【玖】 木仏



  一  木仏  ─ きぼとけ ─

  二  病  ─ やまい ─

  三  孝行  ─ こうこう ─

  四  浜の祠  ─ はまのほこら ─

  五  波紋  ─ はもん ─

  六  刑  ─ けい ─

  七  魔者  ─ まもの ─

  八  遊具  ─ ゆうぐ ─

  九  子種  ─ こだね ─







🌸  一  木仏  ─ きぼとけ ─



 木陰に腰をおろし、弥平が仏像を彫っている。

手の平に納まる三寸ほどの立像だ。


「上手いものだねぇ、弥平は本当に器用だね。」


 日吉は弥平の側に座り込んで、仏が彫られていく様子をじっと見つめていた。

弥平はいつもふところに、布にくるんだ木片と彫刻刀を入れ、持ち歩いている。

手の空いた時に取りだしては、続きを彫るのだ。

年老いて幾分 目が悪くなっているせいか眉間に寄せた皺は深く、表情を険しく見せていた。

気安く声をかけづらい雰囲気だ。


 半刻ほど彫ってから、弥平は木片を膝に置き、手を休めた。

ぐるりと首をまわし、左手で肩を揉みほぐす。


「それを、見せてもらえないかなあ。」


 日吉は遠慮がちにたずねた。

その仏像が、弥平にとってとても大事な物のように思えたからだ。


 弥平は頬笑んで、日吉へ仏像を差し出した。

日吉は両手を添えて受け取った。

幼児のように可愛いらしい、丸顔の仏さまだ。


「とても優しい お顔をしているね。」


 小さな指で仏のからだを撫で、日吉は仏に頬笑みかけた。


 坊ちゃん──と、弥平が言った。


「坊ちゃんは、せがれが好きですか。」


「うん、好きだよ。」


 屈託くったくなく、日吉は答えた。

弥平は目を細め、苦い顔をした。


「坊ちゃん、親の口から こんな事を言うのもなんですが、亥助 はどうしようもない悪たれヽヽヽですよ。

これ迄に、相当な悪事を重ねています。

坊ちゃんにはとても聴かせられない非道いことを、たくさんしているのです。」


「亥助は、悪い男ではないよ。

お爺さま のお世話もちゃんとしているし、私にも優しいよ。


 たとえ、弥平の言う通りだったとしても、いまは違うでしょ。

誰かと争うところを見たことはないし、悪さをしているという噂も聞かないよ。」


 弥平は一層険しい顔つきになった。


「坊ちゃんは、あいつの真の姿を見ていないのです。

あいつは平気な顔をして人を騙すのです。


 十一の歳に、あいつは家を出ました。

とんでもない不始末をしでかし、故郷に居られなくなったからなのです。

家を出てから、反省するどころか悪事はより酷くなりました。

たちの悪い破落戸ごろつきの仲間となり、強請ゆすりたかりに盗みに喧嘩──この島にくるまで、他人から巻き上げた金で遊び暮らしていたのです。

あいつは、骨の髄まで悪習が染み込んでいます。


 いまは大人しくしていますが、悪い虫はいずれ動きだします。

あいつは戒心しない。

そもそも良心ヽヽというものがないのです。」


「良心が無い──だなんて、そんな酷いことを言ってはいけないよ。

どんな人間にも良い心はあるものだよ。

昔はどうであれ、信じてあげなくては可哀想だよ。

側で、信じ、支えてくれる者がいてこそ、改心の情も湧くというものでしょ。」


 弥平は口の端をあげ、うっすらと笑った。亥助から日吉を遠ざけるために言った話だが、逆効果だったようだ。

それに『改心の情』だとか、まだ十歳とおにも満たない子供が、世の中を知った風な口を利くのが、可笑おかしかったのだ。







🌸  二  病  ─ やまい ─



「坊ちゃん、昨夜のようなことは、二度とさせてはいけません。

亥助がどんなに頼んできても、からだを触らせてはなりません。」


 肌を触れ合わせる行為のどこがいけない事なのか、日吉にはわからない。


「亥助は、私の軀をかじると餅のような味がして、幸せな気分になるのだと言ったよ。

齧られるのは嫌だけど、亥助の苦しみが和らぐなら、私は構わないよ。」


 日吉はさらりと云った。


「あの白いのは、膿のような物なのでしょ。

なんのやまいかは知らないけれど、からだのなかのどこかが傷ついて膿んでいるから、いつもあんなに苦しそうなんだよね。


 いつか──私が浜の岩場で転んで、足の小指の爪を剥がしてしまったことがあったでしょ。

膿んだ指が紫色になって、毎日、亥助が傷に溜まった膿を口で吸いだしてくれていた。

だから私も、亥助の体の中に溜まった膿を、外へ出す手伝いをしてあげたいんだよ。」


 日吉は弥平に向かって頬笑んだ。


 昨晩、日吉は弥平に仔細を話した。

決して酷いことはされていない、と亥助を庇い、誤解だから、もう亥助を叩いたりしないで──と、念を押した。


 弥平は日吉の軀を拭きながら、さりげなく鼠径部を調べたが、傷つけられた形跡は無かった。


 亥助の行為の意味を知らずに、酷い事ではない、と日吉は主張する。

だが、他人が聞けば十分に非道な行為だ。

年端のゆかぬ子供にしてよいことではない。


「あの白いのは、膿とは違うんですよ、坊ちゃん。」


 この子に、上手いこと説明してやるのは骨の折れることだ。

弥平は言い方を変えた。


「坊ちゃん。

じつは、亥助には悪い鬼が憑いているのです。

あいつは悪事を重ねたせいで、鬼に取り憑かれてしまったのです。

どうも その鬼が、亥助の軀を借りて坊ちゃんに悪戯を仕掛けているようなのです。

気をつけてください。

鬼は、坊ちゃんの魂を狙っています。

鬼が坊ちゃんの魂を喰べてしまったら、亥助は極楽に行けなくなってしまいます。

ですから、坊っちゃんが鬼から亥助を守ってやってください。

決して亥助のことばに従ってはいけません。

私と、約束してくださいますか。」


「うん、約束するよ。」


 弥平は指切りの小指を日吉に向けた。日吉が指を絡めると、弥平は続けた。


「鬼が憑いていることを、亥助に悟られてもいけません。

鬼に憑かれた者は、自分が憑かれているとは知らないのです。

それを悟られた途端、鬼はぱくりと亥助を喰べてしまいます。

いいですね、約束ですよ。」


 日吉は神妙な顔でうなずいた。

弥平の虚言を疑いもせず、本気で、亥助を鬼から守るのだ、と意気込んでいる。

困ったものだ。

この子は亥助が好きなのだ。

あの、ろくでなしが。


 おまえが好きだ──と乞われたなら、拒むことができるだろうか。

愛情に飢えた子だから、好意を示してくる者には、簡単になびいてしまう。

なまじ、美しく生まれついた為に、蜜にたかる蟻の如く、悪い輩が群がってくるだろう。


 哀れな、子だ。







🌸  三  孝行  ─ こうこう ─



「二度と、坊ちゃんに悪さをするんじゃないぞ。」


 と、弥平は言った。


「坊ちゃんはいい子だ。

おまえが、過去にどんな悪事を働いていようと、いまは真っ当に生きているのだから、いまのおまえを信じてやらなくては可哀想だと言った。

そんな子を、傷つけてはならない。」


「そのいい子ヽヽヽってのがクセモノなのさ。」


 本当は親父だって判ってるんだろ──と、亥助は皮肉げに弥平を見返した。


「それにな、俺が言い寄っているんじゃない、小僧が俺に寄ってくるのさ。

やれ、寒いだの、風の音が怖いだの、天井の木目が化け物に見えるだのと理由を付けて、あいつが俺の布団に潜り込んでくるんだ。

背中に引っ付いて、俺の脚のあいだに、絹みたいにすべすべした脚を絡めてくるんだ。

そりゃあ、ってくれと言っているようなもんだぜ。」


 亥助は云いながら、弥平の手元へ目を向ける。

彫りかけの仏の顔は、静かに頬笑んでいる。


「なあ、親父よ。

あんたはすっかり改心しちまったのか。

そんな物をちまちまとこさえて、罪を償っているつもりなのか。

老い先短くなって、地獄へゆくのが怖くなったから、仏さまにすがろう、て魂胆なのか。


 なあ、いまさら念仏を唱えたところで、積みあがった悪業が奇術てづまみたいに ぱっと消えて無くなりやしないぜ。

そんな都合の好い話、あるわけないのさ。」


「亥助、」


 と、弥平は静かに見返した。


「おまえには信じてくれる者がいる。

おまえは、まだ真っ黒に染まりきってはいない。

だから、おまえを信じようとする者があらわれた。


 亥助、あの子はおまえの菩薩さまだ。

あの子の手を握っていれば、おまえは、足下の真っ黒な穴から抜けられるはずだ。」


「あの小僧が、菩薩ヽヽだと、」


 亥助は呟き、とうとうあんたも焼きが回ったらしいな──とせせら笑った。


「あんなガキに、なにができる。

俺はあの間抜けなガキが、なにも知らずにへらへら笑ってやがるのを見ると、どうにも むかっ腹が立つのさ。

あの細首を、鶏をめるみたいに ぐっとへし折ってやりたくて、堪らなくなるのさ。


 親父よ、俺をこの島に閉じ込めたのは、改心させるためなのか。

なあ、昔の てめえを思い出せ。

俺をいっぱしの盗っ人に仕立てたのは あんただぜ。

いまさら真っ当になんて、生きれやしねえよ。」


 弥平は無言で亥助を見返していた。亥助は怒りを覚えて噛みついた。


「やい、兵衛ひょうえ

鎌鼬の兵衛、千人切りの兵衛、血塗ちまみれの青面獣。

ああ随分、腑抜けになっちまったモンだなあ、兵衛サマよお。」


 亥助は射るように、弥平を睨み付けた。


「旦那の世話は、誰かに替わらせろ。

あんたが首領かしらにつなぎをつけない気なら、俺は勝手にでていくぜ。

あんたは退屈なこの島で、せいぜい長生きするがいいさ。

改心しようがしまいが、俺たちが行く場所は同じだ。

だから、蔭ながら祈っていてやる。

極悪人の親父が、一寸でも長くこの世に留まれますように、地獄の釜で茹でられるのを、少しでも遅らせますように──てな。


 それがせめてもの、親孝行だ。」







🌸  四  浜の祠  ─ はまのほこら ─



 浜の外れの洞穴に、海で死んだ者たちを供養するために建てられたほこらがある。

祠の側には数十体の小さな地蔵が並び、その前には、三寸ばかりの木仏が置かれている。それは、百を超える数だった。

 童のように愛らしい仏たちに、日吉は手を合わせた。

「これは、弥平が彫った仏さまだよね」と、日吉は亥助を見上げて云った。「亥助が、手先が器用なのは、親譲りだね。」

 亥助の眉間に皺が寄った。大きく舌打ちすると、突然、足を蹴り上げて仏をなぎ倒した。仏たちは、からんからんと音を立て、岩場に散らばった。

 日吉は目を見開いた。足下の仏を、亥助は右足のかかとで踏み付けていた。

「なんてことをするの、非道いよ亥助、あんまりだ。」

 日吉は、顔を踏み割られてしまった仏を拾い上げた。お可哀想にと、指で裂け目をなぞりながら、日吉は今にも泣きだしそうだ。

「ごめんなさい、痛かったでしょう。」鼻を啜り上げながら、日吉は仏を拾い集めた。「ごめんなさい。」と、一体一体に声を掛けながら、元の場所へ仏を並べた。

 そんな日吉の態度に、亥助は苛立ち、もう一度、蹴倒してやろうかと足を動かしかけたが、寸でのところで思いとどまった。

 阿呆らしい。──

「おい、帰るぞ。じきに潮が満ちる、ここは満潮になると道が沈むんだ、お前は泳げやしないだろ。」

「謝って。」と、日吉は云った、「お爺さまが、心を籠めて作った物には魂が宿るのだと話してくれたよ。元は木片であっても、弥平の真心がこめられているし、ここへ来て、仏さまに手を合わす人たちの想いもこもっている。だから、早く仏さまに謝ってよ。」

「何でそんなもんに謝るんだ。だだの木切れだろうが。仏師でもねえ、素人のジジイが手慰みで彫った人形に、魂なんぞ宿るものか。

 なまじっか人形ひとがたをしてやがるから、畏れを懐いたり、愛着を感じたりするんだろうが、そんなモンは錯覚だ。見る側が、手前勝手に都合のいい解釈をしているだけさ。」

 亥助は、日吉が大切そうに握る木仏の顔を眺めた。

「俺には、ただの木切れにしか見えねえし、偶像を拝んだりしねえ。だから謝らねえ。──判ったか。」

「謝ってくれるまで、帰らないから。」

「おお、そうか。だったら好きにしな。」

 云うと亥助は歩きだした。

「俺は、折れてやらないぞ。そうやって意地を張って、損をするのはお前の方さ。道が波に消されちまったら、途端に心細くなって、泣きながら後悔するだろうさ。」

 日吉が後を追って来る気配はなかった。屋敷から、さほど離れていない場所である。だから、迷ったりはしないだろうと亥助は考えた。

 屋敷に戻ってから、亥助は薪割りをした。腹が減ったので調理場へ行き、冷や飯に残り汁を掛けたものを口に掻き込んだ。その後、のんびりとたばこ一服いっぷくしてから、風呂焚きを始めると、弥平がやって来た。

「おい亥助、坊ちゃんを見なかったか。探しているが、何処にも居ないのだ。」

「帰って、いないのか。」

「どういうことだ。」

 弥平は険しい顔で、亥助に問い返した。







🌸  五  波紋  ─ はもん ─



「浜の洞穴に、いるかもしれん。昼間に連れて行ったんだが、帰らないと云ってゴネるのさ。面倒くさくなって、置いて来た。」

「馬鹿が。旦那様が騒いで大変なんだ、早く迎えに行け。」

 まだ居るのだろうかと、亥助は呆れた。

「ハッ、あのキチガイ爺サン、ガキ一匹いなくなったくらいで騒ぐなってんだ。まったく、皆でちやほやするから、あの小僧も調子に乗りやがるのさ。一晩くらい居たところで、死にやしないさ。」

「──亥助、」

「ああ、判った。連れて来ればイイんだろ。」

 亥助は、漁師に事情を話して舟を出してもらった。

 小舟は夜の海を静かに進んだ。洞穴へ入って行くと、松明で壁面が明るみ、奥の祠が微かに見えた。

 浅瀬で亥助は船を降りた。膝の辺りまでの水をザブザブと割って祠へ向かった。松明を差し向けると、寒そうに膝を抱えて丸まっている日吉の姿があった。

 「亥助、」と、幽かに日吉の声が聴こえた。

「謝って。」

 目を合わすなり云われた言葉に、根負けした。なんて強情なんだろうか。

「俺が悪かった。二度と、仏を蹴ったりしない。」

 日吉は震えていた。

 怖いくせに。このまま去ったら、泣くだろうに。──

「帰ったら、弥平にも謝ってね。」

「ああ、判った。」

 亥助は日吉の前に屈み、片膝をついた。腕を広げると、日吉は首に抱きついてきた。亥助は片手を日吉の尻の下に入れて抱え、立ち上がった。そして再び水を割って歩き、日吉を舟に乗せた。

 日吉は入江に着くまで ずっと亥助の胸にしがみついていた。

「暗くなって、寒くて、風の音が木霊して、心細かったんだ。でも、亥助はきっと戻って来ると、信じていたよ。」

 亥助は舟を出してくれた漁師に、礼は明日届けさせる、と云い、背に日吉をおぶった。

 屋敷へ戻ると、使用人たちは安堵した顔で日吉を迎えた。日吉は、夕飯をとるようにと女中に促された。集まっていた者たちも、日吉の無事が確認できたので、それぞれに散っていった。

 その場には、弥平と亥助が残った。弥平は無言で亥助を見ていた。顎をしゃくり、背を向けて歩き出した。亥助も無言で、弥平の後を追った。

 二人は、屋敷の裏にある物置小屋のへ入った。

「何で、坊ちゃんを置いて帰った。」

 亥助は答えなかった。弥平が、この小屋へ自分を連れてきた理由を知っている。亥助は、弥平の前に膝をついた。

「やれよ。」

 ガキの頃、仕事でヘマをやらかすと、こうして仕置きをされていた。身心には服従ヽヽの二文字が刻み込まれている。

 弥平は、亥助のカラダに縄を巻いた。亥助は逆さまに、はりから吊り下げられた。

 日吉は、二人が気がかりで姿を探した。弥平親子が裏の小屋の方に行くのを見かけたと聴き、急いでそちらへ向かった。仏さまの事を話したら、弥平は悲しむだろうし、亥助は酷く叱られるのではないかと思った。

 小屋の戸を開け、日吉は言葉を失った。目の前の光景が、とても信じられなかった。







🌸  六  刑  ─ けい ─



 縄で逆さに吊された亥助を、棒を持った弥平が叩いていた。亥助は背を激しく打たれながら、奥歯を噛みしめて耐えていた。

 日吉は駆け寄り、必死で弥平の腰にしがみついた。

「止めて、打たないで。仏さまを踏み付けたことなら私も謝るから、亥助を許してあげてよ。」

「坊ちゃん、そうではありません。こいつは坊ちゃんを置いて帰ったのですよ。潮が満ちると帰れなくなる場所に、子供を置き去りにしたのです。無事だから良い、などと、軽く済ますわけにはいきません。」

「その通りさ、」くぐもった声で亥助は呟いた。「だから、お前は あっちに行っいてろ。」

 煩わしげに眉をひそめ、亥助は拒絶するように日吉から顔をらしていた。

 逆さに吊られ、血が頭に下がり、胃の腑のモノが流れ出そうだった。しおきを中断されると、キツいのだ。亥助は早く終わらせたいと願っていた。

「私が、を通したからなんだよ。だから亥助は帰ってしまったんだ。」

「それでも、こいつが折れるべきなのです。」腰にしがみついている日吉の肩に、弥平は手をかけた。「坊っちゃん、退いていてください。こいつは、言葉で諭しても効き目がない。このゴロツキは、はいはい、と神妙に聴くふりをして、胸の裡で舌を出しているような奴なんです。こうして懲らしめておかないと、図に乗って、もっと酷い悪さをしでかすのです。」

 体で分からせるのが一番だ、そう聞くと、日吉は一段と両手に力を込めて、弥平の体を離すまいとした。

 ーー私の所為で叩かれている、亥助を守らなくてはいけない。

 日吉は頑固だ。これ以上の問答は無駄だと諦め、弥平は亥助を吊っている縄を解いた。

 ドサリ、と亥助の体は落ちた。日吉は亥助の側に膝を付いて、縄をほどきにかかった。

 日吉の耳の奥には、あの夜の、悲しい笑い声が響いていた。笑いながら、亥助は心で哭いていた。亥助の姿を想うと、胸が締め付けられるように苦しかった。出来ることがあるなら、何でもしたい、日吉は「身代わりに成りたい」とさえ思った。

 しかし弥平は、「亥助の躯から鬼を追い出す術(すべ)は無い」と告げた。長年、鬼に憑かれていた為に、魂の一部が鬼と同化しており、無理に鬼を引き離すと命を落とすのだそうだ。亥助にしてやれる事は、これ以上亥助が悪事を重ねないようにと、見張っていることだけなのだ。

 それでも、日吉は何か自分に出来ることを、と考え、早速、鬼が嫌うという焼嗅(やいかがし)を軒先に吊ってみた。それから日吉は、亥助を救う方法があればと、毎日書庫に隠って本を調べ始めたのだ。

 また、可笑おかしなことを思いつきやがった。──

 亥助は日吉の行動をいぶかっていた。この頃、日吉は亥助に近づこうとしない。しつこいくらいに纏わりついていた小僧が、パタリと後追いを止めたので、亥助は何だか物足りないような、寂しいような心地だった。







🌸  七  魔物  ─ まもの ─



 亥助は書庫を覗いてみた。ソロリと近づいて、本を熱心に見つめている日吉の後ろに立った。

「何を調べているんだ」

 ビクン、となって日吉は本を落とした。一つのことに集中すると、周りが見えなくなるのだ。あわて、日吉が本を拾いかけると、亥助は本をサッと抜き取って、手の届かない位置にさし上げた。

 どれどれ、と、亥助が本を捲ると、しおりを挟んだ箇所には、人間に取り憑いた鬼の挿絵があり、次の貢には、陰陽師が鬼を退治する過程が記してあった。

 それを見て、はあん、と亥助は閃いた。

 ──軒先に吊られた、あの生臭い魚の頭は鬼避けの護符だ。

 小僧は、旦那の奇行ヽヽを、鬼に憑かれているせいだと思い込み、正気に戻す方法を探しているのだ。

 亥助は、諭すような口調で云った。

「世の中にはな、けた年寄りなんぞ、ごろごろいるのさ。」

 一瞬、上目遣いに亥助を見て、日吉は不安そうに視線をさげた。

「おまえ、旦那が鬼に憑かれていると思ってんだろ。あのな、服も着続けているとボロくなるように、人も歳をくうと、あちこちにガタがくる。足腰が弱り、目は霞み、頭もモウロクして、末は寝床で糞尿を垂れ流すんだ。王様も物乞いも、人の体の造りはおんなじさ。それは、旦那だって例外じゃない。──ところで、お前は鬼を見たことがあるか」

 日吉は首を横に振った。うっかり秘密を喋ってしまわないよう、口を閉じている。

「だよな。──どんな姿かは知っている、だが、実際に見たことはない。訊けば、世の中の大半の者がこう答えるさ。だから、人は〔鬼〕を畏れるんだ。見えないから、余計に恐ろしいと感じる。絵に描いた鬼は、如何にも恐ろしげな姿をしているよな。鬼は無慈悲で残忍だと聞かされたら、人は勝手に頭ん中で、己の想像しうる限りの恐ろしげな化け物を造り出すんだ。──たとえば、親は子に、悪いことをすると鬼が来るぞ、と云う。いくら子供が悪タレでも、舌を引き抜いたり、生皮を剥いだりする親はいない。だから、鬼には威しヽヽの効果があるのさ。」

 それから亥助は、存在しない〔鬼〕を利用し、人を騙くらかして金儲けをする狡猾な人間の話をした。祈禱師や拝み屋などと称する輩が、他人の弱味に付け込んで、金を絞り採る巧妙な手口を講釈した。

 結局、〔鬼〕というのは、人が人を操る為に創作した都合の良いまやかしヽヽヽヽであると、亥助は云いたいようだ。

 うつむいて、考え込む日吉の肩を引き寄せ、「なあ、」と、亥助は耳許で囁いた。

「今晩、親父が眠入ったら俺んとこに来いよ。小便に行くふりをして抜けてくればいいのさ、な。」

 弥平は日吉から亥助を遠避けていた。あの夜以来、亥助はお爺様の寝所の隣室で寝ずの番をしている。亥助とは、ずっと同じ部屋で寝ていなかった。

 『なあ、おまえは俺がすきヽヽだろ。』

 闇のなかに、亥助のすがたが揺らめく。いらうように、不敵に亥助は微笑んでいた。







🌸  八  遊具  ─ ゆうぐ ─



「一が刺した、二が刺した、三が刺した、」

 歌いながら、親指と人差し指で手の甲を摘まみ合う。

「蜂(八)が刺した、熊蜂(九)が刺した、ブンブンブン。」

 八と九で強く摘まみ、ブンブンと蜂のように手を舞わせながら、互いの体を、チクリと針で刺すようにつねる。キャッキャと笑い、戯れる。眠るまでの、憩いのひととき。

 お腹が痛くなるくらいに、日吉は声を上げて笑う。ひとしきり笑ったあとは、亥助の胸に頬を付けて歌をねだる。

 亥助のカラダは、獣の臭いがした。仄かに、煙草の匂いがした。亥助の腕は温かく日吉を包み、手は優しく頭を撫でる。細い柔毛の感触を楽しむように、何度も、指で日吉の髪を梳く。

 男の体は、ねぐらのような安心を与えていた。寄り添い、日吉は亥助の体に触れた。寒い夜、亥助の腹に手を当て、太股の間に脚を差し入れて温めた。

 探る指の先が、亥助の下腹部へ触れる。下腹部のものが、生き物のようにピクリと動く。指でつつくとひくひくと動く。手の平に握ると、ふにゃりとしていた肉塊は、クイと姿勢を立てた。

「なんで、こんな風になるの。」

 伸びて膨らみ、それは棒のようになっている。

 亥助は眉をひそめて苦笑いし、云った。

「こいつは、お前が好きなのさ。」

 この一言で、それヽヽは日吉の玩具になった。日吉は飽きずにいじっている。率直に、面白いのだ。刺激を加えると、たわんでいた肉が張り詰める。形状を変える生き物を、日吉は愉しんでいた。

「やめろ。」

 亥助は舌打ちした。眠りたいのに、セガレを遊戯に誘う小僧がわずらわしい。無遠慮にねられ、皮が乾きヒリヒリしてきた。

「おい、いい加減にしろ。」

 鋭い口調で云い、衣の内に竿を仕舞って亥助は背を向ける。叱られて、日吉は しゅんとなる。冷たい布団に戻ってちぢこまる。

 しばらくすると、隣から寝息が聞こえ始める。やがて、ごうごうといびきがあがる。日吉は音を立てずに起き出して、布団を捲る。亥助の背に寄り添って、そろりと前に手を回す。

 おまえは、私が好きなの。──

 手の内で息づくものへ、声には出さず問いかける。亥助の分身は、主と同じにクタリとこうべを垂れたままだ。日吉は、亥助の背に頬をつける。

 こんな匂いが、するのだろうか。──

 ちょっとだけ似ている、という男の背に顔を押し当て、未だ見ぬ父を想う。日吉は脚を絡め、ぴったりと体を合わせる。亥助の心音が肌に伝わる。やがて単調な律動は、眠りを誘う。亥助の分身を柔らかく握ったまま、日吉は眠りに落ちてゆく。

 それは、ささやかな幸せだった。けれど、もう求めてはならない。亥助の中に巣くう悪い鬼が騒ぎ出してしまうから、体を触れさせてはいけない。亥助が極楽へゆけなくなってしまうから、我慢しなければならないのだ。







🌸  九  子種  ─ こだね ─



 聞けなかったけれど、ずっと気になっていたのだ。あれヽヽは一体、なんなのだろう。

 あの夜──亥助は竹のように体をしならせて、粥に似た白いものを、私のお腹のうえに滴らせた。膿みではない、と、弥平は云った。ならば一体、なんなのか。

 不意に問われた弥平は言い淀み、あれは子種です、と答えた。

 亥助は子種ヽヽを私の口に容れようとした。子種を飲み込んだら、私のお腹には亥助の子が宿ったのだろうか。

「男が、子を身籠みごもることはありません。」

 日吉の質問に答え、弥平は云った。それから、女の股の間には子袋に繋がる穴があり、そこに子種を仕込まないと子は宿らない、と補足をした。

 そういえば、亥助が、小便と大便の穴の間にもう一つ、女には穴があると云っていた。その時、亥助は地面に女人の陰部を描いてみせ、俺はこれで商売をしていたのさ、とニヤリとした。

 島に来る前、亥助は絵師えかきをしていた。表向きには仏画や厄除けの札を扱い、裏では春画を描いて売っていたそうだ。

 それにしても。──

 日吉は考える。何故、亥助は私の口に子種を容れようとしたのだろうか。

「はて、どうしたものか。なんにしろ、憑いた鬼にそそのかされてやったことなのでしょうから。」

 曖昧に答え、弥平は憐れむように日吉を眺めた。よく、子は授かり物、などといわれるが、惚れ合った夫婦の間に何年も子が授からないこともあれば、強姦おかされ、見知らぬ男の種を孕む女もいる。そして、世の中には、女を孕ませた事も、己の子が産まれ育っている事も、知らない男がいるのだ。

「さあ、もう就寝やすみましょう。」

 弥平は、なにか訊きたげな日吉を促し、日吉の肩に布団を引きあげた。

 行っては、いけない。──

 そう、日吉は自らを戒めた。けれど、どうにも人肌恋しくなって、日吉は弥平の布団に身を忍ばせた。温もりを求め、痩せ枯れた背に寄り添った。そして、ごく自然に手を腹の方へ回した。

 弥平のここも、同じようになるのだろうか。──

 弥平は びくりとなった。小さな手に、股間を握り込まれているのだ。

 『なあ、親父よ。あんたはすっかりれちまったのかい。』

 弥平の耳許を、揶揄からかうような亥助の声がよぎった。

「坊っちゃん。すみませんが、歳のせいか軀の節々が痛むのです。どうか ご自分の布団でお休みになってください。」

 振り向かずに、弥平は云った。

「ごめんなさい。」

 小声で詫び、日吉は隣へ戻った。

 弥平の胸に、日吉の淋しげな声が、影を落とした。悪気はない。己の行為が、相手にどんな感情を懐かせるのか、日吉は知らないのだ。

 『その、良い子ってのがクセモノなのさ。』

 かつて、兵衛ヽヽの側に、あんな目をした女がいた。女は一心にすがりついてきた。女は、どんなにむごい仕打ちを受けようとも、兵衛から離れなかった。

 だから、兵衛は怖ろしいくなって、女の元から逃げ出したのだ。











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