第4話
――さて、これで話の筋は見えてきましたね。あとは……。
アリシアが路地から大通りに向けて歩いていると、背後から以前と同じ視線を感じた。立ち止まった彼女は、大きな声で言う。
「そこにいらっしゃるのでしょう? 出てきてはいかがですか、ラルミドさん?」
「ちっ! 何でわかるんだよ……プライド傷つくぜ」
建物の上から、ラルミドが後ろ頭を見せる。すると、そのまま倒れこむように落ち、くるりと回って着地してみせる。
「本当に身が軽いですね。見世物小屋ででも働けば、それなりに稼げるのではありませんか?」
「けっ! 俺は他人に笑われるような仕事はしねぇよ。そうなるくらいなら、金持ちからふんだくってやるほうがマシだ」
「私の前で、良くもまあ堂々と……今はあなたに構っている場合ではないですから、見逃して差し上げます。ただし、これ以上私に付きまとわないで……」
アリシアが立ち去ろうとすると、ラルミドは彼女の腕を掴んだ。驚いた彼女は、ラルミドのほうを睨みつける。
「何ですか? 私は忙しいと言って……」
「一緒に来い――いや、来てくれ……頼む」
ラルミドは俯いたまま、アリシアの顔を見ない。だが、力強く握られ、引っ張ろうとする腕の力に、彼女はなぜか親近感を抱いた。どこかで、同じような状況を見たような……。
「ここであなたと争うのも時間の無駄ですから――どちらに行けばよいのでしょう?」
アリシアが言葉に、ラルミドは少しだけ微笑んだように見えた。だが、すぐに彼女に背を向けて、ついてくるよう促す。
ハーリスの店を通り過ぎ、路地のさらに奥まで歩いていく。大通りから離れるほど、雰囲気は暗くなり、空気はジメジメとしていく。周りの建物も、通りに面したものより古く、傾いた物が増えていった。
路地を抜けた先には、小さな広場が――いや、ゴミ溜めがあった。ガラクタが積み上げられ、それを漁る老人と子どもが何人も。
――やはり、ありましたね。スラムが。
アリシアは、この町を訪れた当日からスラムの存在に気づいていた。町を崖から見下ろしたとき、明らかに雰囲気の違う地区があるのを目にしたからだ。
貧民たちが集まるスラムは、ある程度の規模がある町ならば必ず存在する。だが、それをどのように扱うかは、町ごとに違った。中でも最も悪辣なのが……。
「見ないようにする……この町にスラムは存在しないのですね」
「そうだ。ここの領主は、コイツらをなかったことにしやがった!」
貧民へと対策は、管轄する有力者の考え方次第だ。彼らを守るため、手厚い支援をする領主もいる。大抵は、町の人々が独自に手を差し伸べ、それを看過する程度だ。だが、見えないところに押し込めたといことは、一切の支援を許していないのだろう。
「それでも、町の連中はゴミを捨てるって形で、皆を助けてくれる……でも、これじゃあ全然足りないんだよ! 飯も家も服も、何もかも足りてねぇ!」
アリシアは、目の前の光景を懐かしく感じる。明るい世界の底に流れる泥。それを啜って生きるのが、どれだけ惨めで大変なのか――それは彼女の体に今でも刻まれている。
「なあ、あんた。領主の敵、なんだよな? だったら、アイツを何とかできないか! ベルトールの奴が領主になってから、この町は変になっちまった。俺が来たときには、もう少しまともだったんだ! だから、アイツがいなくなれば……」
ラルミドは必死にアリシアへと訴える。期待と希望に満ちた瞳を向けられ、アリシアは一瞬迷いを覚えた。それはかつて自分の持ち物だったからだ。
けれど――だからこそ、彼女は冷静に応える。
「私に彼らを救え、と。あなたはそう言うのですか、ラルミドさん?」
「ああ、そうだよ! あんたなら、それができるんじゃないか! ほら、見てみろ。あんな小さな女の子が、一日中ゴミを探してんだ――何か使えるものはないかって。こんなの絶対おかしいだろ!!」
ラルミドが指を指した場所には、五歳くらいの女の子がいた。ゴミを一生懸命にかき分ける手は、小さな傷とうっすらとした血にまみれていた。ガラクタの中には、割れた陶器や金属の欠片なども混じっている。それを素手で触れるせいで、生傷が絶えないのだろう。
アリシアは静かに歯を噛み締める。彼女には、何もできないからだ。
スラムの存在自体は違法ではない。貧しい民が存在するのは仕方のないこと。それを法で救うことなどできない。法に関わらないなら、アリシアには何の権限もないのだ。
「私にできることはありません。これはこの町の問題です。介入する余地はありません」
アリシアは踵を返す。
――見ていたくない、これ以上は!
だが、背を向けるアリシアの肩を、ラルミドが掴む。
「ちょ、ちょっと待てよ……おい!」
だが、彼の言葉を無視して、アリシアは前に進む。必死で止めようとするラルミドだが、引き摺られるばかりだ。だから、彼は言葉でアリシアを止めようとした。
「あんた、あれを見て何も思わないのかよ! あんた、俺に言ったよな。悪いことをしたら償えって……あれは口だけだったのか? アイツらを苦しめてる奴は見逃しちまうのかよ!」
ブチン!
アリシアは自分の中で、何かが切れる音を聞いた。次の瞬間、肩に捕まっていたラルミドの腕を掴み、体から引き剥がした。
あまりの力に、ラルミドは思わず唸り声を上げる。だがアリシアはそのまま、彼の腕を相手の背中に回し、そのまま壁へと押し付ける。
顔面に衝撃と、壁から伝わるひんやりとした冷気を感じ、ラルミドは一瞬意識を飛ばした。だが、アリシアの怒声が、彼の意識を呼び戻す。
「お前は――私を何だと思っているんだ? 皆を救う救世主か? それとも悪党を倒す正義の味方か?」
「何、言ってんだよ! お前だろうが、俺に罪は……償うもんだって言ったのは!!」
「それが間違ってるんだよ! 罪ってのは法を犯すこと。法に書いてないことは、罪じゃない――証拠もないことで裁いてはいけない!! いいか、覚えておけ。誰かに救ってもらおうなんて、虫のいい話を考えるな! そんな暇があるなら、自分にできることを考えろ!! 法だろうが、人間だろうが――タダで救いを与えはしないんだよ!!」
ラルミドは壁に押し付けられたまま、スラムのほうを見る。先ほどの少女は、ガラクタの中から小さなカップを見つける。「まだこれ使える」と言って、母親の元へと走る少女を見て、ラルミドは薄らと涙を浮かべた。
「そんなもんがあるならなぁ……とっくにやってんだよぉぉ……! でも俺にゃ、盗みくらいしか……」
ラルミドが振り絞るように出した声を聞き、アリシアはようやく我に帰る。彼を抑えつけていた手から力を抜くと、ラルミドはすぐスラムの反対側へと走っていった。
――今のはやりすぎですね。感情的すぎました。
アリシアは右手で頭を抑える。彼女の言葉は正論であり、同時に矛盾を孕むものだった。それは彼女の存在自体を否定するものだから。
彼女は〈救われた人間〉であり、天啓を――奇跡を受けた人間である。少なくとも、アリシア自身はそう信じている。
「もし……アンタさん、ラルミドの知り合いかね?」
感傷に浸るアリシアに、声をかけてきたのは小太りの中年男性。その服は汚れてこそいるが、物自体は悪くない。そのアンバランスな印象に、アリシアは疑問を感じる。
「知り合い――に、なるのでしょうか。あなたは一体……?」
「これはこれは。自分から名乗りもしないで。私はバゴット。織物商をしている……いえ、していた者です」
「これは、ご丁寧に。私はアリシアと申します。帝都からこの街に来て、彼――ラルミドさんにはお世話になっています」
「はっはっは! 彼に財布でも盗られましたかな? 何度も止めるように言っているのですが、聞き入れてもらえなくてねぇ」
アリシアは状況が飲み込めずにいた。見ず知らずのヨソ者に、スラムの人間が声をかけることはまずありえない。襲って物を奪うか、完全に無視するか――あるいは慈悲を乞うか。
さらにわからないのは、バゴットと名乗る男性が声をかけてきた理由だ。このタイミングで声をかけるなら、間違いなくラルミドとのやりとりを見ている。それでも声をかける目的が、アリシアにはさっぱり理解できなかった。
「いかがでしょう。立ち話も何ですから、私の家に来ませんか? 家といっても、掘っ立て小屋みたいなものですがね」
「せっかくお誘い頂いたのに、お断りしては失礼ですね。もしお湯を御用いただけるなら、私がお茶をお入れしますよ」
「ほう、お茶ですか。もう何ヶ月も口にしていませんから、それはありがたい申し出だ――何やら催促してしまったようで、申し訳ないが。ご好意に甘えさせてもらいましょう」
陽気な声を上げるバゴット。だが今の言葉で、アリシアは確信した。彼はスラムに不釣り合いな人間なのだ、と。
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