こがねの雫を滴らせる。

 水面の照り返しが、諭利の顔に首筋に、柔らかな光の波紋を描く。


「色っぽいな。」


 餌を嗅ぎつけた犬のように、草介が寄って来た。


「俺はそうやって、あんたが髪を洗っている姿が、好きなんだ。」


 眩しげに目を細め、草介は笑った。

 間近に寝そべって、諭利の動作の始終を眺める。

 髪を洗う、「礼」という字の形状のような姿勢を、草介は美しいと感じた。


 髪を洗い終え、諭利が手拭いを取ろうとすると、草介は待っていたように先に手ぬぐいを取り、髪を拭き始めた。


「香油を髪につけるんだろ。

 俺にやらせてくれよ。」


「まだだよ。

 もう少し乾いてからだ。」


 諭利は、草介から手ぬぐいを取り返して、髪を包んだ。

 下駄げたをつっかけて庭におり、桶の水を庭の隅に撒きに行く。


 その隙に、草介は化粧台の上に置かれた乳白色の硝子の小瓶を手に取った。

 蓋を開けると、熟した桃の実のような香りが漂った。

 共に暮らしていた女が、似たような物を使っていたが、そちらは、微かに油が劣化したような粗悪な臭いをさせていた。


「ソウ、扱いには気をつけておくれよ。

 この国では売っていない物なのだからね。」


 草介が、大きな手で小さな瓶を持っているのを見るとハラハラする。

 その香油は吟仙ぎんせん(清張)の妹の千鶴に頼み、朱国から取り寄せている貴重な品だ。


「ああ、わかった。」


 小瓶は、よく見ると凝った造りをしている。

 瓶自体が花の蕾のような形状で、蓋の内側と瓶のふちに螺旋の溝があり、合わせて回すと締まる仕組みになっている。


 草介に、諭利の衣装は一見地味に見えて実は高価だと教えたのは、哲郎だ。

 あいつは質屋の息子だから、目敏く人の持ち物を値踏みする。


 哲郎の蘊蓄ウンチクを聞き、草介は諭利の持ち物を観察するようになっていた。

「物書き」なんて事をしているわりに、草介は生身の人間をよく視ていなかった。

 こんな風に注視してしまうのは、諭利に惚れているからだ。


 お茶を飲み終えると、諭利は頭に巻いていた手ぬぐいを取った。

 半乾きの髪にくしを通す諭利を横目に、草介は数滴、香油をてのひらに垂らして温めた。


「ソウ、こすらずに、やさしく。」


「赤子を扱うように、だろ?」


 両手で髪を挟んでゆっくりと滑らせ、丁寧に馴染ませてゆく。

 麗しい香りが鼻をくすぐる。

 諭利と初めて会った夜から、草介はこの香りの虜だ。

 花に寄る虫のように本能的に引き寄せられる、以前どこかで嗅いだような、懐かしい記憶に繋がる香りだった。


「ああ、いい匂いだ。……」


 草介は髪の束を手にとって、唇をつけた。


「なあ、」


 草介は問いかけ、哀しげな目を諭利の襟足に注いだ。


「抱かれにゆくのか?」





  二、衣装  ─ いしょう ─



「邑重に会いに行くんだろ。

 清張の使いで、邑重に船を造らせるのと引き換えに、あんたはその身を捧げてやるのか?」


「つまらないことを、……」


 諭利は、草介を見ずに呟いた。

 諭利の目は、衝立ついたてに掛けてある衣装にむけられている。

 その衣装は、諭利が色合いを確かめるために並べているものだ。


 最近、邑重に会うといって、諭利は頻繁に出かける。

 会う理由は、哲郎から訊いているし、諭利にも同じことを説明されている。

 邑重に会う前、諭利は、店を番頭に任せて早めにあがり、髪を洗い、衣装を選ぶ。

 朝に着て出た衣装のままで十分に美しいのに、いつもより少しだけ上等な物を選んで着る。

 これは決して、見過ごしにはできない事柄だった。


 諭利には、杉田屋との親密な交際が噂されているが、実際はそうした仲ではないと確信している。

 次に、市蔵と白浜屋だが、こちらも友人の域を出ることはないだろう。

 他は、清張に遊吉、──関係は疑わしいがこの国にはいない。

 あと、──

 アレはガキだから、恋の相手にはならない。


 草介が警戒しているのは、邑重だ。

 今はそうでないにしろ、先はわからない。

 邑重が、そのスジの男だからだ。

 一度も会ったことがないが、哲郎の話しでは、窯国の人間特有の、一重ひとえに切れ長の目をした怜悧な顔立ちの色男、だそうだ。


「ソウ、私は『清張の使者』として邑重に会っている。

 清張の名をおとしめないよう、身嗜みに気を配るのは当然のこと。

 それに、邑重は、やはり物作りをする人だけあって余人より目が利くのだよ。

 細かな所までよく見ている。

 だから、気を抜けないんだよ。」


「面倒臭い男だな。

 俺はあんたがどんな恰好ナリでも構わないぜ。

 重要なのは中身だからな。」


 おまえも かなり面倒臭い男だよ、と、諭利は胸のうちで呟いた。

 草介は、色々と視ていながら知らん顔をしている。

 どうせ知らん顔を通すならサラリと見流してしまえばいいのに、すべて覚えていて溜め込んでしまうのだ。

 それで次第に気鬱が募り、身体にも変調をきたしていたのだ。


「お前はもう少し、身なりに気を使ったらどうだい?

 せっかく よい体格をしているのだから。」


「そのが問題なのさ。

 古着屋には、俺の体に合うものが置いてない。

 手直しに出すにも金がかかるだろ、──難儀なことさ。」


 夜具にしても、既製のものでは足が布団からはみ出てしまう。

 諭利はそれを知っているけれど、気を利かせて草介に合うものを新丁すると、こいつは更に調子に乗るので、気づかないふりをしている。


「あんた、本当にその気はないのか?

 ただの使者、と言いながら、随分と浮ついた様子じゃないか。

 向こうはきっと勘違いしているぜ。

 そうやって気を持たせると、後々 面倒が起きるんだぜ。」


 あんたは、あちこちに良い顔をしているくせに、なんで俺にだけ素っ気ないんだ、──草介の顔に、そう書いてある。


「そうだね。

 その面倒とやらは、おまえ ひとりで十分だよ。」





  三、月明り  ─ つきあかり ─



 『月明かりの下をあなたと歩きたい。』


 そう云って、邑重は諭利と共に店を出た。

 町の各所に門限があり、戌の刻を過ぎると中心部から順に門が閉じていく。

 会話が弾んでいても、諭利は時刻になったら帰ってしまう。

 邑重としては、大人の男としての余裕を示したいので、諭利を無理に引き留めることはしないのだ。


 川縁を歩いていると涼しい風が吹き上げてきた。

 目前に門があり、門の奥に橋が掛かっている。


「ではここで。」


 諭利は云い、邑重と、門前で挨拶を交わして別れた。

 諭利は、門の向こうの橋を、静かに渡って行く。

 邑重は次第に小さくなる背を名残惜しく見守る。

 明日から、仕事で島へ行かねばならず、しばらくは諭利とも会えない。

 そう思うと、ここであっさり家へ帰る気にはなれなかった。


 タンタンタンタン。


 橋を駆けてくる足音を、諭利は聴いた。

 足音は近づき、ピタリと横に止まった。


「やはり、家まで送らせて貰えませんか。」


 息を弾ませ、邑重は云った。

 橋を渡りきる前に、諭利に追いついた。


「あなたが考えているよりも、私の住まいは遠いのですよ。」


「構いません。」


 追いかけて来た邑重に、諭利は嫌な顔をしなかった。

 そこで一つ、邑重は安堵した。


 次第に民家は疎らになる。

 田植えを終えたばかりの水田が続いている。

 町から半刻ほど歩きづめだが、傍らに諭利がいることで、道行きの長さは感じなかった。


「梅をね、焼酎に漬けているのですよ。

 そろそろ良い頃合いに浸かっているだろうから、試しに飲んでみようと考えていたところです。

 ──いかがですか、ご一緒に。」


「いいのですか?」


 ええ、と諭利は頬笑んだ。


 今まで、諭利に距離を置かれていたけれど、ここで一足飛びに縮まったように感じた。

 諭利の方から、家へ上がって酒を飲もう、と誘っている。

 意を決し、追って来た甲斐もあったようだ。


「──ああ、そうだ、」


 諭利は、思い出したように云った。


「今、家に厄介者がいるのです。

 野良犬がね、迷い込んだまま住み着いているのです。

 これが、図体がデカくて多少目障りですが、──まあ、相手にしないでください。」


 坂を上がると小さないおりがあった。

 諭利は先を歩いて垣根の柵を開いた。

 邑重は、柵を入りかけて足を止めた。

 邑重の目には、縁側に悠々と身体をくつろげた若い男の姿が映っていた。


「帰ったか、遅かったな。」


 草介は体を起こして胡座あぐらをかいた。

「土産はないのか。

 出掛ける時に、美味い寿司を持って帰ってやるから待っていろ、と云ったよな。」


「そんな事、云った覚えはないよ。」


 諭利は顔をしかめ、草介を睨んでから、邑重の方に向き直った。


「ごめんなさい。

 お気になさらず、さあ、どうぞお入りください。」


「いえ、今夜はここで失礼します。」


「野良犬」とは、この若い男のことなのだ、──邑重は、酷く動揺した。





  四、恋敵  ─ こいがたき ─



「せっかくおいでになったのだから、寄っていってください。

 先ほど話した焼酎を、今すぐお持ちいたします。

 それと、箸休めくらいのものは、すぐに用意できますから。」


「いえ、今日は帰ります。

 このあたりを訪れたことがなかったし、あなたがどんな場所にお住まいなのか知りかったのです。

 あなたが云った通り、静かな場所ですね。

 それに、──思った以上に、遠かった。」

 邑重は苦笑した。

「明日からまた磐居いわい島へ行くので、帰って休みたいと思います。」


「そうですか。……

 ここまで来て頂いて、何のお構いもせずに、ご免なさい。

 ぜひ、またお越しください。」


「今度は時間のあるときに参ります。

 刻限を気にせず、ゆっくりと語り合いましょう。」


 ではまた、と邑重は会釈した。


 邑重が垣根を出ると、草介は立ち上がるなりサッと縁側から下りて、諭利に近寄った。


「早く入れよ。」


 草介は云って、諭利の肩を抱き、さらうようにして家に上げた。


 その様子は、垣根越しの邑重の目に入っていた。

 草介は、邑重がこちらを見るだろうと算段し、芝居を打ったのだ。


 『のものだ。』


 ──あの若い男の目には、ハッキリと敵意の炎が見えた。

 野良犬が住み着いている、──諭利はあの男と暮らしている。

 二人の間には、あの男が執着する理由が確かにあるのだ。


 からかわれたのだろうか、──今頃、二人で焼酎を飲みながら、「あのマヌケ面を見たか」と私を嘲笑わらっているのだろうか。


 心が乱れた。

 息が苦しく、目が眩み、足元がおぼつかず、何処をどう帰ったか判らないほどに、邑重は動転した。


「──家に上げてどうする気だったんだ。」


「送ってくれたのに、そのまま帰すのは失礼だろ。」


「ハン、若い娘でもあるまいに。送って貰って嬉しいか。」


 ──あの男、今頃どんな顔をしているだろう。


 想う相手に、共に暮らす男がいると知ったのだ、心穏やかでないはず。


「あんたも酷なことをするよな。」


「何がだい。」


「あの男は、美味そうな肉の匂いに釣られ、こんな山奥まで付いて来たんだ。

 そりゃ、少しは味見をさせて貰えるモンだと思うだろうさ。

 ここへ至る道行きは、足取り軽く、浮かれ浮かれていただろうさ。

 ──ところがだ。

 家には男がいるわけさ。

 舞い上がっていた体は、奈落の底へと真っ逆さまだ。

 可哀想にな、……あの男の心中、察するぜ。」


「ひとが悪いのはお前だろ、何だか楽しそうだよ。」


「ああ、楽しいね。

 これでスッパリ諦めてくれたらイイんだがな。

 あんたも、その方がイイんだろ?

 これは貸しにしておいてやるぜ。」


「何が、『貸し』なんだい?」

「とぼけるのか。

 あんた、あの男があんたに惚れてるのを知らないワケじゃないだろ。

 あんたは俺を使って、あの男に線引きをしたんだ。

 俺はあんたに利用され、巧いことあの男を追っ払ってやったんだ。

 ──だから、『貸し』さ。」


 草介はニヤリとした。





  五、説教  ─ せっきょう ─



 愉快だ、恋敵を打ち倒してやった。

 草介が見た限り、諭利はあの男に恋情がない。

 もし、その気があれば、今ごろはどこぞの連れ込み宿で、適当に楽しんでいることだろう。

 邑重は、草介には分の悪い敵だ。

 邑重は、若衆好みの筋金入りの男色家だ。

 草介が知らない衆道の手管を、幾らも知っているはずなのだ。

 そんな技法モノをご披露された日には、あの感度の高い諭利の体が、きっと耐えられやしないだろう。


「あんたはあの男が苦手だよな。」


「お前は、ズケズケものを云うんだね。

 土足で人の内側に踏み込むと、嫌われるよ。」


「あんただから云えるのさ。

 俺は余所では大人しいんだ。」


 だから、草介は言いたいことを言える諭利の側を離れたくない。

 居心地の良いねぐらを追い出されたくはない。

 邑重は誰より遠ざけておく必要がある。


「あんたはつまらない説教をしたがらないから好きだ。

 つまらない奴が、偉そうに説教をしたがるのはウンザリだ。」


 特定の人物を思い浮かべ、草介は苦々しげに呟いた。


「ガキの頃、俺は体が弱かったから、学問所には行かず、講師を家に招いていた。

 豊国の都でも名の知れたお偉い先生に、礼を尽くし、是非に、と頼み込んで来て頂いていたのさ。

 そいつは、初対面から、『お前が桂家の嫡子だからと媚びたりしないぞ』という態度だった。

 シカツメらしいそいつのツラも、感情のない語り口調も、俺は嫌いだった。

 真面目に聴くふりをしながら、内心は『早く終われ』と念じていた。

 そうして、上手く凌いでいたつもりが、やっぱりガキなんで、つい欠伸あくびが出ちまった。

 そしたら、ジジイは自分の腿をパシンと叩き、『何の為の学問だ、誰の為に話をしていると思っているのだ』と怒りだした。

 どこぞの貧乏武士の倅が苦学をして大成しただとか、優秀だが学ぶ事を諦めざるをえない者が大勢いるだとか。

 揚げ句に、自分の身の上話までし始め、こうして学ぶことができる己の立場に感謝をしなくてはいけない、と説く。

 俺を戒心させる為というより、恵まれた環境にある俺を妬んで、当て擦りをしている風にしか聞こえなかった。


 全く、貴様は何様のつもりだ、タカが田舎の講師ぶぜいではないか。

 こんなクソ田舎で、お偉い先生と崇められて満足しているような小者だろう。

 田舎者は都の大学を出たと聞けば、そいつを神様みたいに崇めてくれる。

 だが、都じゃその程度の奴はゴロゴロいるさ。

 都で官職に就けないあぶれ者が、田舎でガキ相手に講師なんぞを始めたりするのさ。


 ジジイは高名な学者サマだからな、ガキのお守りなんぞできるかと、内心では思っていただろう。


『どんなに気に入らない相手でも、教えを乞う者は師を師として敬うべきなのです。

 人の上に立つ者は、常に自分が公人であるという意識をもたねばなりません。』


 ジジイは、そう、俺を諭した。」





  六、先従隗始  ─ まずかいよりはじめよ ─



「『身勝手な振る舞いは許されません。

 あなたには、人の数倍の忍耐が必要なのです。

 気に入らない者とも付き合わなくてはいけない、どんなに私が嫌いでも、礼節をもって対応してください。

 あなたが、私にどう接するかを周囲の者は見ているのです。

 あなたの素養を見て、評価を点けているのですよ。

 まず、身近な者の信用を得なくてはいけません。

 その者が、あなたが領主となられたとき、あなたの支えとなるのです。』


 欠伸が出るようなつまらない講義しかできんくせに、その上つまらない説教をする。

 要は、自分を敬えと云いたいのだ。


『今王誠欲致士 先従隗始 隗且見事 況賢於隗者乎』(戦国策)


 先ずかいり始めよ、──ということさ。

 俺にだって言い分があったさ。

 だが、ガキの俺は黙って聞いていた。

 我慢をしろと云ったが、俺はずっと我慢をしていた。

 自分の思い通りになることなんて、何一つ無い。

 病身に生まれついたせいで、色々なことに制限があった。

『桂家の嫡子がそんな脆弱でどうするか』と、父に云われ続けていた。


 ガキは何も考えていないと侮っていたのだろうか。

 裕福な家に生まれたガキは、悩みなどないと思ったのだろうか。

 俺のことなど知らないくせに、お前は『甘い』と決め付けて、偉そうな悟り顔で説教をしてくる、──そんな奴が、俺は大嫌いだった。

 人に物事を教える者は、謙虚さを持つべきではないのか。

 教師というやからは、教えている己がどれほど優れているかを人に知らしめたいだけの、つまらん連中なのだと俺は思った。

 ジジイが云うように、俺は恵まれた環境にある。

 だから、それを有効に使わない手はないと考えた。

 国の書庫に出入りし、貴重な文献を見ることをしたし、必要な書物を国外から取り寄せることもした。

 俺は、さほど苦労をせず、朱国の尊徳院に入ることができた。

 名門の貴族の子弟しか入学を許可されない最高学府だ。


 そして、朱国への留学を控えた前日、俺はジジイの家に出向いた。


『あの日、あなたが諭してくださったお蔭で、学問と真剣に向き合うことができました。』


 俺は殊勝な顔をし、頭を下げた。

 教え子が師を越える事こそ、師たる者の本願ではないか。

 貴族でないお前は、逆立ちしても入れない尊徳院だ。

 ジジイは表情を崩さず、『おめでとうございます。』と云い、『ですが、』と、言葉を足した。


『入ることが最終の目標ではないはずです。初心を忘れず、今後も精進なさいますよう。』


 精一杯の負け惜しみ、──俺が奴を嫌っているように、奴も俺を嫌っている。

 だが、教え子が尊徳院へ入ったとなれば、自らの名声も高まる。

 何ともし難いところだよな。」


「お前は嫌なヤツだね。」


 草介を見据え、諭利は静かに告げた。


「お前が本心から礼を述べているのではないと、その人も気づいていただろうね。……」


 必要以上に人に敵意を向けるのは、自らが深く傷ついているからなのだ。





  七、臍曲がり  ─ へそまがり ─


 お褒めの言葉、痛み入る、──とでも云いたげに、草介は皮肉な笑みを浮かべた。


 颯が、どれほどイヤな子供だったか、目に浮かぶ。

 質問をするにも入念に下調べをし、教師が曖昧な解答をしようものなら、あげつらってほくそ笑むような小憎らしいガキだったに違いない。

 そんなクソガキと根気強く向き合っていたその師は、やはり師としての確固たる信念を持ち、真剣に指導にあたっていたのではなかろうか。

 颯はただの子供ではない。

 豊国の、広大な領地の主となる者だ。

 師は、単に学問を授ければ良いというものではない。

 颯の言動には、領民の生活がかかってくる。煙たがられようと憎まれようと、領主としての心構えを教えねばならない。


「ソウ。……

 案外、その人は、お前のことを真剣に考えてくれていたのではないだろうか。」


 草介は眉をしかめた。

 颯は、師が正論を述べていると分かっていて、反発していた。

 このヘソ曲がりの性格からして、子供に媚びへつらう師であれば、見下して相手にもしなかったに違いない。

 今ここで、「お前は間違っている」と説教を始めたら、草介はヘソを曲げて口をつぐんでしまうだろう。

 ずは、草介に胸の内を語らせること。

 そこから、草介をたすける糸口が見つかるはずなのだ。


 草介には、身近に信用の置ける者がいなかった。

 頼れる者もいず、行く宛もなく、ふわふわと漂っていた。

 草介に必要なのは「居場所」だ。

 私が、草介が元の場所に戻るまでの、仮の「居場所」であれたら、と諭利は思う。


「ソウ、梅の焼酎を飲んでみようか?」


「いいねえ。」


 草介は、にんまりとした。

 爽やかな梅の香りが漂う。

 ぐい呑みの底に沈んでいる梅の実を、草介は指でつまみ上げ、「ガキの頃からの好物だ」と云って、美味そうにしゃぶっている。


 邑重に線引きをした、──という草介の意見は当たっている。

 邑重とは、一定の距離を保って付き合うべきだ。

 無口で気難しいと聞いていた邑重だが、会うと気さくな人柄だった。

 そして意外にも、諭利に対し、積極的な「好意」を示してきた。

 邑重の相手は享楽亭の給仕で、花の盛りの十六、七歳の少年たちだと聞いていた。

 三十路に近い年齢の者には、興味を持たないと諭利は思っていた。


 邑重から、「あなたとは、以前に会っているのです」と云われた。

 以前、──とは、国を出る前、十二年以上も昔のことで、諭利には邑重に繋がる記憶がない。

 訊ねても、「いずれ」と言葉を濁し、邑重は教えてくれない。こ

 ちらに気を揉ませるための戯言かもしれないが、妙に胸に引っ掛かるのだ。


「要らぬ情けをかけるなよ。」


 諭利の心を見透かしたように、草介は呟いた。

 ああ、そうだな、と諭利は胸の裡に呟いた。


 溺れる者を救うには、己も共に溺れる覚悟が要る。

 生半可な気持ちで、人に手を差しのべるべきではない、──これは、芙啓から学んだことだ。





  八、感情  ─ かんじょう ─



 数日して、貸していた本を承が返しに来た。

「ありがとうございます」と、承は云って口をつぐんだ。

 内容が内容なだけに、感想を言い辛いのだろう。

 いつもなら、ここの部分が面白いとか、疑問を感じたとか、具体的な話をするのだが、今回は単純に楽しめなかったようだ。


「あなたが何を感じたか、何となく分かります。

 私があなた位の年頃なら、きっと似たような感想を持ったでしょう。」


 諭利はこう前置きをし、続けた。


「この男は私と似ています。

 こういった『弱さ』が、私の中にもあるのです。

 そのことに気づき、認めるようになったのは最近のことです。


 年を重ね、私は『人』というものが段々と愛おしく思えてきたのです。

 若い頃には、人の嫌な所ばかりが目につき、少しのけがれも許容することができなかった。


 思えば、……私は酷く『人』を憎んでいました。

 他人を思いやる気持ちはなく、ただ自らを哀れみ、心を閉ざしていた。

 そして、他人を傷つけることに躊躇ちゅうちょはなかった。

 けれど、そんな私にも手を差しのべてくれる人がいた。

 払っても払っても、その手は目の前にあった。

 私は、人の温もりに触れた。

 狭い世界を抜け出し、多くの優しさに出会い、この世は捨てたものではないと思えた。


『老い』とは惨めだと、若い私は考えていたけど、今は老いていく自分を、興味深く感じているのです。」


「あなたのおっしゃりたいことは分ります。」


 承は顔を曇らせた。


「それでも、私は納得できません。

 この男が生き長らえて天寿を全うしてしまうのには、疑問を感じます。

 この男の『弱さ』のせいで、女たちは命を落とすのです。

 人の命を奪っておいて、己だけが救われ、赦されて幸せに生涯を閉じるのでは、女たちが浮かばれないではありませんか。」


「そうでしょうか。

 女たちはこの男をとても愛していたのです。

 それは母が子に抱くような愛情でした。

 母はどんな不肖の子であっても、その子の幸せを祈るのです。

 いえ、全ての母がそうだとはいいません。

 そうでない母がいることも、私は知っています。

 ですが、少なくともこの物語の女たちは無償の心で男を愛しているのです。

 決して男の没落を望んではいません。

 穏やかな生活のなかで、心安らかに一生を終えることを祈っていたと思います。」


「男は、それで幸せでしょう。女たちも、それで満足なのだとしましょう。

 ですが、周囲の者はどうでしょう、女の身内は、男の妻子は、──他人を巻き込み、傷つけ、自分たちだけ幸せならば満足だなどと、そんな身勝手を、愛というのでしょうか。」


 たかが物語、全て虚構なのだが、こうして承が真摯に捉えて意見を述べるのを、諭利は好ましく思う。


「恋愛は、身勝手なものですよ。

 私も人を愛した経験がありますが、知らずに人を傷つけ、結果として、私の幸せの陰で泣いている人があったとしても、身を引くことができなかったり。……

 己の感情も、ままならないものなのです。」





  九、くちづけ  ─ くちずけ ─



「誰からも、祝福される恋ができたら良いのですが。」


 そう呟き、寂しげに頬笑む諭利から、顔をそらし、承は云った。


「男は、本当に女たちを愛していたのでしょうか。

 愛という名を借り、単に体の欲を満たしたに過ぎないのではないでしょうか。

 この話の作者も、悪戯に読み手の欲を掻き立てているようにしか思えません。」


 ──私自身、肉欲を掻き立てられた者の一人なのだから。……


「あなたには、私が随分と子供に見えるでしょうね。

 私は、男女の情愛の深みを知りません。

 誰かに、強く惹かれたことも、愛を告白したこともありません。


 人を、愛してみたいという想いはあります。しかし、それは女の肌に触れてみたいという『慾』に繋がっているのです。」


 承は顔を赤らめ、視線を下げた。


「ご免なさい、承様。

 私の言い方があなたを困らせてしまったようですね。

 男が女の肌に触れてみたいと思うのはごく自然な感情です。

 ご自身を卑下なさらないで下さい。

 私にもそういう感情があります。

 わけもなく人肌恋しく、狂おしくなるときがあるのです。」


 諭利は何か思案するように間をおき、「肌を合わせ、伝わる想いもあるのですが、……」と呟き、承を見た。


「口づけを、してみますか?」


 承は、俯いたまま目を見開いた。


「肌に触れてみたいと思うように、口づけをしてみたいと思いませんか?

 私でよければ、お相手しますよ。」


 この人は何を云い出すのだろう、──あまりのことに、承は言葉が出ない。


「私の顔は忘れてください。

 好きな女人の顔を胸に浮かべてみて。

 想いを寄せる相手は、おありでしょう。」


 本当だろうか。

 この人のことだから、顔を寄せた瞬間に「嘘です」なんて、スッとかわすようなことをするのでは。


 唇に、触れてみたい、──という思いが、承のうちにはある。

 諭利に見つめられていると、鼓動が速くなり、感情がせめぎ合って、言葉がでない。


 承の心を読んだように、諭利は悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「では、そこにあがってみましょうか。

 あなたの目線が高くなるように。」


 促され、承は階段状になった飾り戸棚を上がった。

 そうすると、自分の目の位地に諭利の額があった。

 承は不安げに諭利を見下ろしていた。

 思いを寄せる相手の顔を、と云われても、特に浮かばない。


 ──諭利の唇に、触れたい。


 美しい歌声を奏でるあなたの唇に。

 私の心を強く動かしたのは、あなたの歌声だ。


 さあ、と諭利の目が促す。

 どうぞ、ご正味あれ、──諭利は顔を上向きに、少しだけ首を左に傾けた。

 承の目に合わせた視線は、承の唇に降りていく。

 ほとんど閉じかけた目蓋に、長い睫毛が際立っている。

 美しい、──能のように洗練された美しい形状。

 この人は、身の内に麗しい音楽を宿している。


 ゆっくりと顔が近づく、承の動きに合わせ、誘うように唇を心持ち薄く開く。

 諭利が傾けた方向と反対に、承は頭を傾けて目を閉じた。





  十、刃  ─ やいば ─



 唇が重なりかける。

 そして、触れた、と感じた瞬間には、承は顔を引いていた。

 片方の目を開いて、諭利は困ったような笑みを浮かべた。


 この少年の誠実さが、頬笑ましい。


「好きな相手を、と云ったのに、……」


 諭利の手がのびて承の頬に触れ、親指が唇に押し当てられた。


「この唇に、私はもう少しだけ触れていたかった、……」


 親指は下唇を捲って、湿り気を帯びた内側をなぞった。


「この柔らかさを、もう少しだけ味わいたい、と云ったらお嫌ですか?

 やはり私とでは、そんな気分になれませんか?」

 承の瞳が揺れた。

 わずかに、──見過ごしてしまうほど微かに、承は首を横に振っていた。


「では、もう一度。」


 教師が、正しい答えを導きださせるような口調だった。


 承は諭利の肩に手を置き、唇を重ねた。

 諭利の唇が押し返してきた。

 位置をずらし、下唇を柔らかくくわえられた。

 舌の先が、口の内側をそろりと舐め、肉の弾力を楽しむみたいに、唇をたゆたわせる。


 心地よい、──木漏れ日が唇の上に揺らめいている感覚。……


 そうして、いつまでも唇を離せずにいると、諭利が肩口をそっと押してきた。

 承はハッとして、顔を離した。

 しつこく口に吸い付いていた自分が恥ずかしくなり、顔がカッと熱くなった。


「もっと深いのをしてみませんか?」


 その言葉を理解しない内に、承は体を持ち上げられ、踏み台から下ろされた。

 諭利の顔が間近に下りて来て、承は戸惑った。

 両手で頭を抑えられ、無理やり唇を押し当てられた。

 舌が口をこじ開け、荒々しく内側を探る。

 呼吸も出来ず、つばきが口内に溢れ出す。

 諭利は舌を絡めて吸い上げた。

 ゴクリ、と唾液を嚥下した。


 味わいたい、と諭利は云った。

 自分はしょくされているのだと承は感じた。

 ザワリ、と股の内側が泡立った。

 血潮が一点に凝縮するのが分かり、承はうろたえた。

 諭利は太腿を承の股の間に押し込んで、体を密着させた。

 慌てて体を離そうとするが、腰は力強く引き寄せられている。


 ──どうしたらいいのだろう、そこが強く猛っていると、諭利に悟られてしまう。


「誰にも云いません。」


 諭利は耳元で囁いた。


「かわいいひと。

 私はあなたが愛おしい、──とても愛おしい。」


 吐息が掛かり、耳朶に唇の軟らかさが伝わってきた。


 『愛おしい。』


 なんて甘い響きだろうか、身体が蕩けてしまいそうだ。

 腿が痺れて、膝にも力が入らない。


 ──怖い。


 漠然とした、恐怖。

 自分の中の何処かの蓋が開いて、そこから恐ろしいものが流れ出てくるように感じられた。

 己が怖い、諭利が怖い、──そう、改めて諭利を「怖い」と認識した。


 この人は親切で優しいけれど、危険な部分がある。

 この麗しい姿の内には、鋭い刃が隠されている。

 そして、その青白い刃の閃光に、私は強く惹かれている。


 心臓がドクンと跳ねた。

 背を支えられ、寝かされた。

 諭利の手が襟をひらく。

 なす術もなく、きつく承は目を閉じた。





  十一、悪さ  ─ わるさ ─



 承の緊張が伝わる。

 手負いの小動物のように、承は息を殺している。

 獣が、血の匂いを嗅ぎ付けて近づかないようにと、固く目を閉じ、祈っている。


「目を開いて、私を見て。」


 諭利の手は、承の胸の上にある。

 承は恐る恐る目を開き、諭利を見た。


「伝わったでしょうか、私の想いは。」


 承はうなずいた。

 目には哀しみが満ちていた。

 諭利は承の頭に手を添えた。

 指先は頬を撫で下ろし、離れた。


「ごめんなさい。

 あなたが可愛くて、つい節度を越えてしまいました。

 こんなに怯えさせてしまって、心が痛みます。

 このようなことは、もう二度といたしません。

 ですから、……そんなに悲しげな顔をなさらないでください。」


 諭利は承の着物の前を整えて、上体を起こしてやった。

 再び、頬に触れようとのばした手を、諭利は引いた。


「もう、お帰りなさい。

 夜が更けてまいります。

 お一人で、帰れますね。

 家屋の明かりが点っているうちに、ともしびが道行きを示しているうちに、迷わず真っ直ぐお帰りなさい。


 そして、できればまた、ここへいらしてください。

 ここへ来るのがお嫌であれば、店の方へおいでください。

 あなた好みの茶を用意し、お待ちしております。」


 承は促され、表に出た。

 何処か、追い立てられるようにも感じた。

 諭利の顔を見れず、「さよなら」とも言えず、口を横にギュッと結んだまま、軽く会釈をした。


「お気をつけて。」


 諭利は、承の姿が見えなくなるまで表で立っていた。

 いつもなら、生真面目に振り返る承だが、今日はそれもなかった。


 承は、農道を歩きながら考えていた。

 日が暮れてしまったら、誰も通る者はない。蛙の鳴き声だけが、田園に響いている。


 ──酷い人だ。


 私の心を掻き乱しておいて、こんな風に放り出してしまうのだから。

 あなたが可愛くて、だなんて見え透いた言い訳をして、済まなそうに顔を曇らせて。……

 今頃は、私のことを嘲笑っているのではないですか?

 それとも、もうすっかり私のことなんて忘れてしまっているのでしょうか。


 ──酷い人だ、あなたは、……悪い男だ。


 承の行く手に人影が見えていた。

 人影は次第に大きくなり、承の前に六尺三寸の壁が立ちはだかった。


 草介は、承の表情を窺った。

 礼儀正しい少年は今日は黙ったままで、すれ違い様、少し頭を下げる仕草を見せた。

 何か軽口を叩いてやろうとしたが、云えるような雰囲気ではもなかった。


「──さっき、小僧と擦れ違ったぜ。

 いつもと違って無愛想で、どうもご立腹のようだったが、あんた、何か機嫌を損ねることでも云ったのか?

 いつもは仲良し小良しのくせになあ。


 そういや、あんたも妙な空気だな。」


 諭利は机に向かい、書き物をしながら、草介の言葉を黙って聞いている。


 草介は目を細め、顎の髭を触りながら諭利の動作を眺めた。

 走らせる筆先に、心の揺れが見えた。


「そうか、──小僧に悪さをしたんだな?

 そうでもなけりゃ、あんな風にはならないぜ。」





  十二、火傷  ─ やけど ─




 反論をしないところをみると、図星のようだ。

 友人でありたい、何があっても味方でいる、なんて云っておきながらこれか、と少々失望したが、諭利だって生身の男だ。

 抑えが効かなくなることだってあるだろう。

 だが、それはそれで好都合だ、と草介は思った。


「だから云っただろ。

 小僧は生身のあんたを受け入れられない。

 俺なら、いくらでも相手をしてやる。

 望む通りにしてやれるぜ。」


「ソウ、」と、諭利は背を向けたままで、草介に語りかけた。


「ここにわらべがいるとする。

 そしてその目の前に蝋燭があり、火が点っている。……」


 机上には、火を点した蝋燭がある。


「炎は、金魚の尾のようにユラユラとして、綺麗だよね。

 思わず手で触れたくなるだろう。

 手を近づけると仄かに温かさが伝わってくる。

 赤く、ユラユラと煌めくものを、童はその手で捕まえたい。

 そうして、眺めているうちに、手をのばし、触れてしまう。──」


 諭利は手を蝋燭の炎にそろりと近づけ、弾かれたように、手を引く。


「すると、思いもしない熱さに驚く。

 そして、後からくるチリチリとした痛みに、不用意に炎に触れようとしたことを後悔する。

 嫌でも、火は怖いものだと知るよね。


 事前に火が危険なものだと説明されていても、聞いただけでは本当の恐ろしさなんて分からない。

 だから、人の目がないところでならと悪戯をして、小火ぼやを出してしまうこともある。

 小火で済めばいいけれど、一度の不始末で大火事になってしまう事だってある。」


 諭利は、紙の一角に蝋燭の火を近づけた。

 炎が上がってきた。

 炎に舐められ、紙は捩れながらミシミシと小さな音を立てて熔けていく。

 諭利の瞳に、炎が艶かしく揺らめいている。


「大人は童が炎に手をふれる前に『危ない』と怒鳴ったり、手をピシリとやって火傷を防ぐけど、私は童が炎に手をかざすまで見ている。

 目の前でなら、素早く手当てができる。

 ごく小さな、痕に残らない程の傷で済ませられる。」


 縁側に歩いていき、紙を持つ手を上に振った。

 蝶のように炎は宙へ舞った。

 一瞬に光を放ち、瞬きの間に黒い煤となって潰え、音もなく落ちていった。


「火は恐ろしいものだと知ったなら、次からは扱い方に注意を払うようになる。」


 振り返り、諭利は草介を見た。


「小僧は、あんたに火傷を負わされたってことか?」


 諭利は背を向け、机の前に座り直して再び書き物を始めた。

 立ち入るな、──これ以上は語らないという姿勢だ。


 ──成程、手強い相手だ。


 草介は、改めて黒髪の麗人を見つめた。

 仕掛けをし、諭利は承が炎に手を触れるのを眺めていたのだ。

 触れるか触れないかは、当人の選択。

 しかし、逃れるのは困難だ。


 既に、承は諭利の手中にある。

 喜ばせるのも怒らせるのも、ちょっとしたさじ加減。

 心地よくねやいざなうことなど、造作もなかったろうに。


 諭利は、承に対して、ただ親切で優しい人であろうとは、考えていないようだ。







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