【参】 問答



  一  問答  ─ もんどう ─

  二  勘定  ─ かんじょう ─

  三  尊祖  ─ そんそ ─

  四  黄表紙  ─ きびょうし ─

  五  恋情  ─ れんじょう ─

  六  転嫁  ─ てんか ─

  七  算盤  ─ そろばん ─

  八  手習い  ─ てならい ─

  九  他生之縁  ─ たしょうのえん ─

  十  手助け  ─ てだすけ ─

  十一 女人堂  ─ にょにんどう ─

  十二 小鈴  ─ こすず ─




  一、問答  ─ もんどう ─



 大きな野良犬が縁側に身を横たえ、主人のような顔をしてくつろいでいる。

 野良犬は、足のすねをもう片方の足の爪先で掻きながら、黄表紙を読み耽っていた。

 耳に小指を差し入れ、引っ掛かったモノを、目前に持ってきて息を強く吹きかけ、飛ばす。


 犬の目に、縁側の板の溝から行列を成す、蟻の群れが映った。

 行列の先の、蜻蛉トンボの死骸にたかって、巣に持ち帰ろうと奮闘していた。

 命尽きて数日経ち、カラカラに干からびた死骸を、無数の蟻が背に担いで運んでいた。


 犬は息を溜め、床板 近くに顔を寄せて見定める。

 唇をすぼめ、息を強くながく吐きした。

 下からすくい上げるような横風を受け、死骸も蟻も諸共に、縁側を転がり落ちていった。

 あとには、目的を失った蟻たちが、周辺をあたふたと歩き回っていた。


 犬は冷めた表情で、再び本を読みはじめた。

 欠伸をひとつして、視線をあげた。

 庭を見渡し、垣根の後ろで突っ立っている少年と目が合った。


 何か言わなければ、としょうが声を発しかけたところ、確かに視線が合ったはずなのに、男は再び本に目を落とし、承を無視をした。

 男から、声をかけてくる気配はない。

 承はあきらめて声をかけることにした。


「すみません。」


 本をずらして半分だけ顔をみせると、男は、承に不敵な笑みを返した。


「ここは、諭利さんのお宅ですよね。」


「そうだ。」


「諭利さんは、ご在宅でしょうか。」


「ああ、いるが、──何の用だ?

 用件を云わなきゃ通さねえ。

 俺は番犬さ、ヘタなことをかすと噛みつくぜ。」


 体を寛げたまま、男は丈夫そうな白い歯を剥いて見せた。


「お借りしていた本を、返しにきたのです。」


「そうか。

 では、俺がそいつを預かろう。

 渡しておいてやる。」


 体を起こして胡座あぐらをかき、ほら、寄越しな、という風に、承に片手を向けてきた。

 承は怪しむような顔つきで、渡そうとしない。


「主人に、会いたいのか?」


 草介は皮肉げに笑った。

 行儀良く、利発そうな小僧、──少年を一瞥し、どこかの貴族の子弟だと見当をつけた。


「ここの主人は、頭の悪い男が嫌いだそうだ。

 ちょいとおまえさんを試してみよう。

 俺の問答に答えられたら、奥から主人を呼んで来てやる。」


 さて、──この男の問答に付き合う必要があるだろうか、とは思ったものの、取りあえず、承は相手をした。


 一つ目、二つ目、と承は律儀に答えた。

 そして、男は三つ目の問いを投げた。


「腹を空かせた二人の兄弟がおり、かした芋が一つある。

 どちらにも不満がでないように、芋を分ける方法を述べよ。」


 この問いの模範回答を、承は知っていた。

 似た話を、兄のかいから聞いていたのだ。

 承は兄から教わったとおりを答えたあとで、「ですが、」と、自身の考えを述べた。


「私が兄なら、弟に芋を譲ります。

 そして弟なら、譲られたその芋を二つに割り、大きい方を兄に渡します。

 人には情があり、配分のことのみに固執したりしないものです。

 兄弟であれば尚更なおさら、互いを思い合うものではないでしょうか。」





  二、勘定  ─ かんじょう ─



「そうだな、人には感情がある。」


 男はしたり顔で言った。


「世の中には、いがみ合い、殺し合いをする兄弟もいる。

 そんな奴らは、どんな方法であろうと必ず不満をもつ。

 たとえはかりで均等にしたところで、そっちのほうが美味そうだとか、こっちは皮が厚くて食う部分が少ないだとか、難癖をつけ、自分の取り分を増やそうとするのさ。」


 そこへ、「承様、」と声がかかった。


「この男と、口を利いてはいけません。」


 諭利は承に近づき、芝居がかった様子で声をひそめた。


「悪いやまいが移ってしまいます。

 これが、とても厄介な病なのでございます。」


「そうだ。

 俺の病をいやせるのは、この世にひとりなのさ。」


 草介は、諭利の前掛まえかけの紐を弛く握って、唇をつけた。

 諭利が、素早く紐の根を引いたので、手のうちからスルリと布が逃げた。


「お昼にうどんを作っていたところです。

 食べてゆかれませんか?」


「いいのですか?」


「どうぞ、なかへお入りください。

 ごめんなさい、気づかずに。

 奥へ、声をかけてくださればよかったのです。

 あの男のことなど、相手になさらずともよいのです。」


 諭利は、冷めた目で草介をチラリと見、承の背に手を添えてうちへ入れた。


 ──それにしても、


 腹が減った、と草介は考えた。

 諭利と承が奥へ行ってから、だいぶ経つのに呼ばれもしない。

 れて様子を見にいくと、ふたりは美味そうにうどんを啜っていた。


 昨日のざるうどんは、今日はに変わっていた。

 草介も作るのを手伝った。


「良い手つきだ、なかなかサマになってるよ」などと、諭利におだてられ、せっせとうどん玉をこねたのだ。


「俺の分はないのか?」


「食べるのかい?

 鍋に残っているから、自分でよそいなよ。」


 つっけんどんに諭利は応じた。

 草介はフテた様子で土間へ降りた。

 菜箸で器によそおうとすると、うどんを掬い損ねて飛沫が顔にかかり、無性に苛立った。


 草介はうどんを持って、食卓に割り込んだ。


「体が温まりますね。

 コシが強いのもよいですが、うどんに汁が染みて、くたりと軟らかくなった感じも、私は好きなんですよね。」


 湯気のむこうで、承は赤い顔をほころばせている。

 鼻のあたりに、汗の玉が浮いていた。

 承の器が空になりかけたので、すかさず「お代わりをしますか」と諭利が訊ねた。


「では、いただきます。」


 諭利は愉しげに、小僧の世話を焼いている。

 ずいぶんと対応に差があるのだな、と、草介は大層面白くない。


 しばし、無言で麺を啜る音が響いた。

 汁も残さず、器が空になった。

 ここで一服、と思っていた頃合いに、諭利はお茶を運んできた。


「貸していただいた本、興味深く読ませて貰いました。

 豊国の将の中では『橙亨とう きょう』が有名ですが、『桂弦けい げん』という人物も、なかなかの名将であったのですね。」


 桂家の事を調べていて、本屋で桂弦の伝記を見つけた。

 店に置き、空いた時間に読んでいると、承に貸してほしいと頼まれた。


「では、承様。

 桂弦が、『赤兜山の戦い』で陣を敷いた場所をご存知ですか?」


 会話に、草介が口を挟んできた。





  三、尊祖  ─ そんそ ─



「赤兜山の北側、中腹付近です。」


 読んだばかりの話なので、承はよどみなく答えた。


「そこで曾国の軍に対峙したのです。

 二方からの挟み討ちに合いながらも、桂弦は知略を巡らせ、自軍の三倍の敵を見事に撃破してみせたのです。」


 逃げると見せかけ、桂弦は騎馬で敵を巧みに誘導し、大軍を袋小路に押し込めたところで、一気に矢を射かけた。

「赤兜山の戦い」は、桂弦の名と桂家の騎馬隊の勇姿を一躍 世に知らしめた戦いだった。


「赤兜山の中腹ではありません。

 山を下った川岸なのです。」


 草介は、意味あり気な笑みを浮かべ、云った。


「じつは、敗色の深まった戦場から、桂弦は真っ先に逃げようとしていたのです。

 昨夜のうちに退却の手筈を整え、夜明けと共に発つつもりでいたのです。


 ですが、そのとき急な腹痛におそわれました。

 痛みは徐々にきつくなり、どうにも我慢がきかなくなり、草むらで用を足していたところ、逃げ遅れてしまったのです。


 野ざらしの尻の後方より、太鼓の音が響き渡り、山を駆け上がる兵士の雄叫びが、怒濤のように押し寄せる、──桂弦軍の動きを察知した敵が、先手を打って攻めて来たのです。

 桂弦は慌て、長袴を引きあげました。

 その後も、腹痛は続き、桂弦は下痢便を垂れ流しながら戦ったのです。

 まさに、孤軍糞(奮)闘でございます。


 桂弦は日々、日記を付けていたのですが、戦地へ赴く前日の記述を見ると、

『胃が痛み、眠れない。

 これが悪い夢であればと願わずにいられない。』

 と書かれているのです。


 桂弦は、身の丈六尺三寸の偉丈夫で、文武に優れ、温厚で思慮深い人物と伝わっています。

 しかしその実像は、小心の上がり性で、己ではなにも決断することのできない、なさけない男なのです。


 桂家の領地は隣国と地続きに接しているため、常時軍備を整え、武芸を奨励しています。

 桂弦は、常に、どうすれば戦いを回避できるかに、細心を払っていました。

 桂弦の在任中、目立ったいくさといえるのは『赤兜山の戦い』くらいです。


 この一度の戦いで、九死に一生を得た桂弦は、後世に名将として伝わっています。

 この臆病な男が名君として生き、名を残せたのは、優秀な家臣団と賢い妻の支えがあったからなのです。

 後の子孫は故人の面体を保つため、人物像を書き換えたようです。

 百年もすれば人は死ぬ。

 二百年も前の人物を詳細に記憶している者はおらず、人物を伝えるものといえば、口伝か書物です。

 これは、伝える者の意思でいくらでも書き換えが可能です。」


 この男の話は真実なのでしょうか、──と問いかけるように、承は諭利を見ている。


「ソウは、朱国の尊徳院(大学)を出ているのです。

 貴重な書物に触れる機会は多かったでしょう。」


 承は草介を見た。


「朱国の尊徳院といえば、名門中の名門ではないですか!

 ソウさんは、どちらの貴門のご出身でしょうか?」


 草介は、人目に賢しげに映る自身の学歴を明かされたのが気に食わないふうだ。

 諭利を一睨ひとにらみしてから、承に応えた。


「嘘ですよ。

 この人は、こうして俺をからかうんです。

 尊徳院だなんて、とんでもない。」





  四、黄表紙  ─ きびょうし ─



 俺は地侍の小倅です、と草介は嘲笑わらった。


「俺は、豊国の北部の生まれで、大学受験のために上京し、都の塾に通っていたんです。

 塾には国中から色んな奴が集まっていて、桂弦の話は、そこにいた誰だったかの受け売りです。


 高い授業料を払い、結果、俺は大学に入れませんでした。

 格好悪くて故郷に帰れず、珠国まで逃げて来た、なさけない男。

 それで尊徳院だとか、こんなイヤみを言われるんです。」


 尊徳院、と聞いた途端、こちらを見る承の眼差しが変わった。

 憧れにも似た閃きが浮かび、草介は嫌気が差した。


「承様、この家にはこういった書物も置いてあるのですよ。

 借りて帰られたらいかがですか?」


 今し方まで、己が読みふけっていた黄表紙を承に向け、草介は言った。

 少年は、見た目にもウブそうなので、よくこういったからかわれ方をする。

 理由は不明だが、承は、草介の言動に悪意のようなものを感じていた。


 気分を害している承を、草介はおもしろそうに眺めている。

 険悪になりかけているふたりの間に、おもむろに諭利の手がのび、冊子をヒョイと取りあげた。


「この本は、帰郷して間もなくのころ、店を出す目的で街の佇まいを見て歩いている途中に、ふと立ち寄った本屋で見つけたものなのです。」


 諭利はパラパラと本をめくった。


「この本の挿し絵は、遊吉が二十代なかばに描いたものです。

 ねえ、この絵を見てください。」


 本を広げて正面を承の方へ差し向け、諭利は言った。


「美しいでしょう。

 私はこの絵に一目惚れし、その日、別の物を買う目的で所持していた金を、つい遣ってしまいました。

 二十年以上もまえに刷られた本なのですが、とても鮮やかな色合いです。

 おもわず、手に触れたくなるような色香が漂っている。

 女の柔肌のうちの 、熱い血潮の流れまで、ありありと浮かんで来るようです。

 そう、お感じになりませんか?」


「はあ、……」


 紅を付けた小指を唇に当て、鏡を覗き込む若い女の姿がえがかれている。

 あたりは夕闇が迫り、細い指先の紅は、ちいさなほむらのように見えた。


 承が、遊吉の絵を見るのは二度目だ。

 一度は芙啓の書斎で偶然に目にした、十代なかばに描いたという直筆の絵だった。

 遊吉の絵には、まるで生きているような肉感がある。

 雪洞ぼんぼりのように、皮膚を透して温かな生命の息遣いが感じられ、女の眼差しには、胸を妖しく騒がせる色香が漂っていた。


「話の内容ですが、表題通りの心中ものです。

 あるおたなの若旦那が、遊女と恋に落ちるのです。

 この男には妻がおりました。

 男が遊女にうつつを抜かしていたそのおりに、妻は身重の体でありました。

 そして、仮初めの恋は、子が産まれたのちにも続いていくのです。

 根が真面目なだけに、男は一筋に遊女をおもい、妻とはいっそう縁遠くなるのです。


 しかし、浮き世を離れた二人の恋も、陰りがみえてまいります。

 遊女の方に身請け話が持ちあがり、それはトントン拍子に、決まってゆくのでございます。」





  五、恋情  ─ れんじょう ─



 女には義理があり、身請けを断ることができません。

 男は常々、遊女に入れ揚げて家業をおろそかにしていることを、父親にとがめられていました。

 ならばこれを良い機会として、商いに身を入れ、女房ともやり直そう、──男は、女と別れる決心をいたしました。


 けれど、女が他人のものとなるのを考えると、どうにも胸がモヤモヤとし、四六時中そのことばかりを考えてしまいます。

 通いは絶つ、そう固く心を決めたはずだけど、最後に「一目だけ」と会いに行き、二度三度と逢瀬を重ねてしまうのです。


 ふたたび想いを確かめ合うと、二人の気持ちはいよいよ切なく極まって、身も心もあざなった縄のように離れ難くなってしまうのです。

 二度目の別れは、身を割かれるほどに辛いことでした。


 ある夜、男は意を決します。

 店の金を持ち出し、女と手に手を取って逃げました。

 木枯らしの吹く街道を、二人はひたすらに走ってゆきます。

 しかし、都を出る橋の半ばで、女の足はとまります。

 勢いで飛び出してしまったが、この人の良いだけの男と、世間に隠れて生きていくのは、とても難しいことであると思いなおすのです。

 女は、家にもどるようにと男を諭します。


『お前さまには妻子があり、安寧な暮らしがある。

 私と添うて、いらぬ苦労を背負い込むことはない。』


 男が、それでおまえは良いのかと問うと、女は黙って、消え入りそうな笑みを浮かべています。

 その表情が、すべてを物語っておりました。


『お前を失って、どうして安寧な暮らしができようか、私ひとり、幸せになど生きれはしない。』


 二人は橋の下で互いの体を探り合います。

 これが今生で最期の契りだと思うと、いつまでも放れ難いのです。

 けれど区切りを付け、女は男の着物を整えて、髪を櫛で梳いてやります。

 男も、女の髪に櫛を入れながら、若々しい髪の美しさに涙を流します。

 ふたりは、互いの体を腰紐で結わえ、石を抱いて川の深みに身を投じました。

 秋の夜、流水は、身を切るような冷たさでございました。


 その後、男は目を覚まします。

 見渡せば、そこは見慣れた自室の景色でした。

 男は、ひとり生き残った事を知るのです。

 そして何度か女のあとを追おうとするのですが、独りでは死ねません。

 死んだ女の面影を心に浮かべては、毎日めそめそ泣いているのです。

 親類縁者は呆れ果て、妻は、とおの昔に愛想を尽かしております。

 妻が男と別れないのは、単に幼い我が子のため、息子が身代を継ぐことだけを、頼みに生きているのです。


 以後、男は『死』にとりつかれ、出逢う女たちと心中を繰り返します。

 ですが、その度に、男はひとり生き残ってしまうのです。


 ──と、まあ、これが物語のあらすじです。

 この情けない男と出逢う女が皆、気立てが良く情け深い女ばかりなんです。

 そこが『物語』であるのですが、単調になりがちな話を巧みに色付けしているのは、作者の力量です。

 このロクデナシの男も、読んでいるうちに不思議と愛しく思えてくるのです。

 私自身、この男の弱さに共感する部分もあります。


 よろしかったら、お読みになってみてください。」





  六、転嫁  ─ てんか ─



「どうぞ」と、諭利は承に本を薦めて微笑んだ。

「では、お借りします」

 承は躊躇いがちに、本を受け取って傍らに置いた。

「子供には、ちょいと刺激が強いかもな」

 草介が、聞こえよがしに云った。

「この男の云うことは、お気になさらずに。こいつときたら、『入水じゅすいした女の遺体がこんなに綺麗なワケがない』なんて云いだして、頼みもしないのに軀の腐敗いたみ具合を説明し始めるんです。情緒の欠片カケラもありゃしない。美しい恋物語が台無しです」

「ハン、心中者の死体なんて、どれも醜悪だ。身勝手なバカな奴らが、一時の気の迷いで心中なんぞをヤりやがる。醜い姿を人目に晒し、後の始末も人任せ ──それが、美しい恋物語とやらの結末だ。昨今、心中ものが流行っているが、お涙ちょうだいの恋物語に触発され、安易に心中を考える奴らが増えている ──バカな話さ」

「確かに、」と、諭利は云った。「お前の書く物語は夢がないね。身も蓋も無いような陰惨な話で、読み終えると何とも言えない後味の悪さが残るよ」

「ソウさんは、物書きをなさっているのですか」

「名ばかりですよ」承の問いに答え、諭利は皮肉な視線を草介に注ぐ。「見かけ倒しの木偶の棒で、小賢しく頭を働かせる他に、出来ることがないのです。この男は宿無しで、女の家を転々としていたのですがね、風邪をひいたら流行り病と疑われ、家を追い出されて私を頼って来たのです。可哀想だと置いてやったら、人の情を逆手に取って、平然と居座っているのです。どちらが家主だか判りません」

「あんたには感謝をしている。俺は毎晩、あんたの寝顔に手を合わせている、俺の菩薩サマだ」

「縁起でもない。感謝は要らないから早く出て行っておくれ。毎日、縁側で寝そべって、仕事を探す様子もないのだから」

「毎日、ではないさ。仕事だって探してる ──そうだ、どうせなら、あんたの店で雇ってくれよ」

「嫌だよ。同じ雇うなら、もっと愛嬌のある可愛いにするよ」

「何だか楽しそうですね」

 遠慮無い、ふたりの遣り取りを見て承が云う。

「楽しそう ……ですか」と、眉根を寄せ、諭利が呟く。

「俺は楽しいねえ。口ではなんと云っても、ここの主人は優しい。気が利く上に、飯は美味いし、床上手だ。女だったら嫁にするね」

「私はご免だ。目に見えるよ、十年後、お前が相も変わらず縁側そこでダラッと転がっている姿がね」

「では、俺が何処かの貴族だったら、どうだ」

なおのこと。大切に育てられたお坊ちゃんは、打たれ弱くていけない。『貴族だから安泰』だなんて、そんなおめでたい頭では、お前の代で名家もお終いだ」

「だ、そうです ──承様」

 草介は受けた言葉を、ポイッと承に投げた。承は目を丸くした。





  七、算盤  ─ そろばん ─



 ハチハチと小気味のよい音が響いていた。

 正座をした諭利が、帳簿を見ながら算盤を弾いているのだ。

 風呂からあがったら「碁でも打とう」と誘うつもりでいたのに、諭利は仕事をやっていた。


 草介は近づいて、諭利の背に寄り添った。

 肩に顎を乗せ、脇から前に右手をのばして、算盤を弾く諭利の指先に己の指を添える。


「左の端を、押さえていろよ。」


 草介の左手は、諭利の襟元に忍ぶ。

 右手で玉を弾きながら、左手で諭利の乳の先をもてあそぶ。

 カチカチと、諭利の倍の速さで玉を弾く、──手慣れたものだ。


「俺はが得意なのさ。

 蔦ノ屋で、時どき帳簿を付けてやっている。

 俺がこれをすべて片付けてやるから、空いた時間で相手をしろよ。

 ちょっとでいいから、な?」


「意味がわからないよ。

 おまえと夫婦めおとのように暮らす気はないと、伝えたはずだよ。」


「そうは言っても、口と体は裏腹だ。

 俺にはちゃんとわかっているんだ。

 ここをさ、こんな風に、──」


 言いながら、草介は諭利のえりを引きさげて、首の根をきつく吸い、両腕でがっちり押さえてから、肩口に歯を立てた。


「あんたは腕の付け根のここが感じるんだ。

 ここンとこに歯を食い込ませると、内股に痺れが走るだろ。

 あんたの震えは、俺の体にもピリピリ伝わった。

 それに、どちらかといえば右側のほうが感じるんだ。

 だから、あんとき左ばかりを攻めたのさ。

 あんたがジレて合図を送っていたのを知っていたよ。

 だからイケズをした。

 俺を覚えさせるために、散々焦らしてやったのさ。

 忘れてないよな、この体は覚えているはずだ。

 あの夜のあんたは、スゲェ可愛いかったぜ。……」


 肩を揺すって抵抗する諭利を、草介は腕で固めて逃がさなかった。


「あんなにひどい乱れ方をして、……可哀相に。

 飢えていたんだろ? 今だって、飢えているんだろ?

 決まった相手がいないのはわかっている。

 俺だってそうさ、日照り続きだ。

 だったら一緒に雨を降らせて、しっぽり濡れるとしようぜ。」


 諭利の右手を取って後ろに回し、己の一物イチモツに触れさせた。


の名を呼んで、『ほしい』とお願いしな。

 教えてやっただろ、あんなに切なげに、呼んでくれたじゃないか。……」


 手をずらし、諭利は草介の太腿をグッと掴んだ。

 イテッ、と草介は声をあげた。


「あの小僧は、こんなことしてくれやしないぜ。」


「そんなこと、望んでやしないよ。

 私は、あの方とで繋がりたいんだ。」


 諭利は、胸の上に右手を置いて頬笑んだ。

 草介は嘲るように云った。


「ハッ、お友だちごっこか。」


 手にした湯呑みの水色に視線を落とし、自嘲する少年の横顔を、草介は思い返していた。軟弱なお坊ちゃん 、──承は、草介が諭利から引き出した言葉に、己を重ねていた。


 諭利は、片眉をあげて草介を一瞥したあと、穏やかに「ねえ承様、」と話しかけた。


「私に、読み書きを教えていただけませんか?」





  八、手習い  ─ てならい ─



 草介はいぶかしげに諭利を見た。

 読み書きなど、諭利は当たり前にやっていることだ。


「私は、異国での暮らしが長く、この国の言葉について実はあやふやな部分が多いのです。

 店を持ったことで、帳簿を付けたり、日誌をかいたり、取引先とのやり取りなどで、文字を書く機会が増え、そのことに思い至りました。

 読む方は、文脈でそれなりに読めてしまうけれど、いざ文章にするとなると、言葉の使用法を知っていなくては、読む相手に正しく伝わらないでしょ。


 ちか頃、商店街の集まりがあったのですが、老舗の旦那衆と会話をすると、皆さん博識でいらして、忙しいなかでもよく勉強なさっているのがうかがえるのです。

 都で長く商売をやっていくうえでは、やはりある程度の学識は必要であると再認識いたしました。


 承様の、学業の妨げにならない程度で結構です。

 私の頼みを訊いてはいただけませんか?」


「そんなモン、俺が教えてやるよ。」


 たまらずに草介が口を挟んだ。

 だが、諭利はなにも聞こえていないといった様子で、承の返答を待っていた。


 承は、草介を気遣い、遠慮がちに返答した。


「いいですよ。

 私でお役に立てることでしたら、幾らでもお手伝いします。

 以前、私が使っていた教本が蔵の中にしまってあると思うので、適当なものを探してみましょう。

 今度、お持ちしますよ。」


「よろしくお願いしますね。」


 嬉しそうに、諭利は小僧に頬笑みかけていた。


「──読み書きくらい、俺が教えてやると云ったのに、無視しやがって。

 そうして小僧を繋ぎ留めておきたいだけだろ。

 そんなに、あの小僧が可愛いか?」


「可愛いねえ。

 承様は、この国に帰って来た私を一番最初に見つけてくれたんだ。

『あなたが帰って来たことが嬉しい、あなたに出逢えたことが嬉しい』と云ってくれたんだよ。」


「それはあんたの上面うわつらしか見ていないからだろ。

 あんただって、小僧の前では二、三割増しにイイ格好をしているはずさ。

 どうだよ、まえに、市蔵に話せと俺に啖呵たんかを切ってみせたことを、小僧に話されるのは嫌だろ?」


 諭利は、無言で草介を見ている。


「言わないさ。

 あんなガキには、教えてやらねぇよ。」


「──ソウ、」と、諭利は静かに切り出した。


「上辺をつくろって、なにが悪いんだい。

 腹のなかをすべてブちまけて、『これが俺だ、俺を丸ごと受け容れろ』というのは、相手にも迷惑な話じゃないのかい?

 そんなのは、身勝手な子供のすることだ。


『友達ごっこ』と云ったね。

 友人なら腹のうちをすべて話せるし、受け容れられるはず、上辺を繕って付き合うのは真の友ではない、──と云いたいのだろ。

 たしかに、私はおまえとの事情なかを承様に知られたくない。

 あの方には、受け容れ難い話だ。

 だが、それで縁を切られたとしても致し方ないことであるし、そのことで、あの方が責められるいわれはない。


 若いうちは、許容できないことがたくさんあるよ。」





  九、他生之縁  ─ たしょうのえん ─



 あの少年は私に対し、一種 麗しい幻想を懐いている、──と、諭利は考える。

 もし、私と草介の関わりを知れば、これまでの良好な関係は一瞬にして崩れ去るだろう。

 ここで、いたずらに承の心を乱したくはない。

 交友は始まったばかり、承との絆は、今はまだ そよ風にも揺らぐような脆い絆なのだ。


「ソウ、私は、あの方が貴族だから仲良くしているのではないよ。」


「ああ、そうだな。

 ただの貴族じゃない、あの小僧は櫻家の三男だ。」


 諭利の瞳が、なぜ、と問うのを見て、草介はしたり顔で答えた。


「筆入れの『紋』さ。

 桜に双竜、──あれは櫻家の家紋だろ。

 俺だって、『南竜公』(櫻周おう しゅうの異名)の子息の名ぐらい知っているさ。

 お目にかかるのは初めてだがな。」


おう」という姓の家は、珠国に一家しか存在しない。


 現在、「櫻」を名乗っているのは櫻周とその三人の子息、ほかは朱国に居住している弟の櫻敬おう けいのみ、おのずと人物は特定される。


 諭利は承を紹介する気がまったくないので、草介は、諭利が大切にしている少年を観察していたのだ。

 はじめ、草介は庭に突っ立っている承を見て、およそ十二、三と見当を付けた。

 小僧が抱えていた本のなかに、異国の哲学書が混ざってるのを見つけ、ちょっとした悪戯心から問答を仕掛けたのだ。

 櫻家の三男は、たしか十七歳。

 修英院(大学)に在学中だと聞いている。

 承が櫻家の者であることより、草介が驚いたのはその年齢だった。


「おまえになにかを期待して、私がおまえを家に入れてやったと思うのかい?」


 私は打算で人を選り分けているだろうかと、諭利は草介に問うている。

 わかっている。

 病を負い、助けを求めて来た者を放っておけないというのは、人の情というもの。

 決して見返りを求めての行為ではない。


 じつのところ、草介はタダ飯喰らいの厄介者だ。

 草介からは、なんら得る物がない。

 帰郷の叶わないこの状況にあっては、血統云々の能書きなど、なんの役にも立たないのだ。


 ──俺が、桂家の当主であることを明かしていれば、病の俺を看病をしてくれた女が、一人くらいはいただろうか?


 いや、女を責めることはできない。

 そうした女を選んで付き合っていたのは己だ。

 金に余裕があり、男好きで後腐れなさそうな女を選び、利用した。

 自業自得、だ。


 草介は、無言で諭利を見つめていた。


「なあ、ソウ。

 こうしておまえを住まわせているのは、おまえに『縁』というものを感じたからだ。

 最初に、声をかけたのは私。

 世の中には星の数ほどの人間がいる。

 されど、生涯に出会う者というのはごくわずかだ。


 私たちはふたたび出会った。

 あの夜、二度と会わないと約束して別れたけれど、おまえは私を捜し、会いに来た。

 袖触り合うも、──ということわざがある。

 おまえに関わったのも『縁』、なにか意味があってのことだと、私は考えているよ。」





  十、手助け  ─ てだすけ ─



「赤い糸、──だな。」


 草介は、小指を立てて口の端を上げた。


「この指の糸の先は、あんたの指の根に結ばれているのさ。」


 諭利は苦笑し、草介を眺めていた。


 ──ソウは、決して現状に満足はしていない。

 この国に来てからずっと、悩み、迷っている。

 これは私の勝手な想いだが、ソウが本来歩むべき道に戻れるように手助けをしたいと考えている。


「ソウ、承様はね、とても良い資質をお持ちなのだけど、自信が持てず、必要以上に自分を小さく見ているところがある。

 側にいて、あなたは大丈夫だと勇気づけてやる者が、一人いるだけでも違うと思うのだよ。」


「あんたは、あの小僧を一人前の男にしてやろうと、考えているのか?」


「少しだけ、手伝いのようなことができたらと思っているよ。

 自分のことを慈しみ見守っていてくれる者がいる、──そう知るだけで、自分は必要な人間だと思えるし、誇らしく胸を張って生きてゆける。

 私は、どんな時にもあの方の味方でいるつもりだよ。」


「それはそれは。

 ご親切なことでございますね。」


 草介は、面白くなさそうに呟く。


「お前だって、そうだろ?

 幼い頃、病弱だったお前の側に居てくれた侍女、その人はお前の支えになっていたんじゃないのかい。」


 承に向けられた、愛おしげな諭利の眼差しを見ると、腹立たしい気持ちになった。

 草介はただ、諭利の気が誰かに向くのが嫌なのだ。


「あんたの商売は、儲けがあるのか?」


 草介は問いに答えず、話を逸らしてきた。

 侍女の話を持ち出されるのは、苦手であるらしい。


「俺には、あんたが道楽で商売をしているようにしかみえない。

 着ているもの、身につけているもの、一見地味に見えていい値のする代物だよな。

 稼業と別の、金の出所があるのだろ?

 あんたは邑重に船の依頼をした、依頼主は清張という男だ。

 その清張の所で、あんたは働いていたそうだな。

 あんたは清張の囲われ者なのか?

 責めているんじゃない、あんたのことが知りたいのさ。

 俺はガキじゃない、あんたを受け入れられる。」


「色々と、助言をしてくれているのは事実だけど、金銭を援助してもらっているのではないよ。」


「実はね、」と、諭利は内緒話をするように声をひそめた。


「亡くなった私の母は、朱国の皇室に反物を納める、老舗の呉服問屋の娘だったんだ。

 祖父は亡くなって、今は伯父が店を継いでいるけれど、今も祖母は健在で、孫の私を気にかけてくれている。

 必要ないと断るのに、不自由をさせまいと折々に金を送ってくれるのだよ。

 だから、私は道楽とは決して考えていないけど、つい気楽な気分で商売をしてしまっているのだろうね。」


 そう語ったと云った後、諭利は間を置いて、「なんてね、」と呟いた。


「信じたかい?」


 諭利の悪戯っぽい表情に、草介は、はぐらかされたのだと知った。


「ソウ、これを片付けたら、ちょっとだけ相手をするから、邪魔はしないでくれるかい?」


 どうせ「碁の相手を」なんてオチだろうが、草介は大人しく待つことにした。





  十一、女人堂  ─ にょにんどう ─



 早朝。

 諭利はいつも通りに蓮沼神社へ行き、桶に湧水を汲んでもどったところだ。

 家の前の坂を登りきると、唐突に少女の悲鳴があがった。


 ──小鈴だ。


 諭利は急ぎ、庭に走り込んだ。


「あー、うるせぇ。

 鼓膜が破れるぜ。」


 暗がりに、うねったクセ毛を肩に垂らし、無精髭を生やした身のたけ六尺三寸の人影が浮かぶ。

 右耳に人さし指を突っ込み、顔を歪ませているのは、草介だ。

 運悪く、小鈴は、起き抜けにかわやへ行っていた草介と鉢合わせたのだ。


 草介は素裸で、肩に着物を掛けているだけの格好だった。

 前を合わせていないので、下の方は野ざらしだ。

 へそのあたりから旺盛に毛が繁り、ご大層な一物イチモツが、ぶらりとさがっている。


 小鈴は両手で顔を覆い、ふたたび悲鳴をあげた。

 甲高い叫びで、草介の耳はキンとなった。


「どこ見てんだ。

 ガキのクセに色気づきやかって、ぎゃあぎゃあ、騒ぐな。」


 諭利は駆け寄って、小鈴を胸に抱きとめた。

 衣で包み、仁王立ちで毒気づく男の姿を遮断した。


「可哀想に、……朝からイヤなモノを見たね。」


「ハッ、このガキが、他人のウチに勝手に入って来るのが悪い、──どこのガキだ!」


 こう言ってから、そういえば諭利が、ガキの女がどうとか言っていたか、──と草介は眠たげに目を細め、頭をガシガシと掻いた。


「ソウ、醜いモノを早くしまって!」


「なにがだ?

 てめえの股の間にも、同じモンがぶらさがってるだろう。」


 呟いた草介を、諭利はキッと睨んだ。


「ごめんよ、躾の悪い犬で。」


 小鈴に詫びてから、さ、早く家にお入り、と草介に目で合図した。


 小鈴は、「大丈夫です。」と言い、「父さんを、見慣れていますから。」と生真面目に答えた。


 小鈴の父親は、農作業中の事故で右半身が動かない体になっていた。

 父の介護で、男の体は見慣れている。

 ただ、父さんより大きくて、少々驚いたのだ。


 翌朝。

 諭利が庭へ出ると、石灯籠にペタリと紙が貼ってあった。

 紙には達筆で、「女人堂」と書かれていた。

 女人堂、というのは、女人禁制の霊山のたもとに、女人が参拝するために設けられた御堂のことだ。


 諭利は紙を剥がし、折り畳んで懐へ入れた。

 そして夕方、帰宅した諭利は、草介の前に紙を差し出し、呆れ顔で云った。


「まったく、おまえという奴は、つまらないことをするよね。」





  十二、小鈴  ─ こすず ─



 草介の意に反し、小鈴は毎朝庵を訪れる。

 草介が起きるころには、諭利は家に居ない。

 それで、諭利は小鈴に草介の世話を任せているのだ。


 小鈴は朝餉あさげを用意し、寝ぼけて不機嫌な草介にむかって、毎朝同じことを言う。


「起きたら、まずは顔を洗いましょう。

 冷たい水で顔を洗うと、体がシャンとしますよ。

 家から出なくても、身なりはきちんとしましょうね。

 云々うんぬん。」


 ──毎度毎度、うるさい小娘だ。


 ガキの男(承)に、ガキの女(小鈴)だ、──諭利はガキが好きなのか?


 草介は眉根を寄せた。


 ──また一匹、……邪魔者が増えた。







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