【捌】 自尊心



  一  自尊心  ─ じそんしん ─

  二  木蘭屋敷  ─ もくれんやしき ─

  三  疫病神  ─ やくびょうがみ ─

  四  義弟  ─ おとうと ─

  五  地獄  ─ じごく ─

  六  眠り薬  ─ ねむりぐすり ─

  七  甘酒  ─ あまざけ ─

  八  修羅  ─ しゅら ─

  九  無明  ─ むみょう ─





🌸  一  自尊心  ─ じそんしん ─



 俺はとんだマヌケ野郎だった。内緒ヽヽにすべき事柄を、取り違えていた。なんにも判っちゃいなかった。まったく、馬鹿なガキだった。

 だが、女の方は俺に秘密を知られたと思い、焦っていた。

 翌日、女は様子をサグりに屋敷へ来た。女は、坊んが知らぬ風を装っているのを見て、安堵した。俺を物陰に呼び寄せ、小声で、いいから、取っておきな、と言って、駄賃をくれた。

 あの女は金が目当てだと、誰もが思っていた。信用してはならぬと、坊んに忠告する者もいた。そんなこと、坊んは誰より判っていた。

「なあ、亥助。人間なんてのは、損得勘定で動く生き物なんだ。たとえ将来を言い交わした相手があっても、条件のよい者が現れれば、そちらへ心が動くのが当然だ。それを、乙に澄ました奴らが、やれ尻軽だの、浮気者だのと非難する。だがな、そうした奴らの腹には、巧くやりやがったな、という妬みがあるのさ。だから、玉の輿に乗った女が、数年後に薄幸の憂き目にあっていると知ると、そら見たことかと ほくそ笑むんだ。皆、ひと皮剥けば、妬み嫉みの塊だ。体面を取り繕うのが巧ければ、善人に見えるというだけなのさ。

 俺に近づいてくる奴は、多かれ少なかれ金が目当てだ。ならば容貌みてくれが美しい方が良い。俺は美しいものが好きだ。美しいものを眺めていると心が和む。金が目当てだろうが、俺はあの女を側に置いておきたい。だから、多少の事には目をつぶろうと思う。」

 多分、旅行の最中に坊んが目を瞑っていられない事態が起きたのだ。

 あいつらは、デキていた 。姉弟で、乳繰チチクり合っていやがったんだ。

 夜半、坊んは尿意を感じ、目を覚ました。用便の手伝いを頼もうと横を向くと、女は居なかった。厠にでも行ったものかと思ったところ、不意に、啜り泣くような女の声が聴こえてきた。それは弟が休んでいる右隣の部屋からだった。衣擦れの音に、低く呻く男の声が重なった。

 坊んは気づいた。襖の向こうで、なにがおこなわれているのか判ったから、声をかけられなかった。

 暗闇のなか、坊んは怒りに震え、尿意と戦った。目覚めたことを、奴らに気取けどられてはならなかった。

 ひたひたと、潮は坊んの内側を満たしていった。いよいよ波が、尿道の半ばまで迫っていた。我慢も限界に近づいていた。

 水音が、坊んの耳に響いた。

 天にも昇る解放感と伴に、坊んは酷い屈辱にまみれた。

 大人の男として、あってはならない失態だ。自尊心の強い坊んには、耐え難い出来事だった。だから坊んは、女を殺すヽヽと定めたのだ。

 坊んは、周到に計画を練った。秘かに人を雇い、女とその弟の身辺を調べ直した。弟にはオンナがいた。弟は、筋者の女房に本気で惚れていた。やくざ者に脅されていると、姉に泣きつき、首尾よく金を引き出したあと、女と逃げようと計画していた。

 坊んは、失踪中の〔富一〕の名をかたり、女に調査書を送った。それにも相応の意味があった。富一は、すでにこの世の者ではなかった。





🌸  二  木蘭屋敷  ─ もくれんやしき ─



 女は、富一からの文に慄然としただろう。

 その者は、富一の失踪の真相を知っているのだ。


 一年前。──

 富一は、「汚らわしい姉弟の関係を暴露バラしてやるぞ」と女に強請りをかけた。

 雇い主からの一時的な報酬よりも、今後 女から得られる恩恵を選んだ。


 女は、富一に金と色を使い、坊んの父親へ嘘の報告をさせた。

 従順に努め、女は富一を油断させた。

 そしてある夜、──家へ呼び寄せた男の口を封じた。

 庭木用に掘ってあった穴へ、遺体を放り込み、その上に紫木蓮しもくれんを植えたのだ。


 初夏の頃、木蓮は大振りで舌状の五弁の花を咲かせる。

 坊んは一度も女の住居を訪れてはいない。

 人間の腐肉を糧にして咲く、なまめかしい赤紫色の花を思い浮かべながら、坊んは皮肉げに呼んでいた。


「木蓮屋敷」


 ──と。


 姉は弟に固執していた。

 今まで、献身的に尽くしてきた自分を捨て、他所のオンナと逃げようしていることに、我慢がならなかった。

 坊んの目論み通り、痴情の縺れから、姉は弟を刺したのだ。


 女の心に猜疑の種を植え、弟を殺すよう仕向けたのは、坊んだ。

 祝言の日までに、女を始末しようと企てた、──今なら、坊んの思考が手に取るように解る。


『坊んが殺した。』


 こう、話しても信じる者はいない。

 手足の利かない不具者が、人を殺せるはずがない。

 坊んの企みを、立証する証拠は何処にも無い。

 そして俺の話しなど、誰も信じやしない。

「鶏殺しの悪童」の作り話を、真に受ける者はいないのだ。


 亥助は日吉を見た。


 ──こいつは昔の俺と同じ。

 周りの奴らにどんな思惑があるのか、知りやしない。

 そこら中にある地獄が、見えてやしない。


 日吉を見て苛立つのは、無知で無力な昔の自分を重ね、歯がゆい想いになるからだ。

 今の俺なら、──回避できる。

 けれど日吉は、真実を知ったところで、結果なにもできやしない。


 足下の地獄を見て、足をすくませ、うずくまってしまうくらいなら、知らない方が幸せだ。

 知らなければ、青空を見上げ、鼻唄を歌いながら歩いてゆけるのだ。


「春の匂いがする。」


 亥助を見上げ、日吉は無邪気に笑った。


 泣いたり笑ったり、面倒なガキだが、一緒にいると情が移る。

 感情というヤツは厄介だ。

 殴られた腹いせにキツいことを言ったが、日吉がショゲた様子でいるのを見ると、途端に心地が悪くなって、なんだか機嫌取りをしてしまう始末だ。


 ──それでも、


 亥助は頬笑みを返した。


 ──俺は、おまえを殺すことができる。


 こいつも、いつの日にか知るだろう。

 手を繋いでいた奴が、どんな男だったかを。


 遠く、「法華経」と啼く声が聴こえた。


「その年、一番はじめのうぐいすの啼き声を、『初音』というのさ。」


 日吉は、亥助から教わった言葉を、胸の裡で呟いてみた。


 ──初音。


 それは、日吉にとって特別な意味を持つ言葉だった。





🌸  三  疫病神  ─ やくびょうがみ ─



 母に楽をさせてやりたい、母の喜ぶ顔がみたい。

 だが、母の為にとすることが、なぜか裏目に出てしまう。

 母の負担になり、立場を悪くしてしまうのだ。


 母に疎まれている、──亥助は肌身にひしひしと感じていた。


 結局、奥様の衣裳棚から消えた宝飾品は見つからず、盗みの容疑は亥助にかかったままだ。

 その件で、母は心ない中傷を受け、仕事を続けていられなくなった。

 仕事を辞めると、旦那様の親類が大家をしている長屋にも、住んでいられなくなった。


 母子は知人を頼って隣町へ移った。

 知人の紹介で、母は宿屋の下働きをはじめた。

 母が仕事の間、亥助は妹の守りをした。

 そうして一年過ぎ、暮らしにも慣れたころ、その男はあらわれた。


 父の弟であるその男は、確かに顔立ちは似ていたが、性格はまる反対だった。

 父が生きていたころ、男はよく家に来ていた。

 男が実家を訪れる理由は、金の無心むしんと決まっていた。

 真面目一方な父と違い、男は定職に就かず、遊び暮らしていた。

 父と顔を合わすと必ず喧嘩になるので、行商で父が留守の間を見計らって、男は家に来ていた。

 母は、父に内緒で男に金を渡していた。

 毎回、「これが最後だ」と念を押すけれど、金が尽きれば男は またやって来た。


 父が死んだとき、男は余所の町にいた。

 一応、居どころを確かめて知らせをいれたが、葬儀には姿を見せなかった。


 初七日を過ぎてから、ふらりと男はあらわれた。

 唐突に、義姉に向かい、こう言った。


「家主は俺だ。

 あの野郎が親から受け継いだものは、当然

 俺のものだ。」


 男は、すでに家屋を売る手配をし、身重みおもの義姉を追い出した。


 母子は、知人の世話で長屋へ引っ越し、母はそこで妹を産んだ。


 金を手にした男は、それから四年ほど音沙汰なしだったが、母子が隣町へ越してから再びあらわれるようになった。

 遠慮もなしに家に入り込み、亭主のように振る舞った。


 男は、仲間のゴロツキを家にいれ、昼間から酒を飲んだ。

 酒がなくなると、亥助は買いに行かされた。男は金をくれないので、店に頼んでツケにしていたが、それも利かなくなり、酒を分けてもらえなくなった。

 酒を持ち帰らないと、亥助は男に殴られた。


 亥助は、酒屋の裏に忍び込み、かめから酒を掬い取った。

 悪い事だと思いながら、二度三度と手を出した。


 店の者は、物陰からようすを窺っていた。

 一度では気づかなくとも、度重なれば、不自然な酒の減り具合に気づかぬはずがなかった。


 甕から酒を掬おうとした瞬間、亥助は背を棒で叩かれた。


 母は、勤め先から亥助を引き取りに来た。


「酒代は必ず払います、──どうぞ番所につき出すのだけはご勘弁ください。」


 土間に正座し、母はひたすらに頭を下げた。


 帰りの道すがら、母は亥助と一言も口をきかなかった。

 母は前を足早に歩いて行く。

 亥助は母の背に向けて、小さな声で、「ごめんなさい」と言った。

 母は、振り返って亥助を睨んだ。

 叱られる、と一瞬、亥助は身構えたけれど、無言で母は背を向けた。

 大股で、亥助を引き離すように、どんどん前へ歩いて行った。





🌸  四  義弟  ─ おとうと ─



 『俺は、あいつの真面目クサったツラが大嫌いだったのさ。うるせぇ親父が死んでくれたと思ったら、今度は、あの野郎が親父みたいに説教してきやがった。俺は、いつかこいつに吠えヅラかかせてやろうと思っていた。

 ハン、俺がおまえのように田舎臭い女のことを本気で好きだとでも思ったか。恨むんなら、てめえの亭主を恨むんだな。』

 いつも、男はデキのイイ兄と較べられていた。兄貴を見習え、──というのが父親の口癖だった。ただ実直なだけの、面白味も無い男のどこを見習えというのか。父親の小言を聞く度に、男は父と兄への憎しみを募らせた。

 きよが仕事から帰ると、男は破落戸どもと酒を飲んでいた。破落戸の一人が、きよの側に寄ってきた。いきなりキヨを抱きすくめ、酌をしろ、と板間へ引き上げた。

 逆らうと男にぶたれる。仕方なく、きよは髭面ヒゲヅラの男の横に座った。

 嫌がる きよの体を引き寄せ、髭面は好色な冗談を云いながら、片手で きよの尻を撫で回した。そのうちに、なにやら もよおしてきた風で、髭面は伺いを立てるように、男に媚びた目を向けた。

「構わねぇよ、好きにしな。」

「本当か。」

 髭面は嬉しげに、赤ら顔を歪ませた。

 男は、後ろのついたてを横目に見て、そっちでやれ、と合図した。

 キヨは扆の後ろに引いてゆかれた。

「嫌、──放して。」

 声を上げ、必死で抵抗するが、力の差はどうにもならない。いくら叫んだところで、長屋の住人は破落戸の報復を恐れ、誰も助けには来やしない。

 破落戸どもは、酒を啜りながらニヤニヤと視線を交わし合った。

 男は醒めた表情で酒を飲んでいた。

 ろくでなしの疫病神。──

 男に関わってしまったことを、きよは心底悔やんでいた。

 『あんたを見ていると、五歳いつつの時に死んだお袋を思い出すのさ。』

 照れくさそうに、男はキヨに頬笑みかけていきた。兄嫁を慕い、男は進んで力仕事を手伝い、いたわりの言葉をかけてきた。

 噂されているような悪人ではない。──

 男と身近に接し、言葉を交わすうち、きよは男に対する認識を改めた。男は、幼い頃に母と死別しており、甘えられる者がいなかった。父や兄への反抗は、寂しさの裏返しだ。そう考えると、急に男が憐れに思えてきた。

 『真っ当に生きたいと思っている。これまで、悪い仲間と何度も縁を切ろうとしたが、付き纏われて、引き戻されてしまうんだ。』

 きよは男を信じ、手助けをした。仕事先を世話してやり、悪い仲間と手を切るのに必用だというので、夫に内緒で金を用立てもしたた。

 そうして親身になって支えたが、善意はことごとく裏切られた。紹介した仕事はどれも三日と続かず、悪友と放れる様子もなかった。言い訳を繰り返すばかりの男に、キヨは失望し、見切りを付けた。

「蓄えが尽きたから、もう金は渡せない。」

 キヨが断ると、男は豹変した。

 俺との仲を兄貴に話すと脅しをかけてきたのだ。





🌸  五  地獄  ─ じごく ─



 『あんたが好きだ。俺なんかの為に、これほど親身になってくれたのは、あんただけだ。一度でいい。想いを遂げさせてくれないだろうか。』

 夫が留守の晩、こう言って男は迫ってきた。幼子が母に縋るように、男は一心に きよを求めてきた。情にほだされ、一度だけ、と自らに言い訳をし、きよは男を受け入れた。

 それから幾度となく体を求められた。きよは請われるままに受け入れた。遊び馴れた男の手管は巧みだった。生真面目で淡白な夫からは得られない、女の喜びを知ったのだ。

 浅はかだった。──

 すっかり騙されていたのだ。男は忘れかけたころに現れ、嫌がらせをする。あの男と関わってしまったばかりに、今もこうして、薄汚い破落戸に操を奪われようとしていた。

 きよは髭面の腕に噛みついた。髭面は、ギャアと髭面は声をあげ、腕を振って きよの頭を床に叩きつけた。

「このクソアマァ。」

 痛みに頭に血を昇らせた髭面は、声を荒らげて馬乗りになり、何度も平手で きよ顔をはたいた。加減もなしに叩かれ続けた きよは、やがて抗う気力を失った。

 夕方になり、妹は、腹が減ったから帰るとゴネだした。亥助は、破落戸どもが入り浸る家から妹を連れ出していた。

 母も家に戻ったころだろうと考え、亥助は帰ることにした。

 家の近くに来ると、ちょうど去って行くゴロツキ共の姿が見えた。

 亥助は安堵して戸を開けた。母は帰っていないようだ。亥助は酒瓶を拾いながら、奥のついたてから白い足が覗いているのに気がついた。そこには、ボロ布のように打ち捨てられた母がいた。

 あの野郎、また母ちゃんを殴りやがった。──

 昼間、妙な男が近づいて来て、値踏みするようにジロジロと妹を見ていた。その男は女衒ゼゲンだった。あのろくでなしは、妹を女郎屋に売ろうとしていたのだ。

 もう、許さねえ。──

 亥助は戸のつかえ棒を掴んで、男を追いかけた。

「殺してやる、」

 亥助は暗がりから様子を窺い、男が一人になったところに襲いかかった。

 本気で、打ち殺すつもりで挑んだが、亥助の一撃はかわされ、逆に死ぬほど殴られた。亥助は地べたに這い、鼻血を流しながら男を睨みつけた。

「おまえのその目が気に入らない。」

 醒めた口調で、男はそう言った。

「あのクソ親父が、俺のツラを見る度に云っていたよ。それがどんなものか、自分てめえで見ることはできねえが、──なるほど、こりゃあ気に入らねえな。」

 亥助は怪訝そうに男を見返した。

「おまえは俺にそっくりだ。何だ、云ってる意味が分かんねのか。おまえの親父は俺なんだぜ。嘘だと思うなら、おまえのお袋に訊いてみな。」

 嘘だ。──

 亥助は必死で打ち消そうとした。そんなのは嘘っぱちだ。──そう考える一方で、やはり、と思う気持ちがあった。あの男が父親であるなら、何もかも合点がゆく。

 だから、俺は母から愛されないのだ。──

 こう想うと、足下に真っ黒な大穴が開いたように感じられた。まさに、地獄はこれより始まったのだ。





🌸  六  眠り薬  ─ ねむりぐすり ─



 亥助は、母と妹と、ささやかな暮らしを守りたかった。

 自分たちの幸せのためには、あのロクデナシが邪魔だった。

 しかし、まともな方法では、あの男を排除できない。

 そして脳裏に浮かんだのが、坊んのかおだ。


 亥助は夜中に家を抜け出し、隣町の坊んの屋敷まで歩いて行った。

 長年、庭で遊んでいたから、屋敷に忍び込むすべを心得ていた。


 亥助は、久し振りに坊んと対面した。

 坊んは目を細め、「デカくなったな。」と言った。

 そんな坊んは、変わらず小さなままだ。

 亥助が、「眠り薬を分けて欲しい」と頼むと、坊んは含み笑いを浮かべて、「右端の一番上だ」と応え、薬の整理棚に目線を遣った。

 坊んは、「最近では、三包飲まないと眠れないのだ。」と付け足した。

 それから、ふと思い出した様子で、「一つ、おまえに謝ることがある。」と切り出した。


「──例の、盗難騒ぎだが、あれはお袋の勘違いだった。

 お袋の妹がな、茶会で着る服に合わせ、帯留めやら何やらを借りていったのを忘れていたのさ。

 すまなかったな。」


 亥助は無言だった。

 二年前の盗難騒ぎなど、あの奥方の頭がらはきれいに消えているだろう。

 奥様はおっとりとして、少々けているところがある。

 いつも、「あら、うっかりしていたわ」の一言で、すべてを片付けてしまうのだ。


 裕福に生まれついた人間というのは、人の顔色を窺う必要がないから、他人の痛みに鈍感なのだ。

 人を踏みつけておいて、踏んだことにさえ気づかずにいる。

 使用人たちは聴取を受け、手荷物を調べられて嫌な思いをした。

 その憤懣は、奥様ではなく母へ向けられた。

 今さら謝られたところで、現状は変わらない。


 去ろうとする亥助に、「絵を習う気はないか」と、坊んが問いかけてきた。

 亥助は答えず、「薬」の礼を述べて、部屋を出た。


 家に戻るなり、亥助は酒に眠り薬を仕込んだ。


 翌晩、男は深い眠りについていた。

 いつになく心地よさげな顔をしていた。

 指で頬をつついたが、起きる気配はない。

 亥助は、男の顔に濡らした紙を掛けた。

 しばし、体が痙攣したが、やがてピクリとも動かなくなった。

 亥助は紙を釜戸の中に捨て、寝床に入った。


 翌朝、役人が家に来た。

 眠っている間に、心の蔵の発作でも起きたのだろう、──というのが役人の見立てだ。

 争った形跡もなく、特に不審な点もない。


 男の死因に、役人は疑念を向けなかった。

 けれど、母は亥助を疑っていた。

 過去に、亥助は野草で鶏を殺している。

 宝飾品を盗んだのも、亥助だと考えていた。なぜなら、亥助は金を隠し持っていた。

 それは例の、鍼灸師の女に貰った金なのだが、事情を知らない母は、亥助が宝飾品を売って作った金だと思い込んでいた。


 ──人を殺しておいて、平気な顔でいられるとは、…… 


 亥助は居心地の悪さを感じた。

 自分に向けらる母の目は、忌み嫌うモノを見る目だった。

 それは今まで、ロクデナシに向けられていた目だった。





🌸  七  甘酒  ─ あまざけ ─



 機嫌よく母は甘酒を作っていた。

 ロクデナシがいなくなり、ゴロツキ共も来なくなり、昼間、安心して家に居られるようになった。

 台所に立つ母の姿に、兄妹はにっこりと顔を見合わせた。

 部屋には発酵した米の甘い匂いが漂っている。

 父が生きていた頃、母はよく甘酒を作っていた。

 行商から父が帰る度、母は父の好きな甘酒を用意した。

 それは、幸せな記憶を呼び覚ます特別な匂いだった。


「おかわりをおしよ。

 たくさん作ってあるからね。」


 亥助が空になった椀を差し出すと、母は嬉しそうに注ぎ入れてくれた。

 甘酒を飲みながら、母は子供たちに話した。


 ゴロツキ共が来ない場所へ移ろう。

 豊国へ行って、親子三人で暮らそう。

 明日の朝、夜が明ける前に荷物をまとめ、この土地を離れよう、──と。


 母はまだ、ゴロツキに付き纏われていた。

 ロクデナシは女衒に妹を売る約束で、前金を受け取っていた。

「金が返せないなら、妹を連れて行く」と、ゴロツキに脅されていたのだ。

 そんな金はないし、あの男の借財を肩代わりする筋合いはない。

 だから、逃げることにした。


 人知れず、──逃げる。

 一月ひとつき後、給金を受け取った後、豊国行きの船に乗るのだ。

 それを実行に移すまで、誰にも計画を知られてはならなかった。

 普段通りに振る舞い、母は前日まで、子供たちにも黙っていた。


 『誰かに話してはダメだよ、三人だけの秘密だよ。』


 夜半、亥助は目を覚ました。

 甘酒を飲み過ぎて、気持ちが悪くなったのだ。

 家の外へ走り出て、胃の中のものを吐き出した。

 えた臭いが立ち込め、もう一度吐いた。

 亥助は口を濯いでから、寝床に戻った。

 妹はよく眠っていた。

 ロクデナシがいなくなって、安心して眠れるようになった。

 亥助は小さな背に寄り添った。

 体はフワフワとして温かかった。

 乳臭いような、甘い匂いがした。


 豊国で、親子三人幸せに暮らすんだ。

 大人になったら、俺が母ちゃんと妹を守ってやんだ。


 豊国での幸福な暮らしを想いながら、亥助は再び眠りに就いた。

 そして、しばらくして母は仕事から帰って来た。

 土間で酒を飲んでいて、四半刻ほど経ってから上へあがった。

 母は、子供たちの寝顔を見つめた。

 亥助の額に手を添え、撫でた。


 我が子を、愛しいと思わないはずはない。

 決して、憎んではいない。

 ただ、時折あの男の面影が重なって見え、辛くなって背を向けていた。

 すまないことをしたと悔んでいる。


 これから、人生をやり直すと決めたが、二人の子供を抱え、余所の土地で暮らすことには、やはり不安があった。


 いっそ、死んでしまおうか、──数日、そんな想いに囚われていた。

 悪霊のように取り憑いていた男が死んで、プツリと緊張の糸が切れていた。

 ならば、いっそのこと三人で、──そう考え、甘酒の中に眠り薬を入れた。


 亥助の細い首に、両手を添えた。


「堪忍な。……」


 言うと同時に、母は手に力をこめた。







🌸  八  修羅  ─ しゅら ─



 亥助の頬に、ぽたりと涙が落ちた。

 亥助は目を開いた。


 なぜ、──と、見下ろす母の目は問うていた。


 眠り薬をいれた甘酒を、あんなに沢山飲んでいた。

 目を覚ますことなど、思いもしない。


 母の表情から、亥助は事の次第を理解した。

 母が描いた、余所の土地でやり直す、という夢の中に、俺は入っていないのだ、と。


 ──俺が人殺しで、あのロクデナシの子だからか?


 母は、最初から俺を疑っていた。

 俺があの男を殺した証拠を探し、押入れに隠していた眠り薬を見つけた。

 そして、「亥助がいては、私たちは幸せになれない」という結論に至ったのだ。


 俺がいる限り、母の脳裏から忌まわしい記憶が消えることはない。

 あの男の血を引く俺は、いずれあの男と同様に、自分たちを食い物にする日が来るかもしれない。

 ならば今のうちに、──そう、考えたのだ、……


「許して、……堪忍しておくれ。」


 母は、再び両手に力を籠めた。


 亥助の身の内に、様々な感情が渦巻いた。


 愛されたかった。

 愛して欲しかった。

 そんなに、俺が憎いのか?

 あのロクデナシの子だからか?

 そんなもの、俺のせいではないだろう。

 要らないモノだから、俺を間引マビくのか。

 自分が産んだ子だから、始末をするのも手前の勝手ってコトか。

 そんな事なら、──最初から産まなければいいのに。 


「チクショウ、……」


 亥助は首を締める手を引き剥がそうと、爪を立てた。


「チクショウ!!」


 うおのように体をくねらせ、亥助は必死で母から逃れた。


 外に出ようとしたが、戸は開かなかった。

 母は、台所から包丁を持ち出した。

 逃げる亥助を、包丁を振り回して追いつめる。

 亥助は、母を近寄らせないよう、手当たり次第に物を投げた。

 投げた木箱が除け切れずに当たり、母の額が傷ついた。

 額から血を流し、髪を振り乱して包丁を握るすがたは、幽鬼のようだった。


「亥助えぇーーッ!」


 地の底から湧くような声が上がった。

 亥助はビクリとなり、ひるんだ間に、右腕を斬りつけられた。

 亥助は後退り、転がった木箱に足を捕られて倒れ込んだ。

 そこへ、母は体を乗せてきた。

 顔の上に刃先が翳されていた。

 亥助は包丁を持つ腕を押し留めた。

 徐々に縮まる刃との距離に亥助は怯えた。

 一瞬、母の手の力が弛んだ。

 亥助は、右足で母の腹を蹴り上げた。


 ドスン、と母は土間に転げ落ちた。

 悲鳴を上げた後、静かになった。

 ソロリと近づいて様子を窺い、亥助は目を剥いて退いた。

 そして逃げるように、部屋の隅まで這って行った。


 母の目は宙に向けられていた。

 後頭部を打ち付けて血を流し、首には出刃が突き立っていた。

 荷車に轢かれた蛙のように、ヒクヒクと体が動いている。


 母の首から噴き上がる血が、眼裏を赤黒く染め、亥助の胸を詰まらせた。

 あれではもう助からない、──亥助は膝をギュッと抱いて、更に身を小さくした。


 ──なぜなんだ、……どうしてこんなことに。


 闇のなかで、亥助は為す術もなく震えていた。







🌸  九  無明  ─ むみょう ─



 顔を上げると、眠り続ける妹の姿があった。

 亥助は妹の側に這って行った。

 子猫のように丸まって、静かな寝息を立てている。

 目覚めたら、妹は何と思うだろうか。

 きっと母と同じに、あのロクデナシを見る目で俺を睨み、母殺しの俺を憎むのだろう。

 薬が効いている今のうちなら、──亥助は思い、妹の首に腰紐をひと巻きした。


 『首をくくるには、細い紐の方がいい』


 いつだったか、坊んがそう話していた。

 坊んは体を動かせないから、一人では首を括ることも叶わない。


 喉の真ん中で紐を交差させ、ありったけの力で紐の輪を縮めた。

 もしも途中で目覚めてしまったら、そう考えると恐ろしくて、亥助は目をギュを閉じていた。

 そして紐を握っている間、心の裡で念仏を唱え続けていた。


 肩で息をしながら、亥助は見下ろした。

 既に、妹は息絶えていた。


 幸せな暮らしを夢見ながら、逝けただろうか。

 生きていたとて、これより先は生き地獄。

 兄は親殺しで番所へ引いてゆかれ、我が身はロクデナシの借金のカタに女郎屋へ売られる。

『女郎になれば、美しい着物が着られ、白い米の飯が食える』──女衒は調子の良いことを云うけれど、そんな話は嘘っぱちだ。

 朝から晩まで客を取らされ、子を産めない体にさせられ、病を患い、薄暗い地下の座敷牢で、世を恨みながら死ぬだろう。

 親殺しの俺を恨みながら、死ぬだろう。


 ──これから、どうしよう。


 漠然とした疑問が浮かんだ。

 一晩で、全てを喪った。

 母と妹が逝き、ささやかな日常を失った。

 よその土地へ行き、幸せに暮らすという夢も失った。

 それは母と妹がいてこそ見れる夢だった。

 独りでは、生きている意味もない、──そう考えて、はたと亥助は気づいた。

 こんなことなら、大人しく母に殺されていればよかったのだ。

 そうしていたら、母と妹は幸せに暮らせたのかもしれない。

 母にとって、俺は疫病神だった。

 俺は、産まれてはいけなかったのだ。

 ここに存在している俺自身が、母の苦しみの根源であったのだ。


 今になって、ようやく気づいた。

 母は、俺を決して愛しはしない。

 不義の子の俺を、蛇蝎のように嫌っていた男の息子を、愛せるはずがない。

 全ては虚しい努力だったのだ。


 妹の首を絞めた紐を、亥助は見つめた。


 ──俺は、死んではならない。


 死んでも、母は俺を受け入れてはくれない。俺は、生きねばならない。

 愛する者を殺した俺は、愛する者のいないこの世で、生き続けるのだ。

 誰も愛さず、誰からも愛されず、ひとりきり。


 今なら、坊んの云った言葉の意味が解る。

 この世は地獄のようなもの。

 目に見えない地獄が、そこら中に散らばっている。


 ──生まれたことが罪で、生きることが罰なのだ。


 亥助は部屋に、火をつけた。

 翌日、──亥助は豊国行きの船に乗った。

 ただ一人、闇夜の海に漕ぎいでるような、希望の無い旅立ちだった。











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