【漆】 蟻地獄



  一  蟻地獄  ─ ありじごく ─

  二  偽善  ─ ぎぜん ─

  三  白濁  ─ はくだく ─

  四  供物  ─ くもつ ─

  五  表裏  ─ ひょうり ─

  六  香煙  ─ けむり ─

  七  微笑  ─ びしょう ─

  八  知らぬが仏  ─ しらぬがほとけ ─

  九  恋文  ─ こいぶみ ─







🌸  一  蟻地獄  ─ ありじごく ─



 やしろの床下は、三尺程の高さがある。日吉はそこへ入って遊んでいる。床下はひんやりとしている。地面には所々ところどころり鉢状になった砂の凹みがあった。その一つに、蟻が落ちている。蟻は砂に脚をとられ、足掻きながら底へと落ちてゆく。蟻の体は半分埋まり、脚をバタバタさせている。這いあがろうと足掻けば足掻くほど、体は滑り落ちていく。

「ねえ、亥助。なんでこんな風になるの?」

 日吉の問いかけに、亥助は身を屈めて床下へ入ってきた。

「それは『蟻地獄』だ。その砂の下には虫がいて、落ちてくる虫を引きずり込んで食っちまうのさ。蜘蛛が巣を張るように、こいつは落とし穴を仕掛け、獲物を捕まえるのさ。」

 亥助は穴に指を突っ込んで、底から豆粒ほどの虫をほじくり出した。指に摘まれたダニのような姿の虫は、ジタバタ脚を動かしていた。

「おまえ、蜉蝣かげろうって虫がわかるか。トンボみたいな形で、ゆらゆら飛んでるヤツさ。こいつは蜉蝣になる前の幼虫だ。吹けば飛んじまうようなヤツは、元はこんな姿をしているのさ。あんな弱っちい姿になるくらいなら、穴のなかで虫を食ってる方が良さそうモンだがな。」

 蜉蝣は、二、三週間しか生きていられないのだと、亥助は付け加えた。日吉は少し考えて、「それでも、お空を飛びだいんだろうね。」と呟いた。

 亥助はつまんでいた虫をポイ、と元の巣穴へ捨てた。虫は尻を砂に突っ込んで旋回しながら、砂に沈んでいった。

「お前も空を飛んでみたいか?」

「飛べたらいいな。」

 軒下から見える青空を眺め、日吉は頬笑んだ。

「亥助もそう思うでしょ。お空を飛べたら、風に乗って港にだって一直線だよ。気の向くまま、豊国にだって渡って行けるよ。」

「ガキはお気楽だな、豊国なんて、どんなに遠いか知らないだろう。」

 羽根あっても、籠の鳥。あるじの庇護なしには生きられない弱い雛鳥だ。ましてや、日吉は自ら籠の中に留まっている。籠の戸が空いていたとしても、逃げはしない。きっと、旦那が死ぬまでこの島を出ることはない。……

 よく見ると、日吉の足元には蟻地獄の巣穴が幾つも点在していた。穴に落ちて足掻いている蟻を見ると、なんだかいたたまれない気持ちになって、日吉は右の人差し指を蟻に近づけた。蟻は日吉の指の先にしがみつき、必死によじ登ってきた。平らな地面に手を置くと、掌でウロウロしていた蟻は、これさいわいと遠くへ逃げて行った。

「おまのを『偽善』というのさ。」

 日吉は亥助を見あげた。

「蟻は助かったかもしれないが、穴の底の虫は食いっパグれだ。そいつはおまえみたいに毎日決まった時間に飯が用意されていやしないから、その一度の飯を抜かれると、今度はいつ餌にありつけるかわかからねえ。運が無けりゃ、お空を飛べずに死ぬんだぜ。おまえだって、獣や魚を食べているだろう。蟻は可哀想で、そいつらは可哀想じゃないのか?」







🌸  二  偽善  ─ ぎぜん ─



 幼虫が成虫になるまでには、数多くの虫の命が必要なのだ。人も同じ、日吉がこうして生きているのには、多くの魚や鳥獣の命を犠牲にしている。己を生かすため、生き物の尊い命をいただいている、──そんな当たり前のことを、日吉は気づかずにいた。

「目に見えるものだけを気まぐれに助けて、目に見えないものは知らん顔だ。お前は側についていて、蟻が穴に落ちる度に助けてやるのか?自分は殺した獣の肉を喰っているくせに、他人には『可哀想だから喰うな』というのは、随分と手前勝手な話だよな。そうやって物事を深く見ずに、自分だけが『清く正しい』と慢心し、親切ぶって要らぬ世話を焼くのを『偽善』というのさ。」

 日吉は顔を曇らせた。穴に落ちる全ての蟻を助けることなど、不可能だ。そして、蟻を助けたのは、己が見たくないものを目の前から取り去っただけの行為だということに、思い当たった。

「──どんな具合だ」

 蟻地獄で足掻く虫を見るように、亥助は日吉を眺めていた。

「熱くて、苦しい」

 日吉は裸で、上向きに寝かされていた。亥助の唇と指が、執拗に肌の上を這い回る。熱いうねりが、無数の小さな旋風つむじかぜを起こし、体を巡ってゆく。腋の下や足の付け根の部分から、じわじわと汗が滲んでくる。

「おまえは八つだったな、まだ男には成っていないのだよな。」

 旋風は出口を探し、ぐるぐると彷徨さまよう。だが、蓋が閉じているせいで爆ぜることが叶わない。熱のせいで、日吉の目には涙が滲んでいる。

「怖い、切ない。哀しみが満ちて、溺れてしまう。息が苦しいよ、亥助。」

 もう堪忍して、と日吉は必死に訴える。

 ──怖いことは、しないと言ったのに。

 体の芯が痺れている。亥助が手を止めたので、緊張が解けて、日吉は くたりとなった。

 亥助は袴の紐を解き、片手を突っ込んで陰茎を掴みだした。握り込んで しごくと、それは上向きに反り返った。唾液を掌に吐いて、日吉の太股ふとももの内側に塗り付けた。唾液は煙草のヤニの臭いが少々キツかった。亥助は日吉の脚を交差させた。

「動かずに、脚をしっかり閉じていろ。」

 亥助の陰茎が、太股に割り込んできた。

 肉を割る瞬間、亥助は小さく呻いた。

 ゆっくりと、角度を試すように腰を動かして位置を選ぶと、緩急をつけてきた。

 引き抜く度に日吉の腰は上へ吊られ、亥助の振動に合わせて上下に揺れた。まるで、体は亥助と繋がり合っているようだった。亥助の陰茎が、太腿の間で抜き差しを繰り返しながら、膨らんで熱く硬くなるのを感じた。日吉は言われた通りにキュッと脚を閉じ、静かに亥助を見上げていた。亥助は歯を食いしばり、顔を歪め、苦しんで呻き声をあげた。

 目前の亥助の行為の意味も、苦しみの根源も、日吉には理解できなかった。ただその姿は、溺れかけ、助けを求める者のように、酷く哀れに映っていた。







🌸  三  白濁  ─ はくだく ─



 ううっ、と呻いて、亥助は不意に背中を斬りつけられでもしたかのように上体を揺らした。

 太腿から陰茎が引き抜かれ、日吉の腹の上にゆるい粥のようなものが滴り落ちた。

 食べこぼしのような少量の液体は、生々しい草の臭いを放っていた。


 亥助は大きく息をつきながら、呼吸を整えた。

 陰茎を手ぬぐいで拭くと袴にしまった。

 そして、日吉の腹に垂れたものを見ていた。

 なんとなく、これを日吉の口に入れてみたいと思った。悪意は無い、性的な興奮も無い、ただ、それを日吉の口に納めて欲しいと思ったのだ。

 亥助は白濁を、右の中指で掬い取って、日吉の口に近づけた。

 日吉は、この とろりとしたものを口に含んで欲しいのだと気づいた。亥助の行為に、日吉は全く嫌悪を感じてはいなかった。

 日吉は目で、亥助に問いかけた。

 これを口に含んだら、亥助の苦しみは癒やされるの、寧らかになるの、私を、──好きになってくれるの。──

 雛鳥のように、日吉は無防備に口を開いた。

 亥助の目は和んだ。これまで見たことがない穏やかな表情で、目を眩しげに細めて微笑んでいた。

 これは杯事と同じ。

 俺たちは義兄弟になる。

 血よりも濃い絆で結ばれる。

 俺の精が咀嚼され、日吉の血肉になる。

 俺は日吉の一部で、日吉は俺の一部だ。

 日吉は、指先から漂う臭いを嗅いだ。それは菊花の香りのようでもあり、特に不快な匂いではなかった。しょくして害のある物を、亥助が口に入れさせようとするはすはない、──そう、日吉は信じている。

 小さな舌の先が、あと少しでそれに触れようとしていた。

 その時、スッと襖が開き、弥平が現れた。弥平は目の前の状況をつぶさに観察し、ゆっくりと近寄って来た。

「この、──腐れ外道げどうがッ」

 弥平は、亥助の胸ぐらを掴んで吐き捨てた。そして容赦なく、握りこぶしを二発三発と顔面に振り降ろした。

 日吉は息が止まりそうなくらいに驚いた。弥平の、優しげな白い眉毛の下の細い目は、今はガッと見開かれていた。それは以前、夢に出てきた鬼のお爺様の形相と同じだった。日吉は、声も出ず、身じろぎもできなかった。

 亥助は両手で顔を覆い、呻き声を発しながら床をのたうった。しゃくり上げ、啜り泣くような亥助の声が、次第に大きくなってきた。ク、クク

 泣いているのではない、亥助は笑っていた。弥平を見あげ、大口を開け、ゲラゲラ笑い出した。鼻血で顔を汚し、口の中が切れているらしく、歯が血に染まっていた。

「ああ、腹が痛てぇ。」

 弥平はため息をついて、日吉に向き直った。腹に垂れたモノをサッと拭い取り、着物を掛けた。

「外道か、お笑いだ。どいつもこいつも、善人ヅラしやかって、よ。」

「坊っちゃん、体をお拭きします。」

 弥平は部屋を出るよう、日吉を促した。日吉はチラリと亥助を見た。肩を揺らし、亥助は笑い続けていた。

 日吉は、躊躇ためらいながら部屋をあとにした。







🌸  四  供物  ─ くもつ ─



「お前の体が『触ってくれ』って言うのさ。」

「そんなこと、ない。」

「なあ、目ぇつぶってみな。ここに、つき立ての餅があるとする、──どんな感じだよ?」

「ホカホカでフワフワ。」

「デカい餅の塊を、取り粉を振った室蓋に上げて、女どもが千切って丸めていく、──柔らかそうで、触ってみたいと思うだろ?いっぱいあると、一つ摘まんじまおうって思うだろ。フワフワの餅が『食ってくれ』と云っているだろ。こりゃあ、指を咥えて見ているワケにはいかないよな?」

 日吉は首をかしげた。

「ほら、お前の頬べた、触ってみろよ。餅みたいにスベスベだろ。お前の体はどこもかしこもそう、──ホカホカでフワフワだ。俺には聞こえるぜ、お前の体が『触ってくれ』って言っているのがな。」

「──お餅みたいだから、亥助は私を食べたいの?私を殺して食べてしまうの?亥助にギュッと握られて、私の体は熱くて、苦しくて、切なくて、死んでしまうかと思ったよ。それとも、亥助は自分を殺してしまいたいの。ワザと自分を痛めつけて、苦しめるようなことをして、……溺れかけているように、必死で駆けて来たように、亥助はいつも、苦しげだよ。」

「まったく、お前は間抜けだなぁ。喉に小骨が挟まっちまったから取ってくれ、って言われて、腹を空かせた狼の口に頭を突っ込んでいる、お人好しのマヌケな兎だ。おまえは人の心配をする前に、まずテメエの心配をしなきゃいけないのさ。」

 殴られて、苛立っていた。口止めをされているが知ったことかと、亥助は話を続けた。

「なんで、旦那がおまえたち親子を引き受けたと思う?おまえのお母ちゃん、若くて見栄えのする女だよな。まあ、ちっとも可愛げがないが、気の強い女に鼻面を引き回されたいと思う男もいるさ。だがな、選りにもよって身重の体さ。よその男のタネを孕んだ女を、誰が嫁にしようと考える? そんなご親切な野郎は、世の中どこを探したって見つからないぜ。

 おい、よく聞けよ。旦那はな、腹の子が目当てだったのさ。あの爺サンはな、子供が好きなのさ。まだ男にも女にも成りきっていないお前のようながな。爺サンは残りの余生を、誰の手垢もついていない真っ白な子供を、自分の思い通りに育てながら生きようと決めたのさ。あのろう細工みたいな冷たい手で、子供の体をタップリと可愛いがってやるつもりでいたのさ。こんな島に、わざわざ屋敷をおっ建てたのも、誰にも邪魔をさせないためだ。己の子供なら、どう扱おうが文句は言われない。どうせ望まれて生まれる子ではないのだから、どうなろうと誰も気に留めやしないんだ。おまえはな、爺サンの慰み相手の『お人形さん』なのさ。

 ところがだ。その計画は狂っちまった。爺サンはボケて、己がどこのどいつで、なんのためにここに居るのかわからない始末さ。それで旦那の家族は、『これさいわい』と厄介な爺サンをこの島に閉じ込めたのさ。」







🌸  五  表裏  ─ ひょうり ─



「そいつらは、爺サンがいたら地位どころか命も危ういところだった。血を分けた、親、兄弟、我が子にさえ容赦ない、恐ろしいジジイなのさ。それが今じゃ、己では何一つできない、赤子みたいなもの。こっちはイイ迷惑だが、おまえにとってはさいわいだったな。」

「……私は、要らない子なの?」

「そうだな。おまえの母ちゃんは、おまえのせいでこんな島に閉じ込められた。父ちゃんは、おまえが産まれた事さえ知らない。爺ちゃんは、娘がドコの馬の骨とも知らない芸人の子を孕んじまったんで、大慌て娘を爺サンに嫁がせたくらいだ、──おまえなんて、飼い猫の仔ほどにも思っちゃいまいよ。」

 日吉の目から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。

「あーあ、面倒くせえ。ガキは直ぐに泣きやがる。いいさ、泣いてろ、泣いてろ。」

 亥助は、すすり泣く日吉を無視して、岩の上に座り込んだ。そこからは村が見渡せ、遠く海の向こうに島が見えた。磐居いわい島、──海神が御居おわす島だ。島には二百余人の巫女が暮らしている。

 ふところから煙管キセルを取り出して、亥助は一服しはじめた。煙りを体に巡らせて、上向きにゆっくりと吐き出す。

 ──今から島に乗り込んで、若いのから年増としままで、一人残らずコマしてやる。二百余人の女どもが、同時に俺の子を孕んだら、さぞ愉快だろう。

「……お爺様は、悪い人なの?」

 後ろで、小さく頼りない声が問うた。亥助は振り向かず、遠くを見遣ったまま独り言のように言った。

「人殺しだ。それも、一人二人なんて生易しいモンじゃない。」

 亥助は首を少しだけ動かして、日吉の様子を盗み見た。日吉は悲しげに項垂うなだれ、なにやら思案している。

「そうやってメソメソしていると、悪い鬼が寄って来るぜ。鬼はな、おまえみたいな弱虫に取り憑いて、内側から魂を喰っちまうのさ。

 なあ、親がどうこうなんて、大人になってみりゃ案外つまんねぇことさ。親だナンだと偉そうにしてやがるが、食うに困ればお貴族サマだって娘を売るんだ。親ってのは、タチが悪い。子を可愛いがるのも捨てるのも、手前の勝手だ。ダレもカレも、腹ん中はテメエのことばっかりさ。誰かに望まれなけりゃ生きていられねぇなんて、馬鹿な考えはヤめな。世の中、蛆虫だらけさ。

 何処もかしこも、糞くせえ蛆虫が、威張り(尿いばり)クサってフン(糞)ぞり返ってやがる。神様だって、鼻を摘まんで見て見ぬフリだ。だから、おまえも平気な顔をして、生きてりゃイイのさ。

 誰になにを言われても、『俺の命は俺のものだ』と胸を張れ。悪い鬼に憑かれないように、いつでも笑ってろ。男はな、泣きたいときにも笑うのさ。」

 亥助の目は流れていく雲を追っていた。

 煙管を口に持っていくと、煙の輪を吐き出して、島影に重ねた。楕円の煙は風に乗り、フワフワと日吉の方へ流れて行った。

 涙を溜めた目が、煙の輪を追った。雲っていた顔がふっと明るんだ。期待の眼差しを、日吉は亥助へ向けていた。







🌸  六  香煙  ─ けむり ─



 日吉の口は、わあ、と形作られた。差し指をトンボを止まらせるみたいにピンと立て、煙の輪に潜らせた。

「ねえ、どうやるの?」

 日吉が身を乗り出して訊くと、亥助は、こちらに来い、とあごをしゃくった。

 亥助は日吉に煙管きせるを渡し、持ち方を教え、やってみな、と片目を細めた。

 日吉は口を尖らせて吸い口に触れ、息を吹き込んだ。

「吹くんじゃない、吸うんだよ。それも、ゆっくりとな。ゆっくり吸わねえと、せちまうぜ。」

 日吉は言われた通りに、恐る恐る、ゆっくりと吸ってみた。けれど、やはり噎せて、ケホケホと咳きこんだ。鼻から煙が抜け、苦みがジワリと目にみ、涙が出てきた。

「ったく、マヌケだな。吸ったら吐くんだ、フウッてな。上手く吸えるようになったら、の作り方を教えてやるぜ。」

 日吉は煙の輪を作ってみたくて、神妙な顔つきで煙草を吸った。長いこと吸い続けていたら、頭がクラクラしてきた。

「もうヤめとけ。」

 呆れ顔で亥助は言った。日吉から煙管を取り上げ、管の中の灰を落とすと、懐に納めて立ちあがった。

「帰るぜ。ほら急げ、ウスノロ。」

 亥助が歩き出すと、日吉は少しよろめきながら、後を追いかけて来た。

 日吉は亥助の直ぐ後ろにくっ付いて歩きながら、亥助の手の平に、揃えた指先をそっと差し入れた。

 ピシリ、と払われるかも、……とビクビクしたけれど、亥助は日吉の手をギュッと握った。

 温かな気持ちが日吉の胸に広がった。

 繋いだ手から、亥助の温もりが伝わった。

 亥助はイジワルだけど、決して悪い男ではないと、日吉は知っている。

 背を向けてスタスタと先を歩きながら、その実、うしろの日吉を気遣って、離れないように歩調を合わせてくれているのを、知っている。

 ──笑ってやがる。

 視線を向けると、日吉は亥助を見あげ、意味ありげに微笑した。亥助は、日吉の手を引きながら、こいつもデカくなったもんだよな、と思った。

 三年だ。

 亥助が島に呼ばれ、屋敷で働き始めてから既に三年経つ。

 来たばかりの頃は、日吉も五歳いつつで、物分かりがよいようにみえても、やはり子供だった。

 子供はちょっと目を離した隙に、なんだかつまらないものに目を惹かれ、何処かへ行ってしまう。

 だから、危なそうな場所では、必ず手を繋いで歩いた。


 亥助は記憶にある小さな手と、握っている手の感触とを比べた。

 横に並んだ日吉の背丈は、小柄な女くらいになっていた。

 三年の間に、少しずつ日吉は成長している。


 ──三年の間、俺はなにをしただろう。


 過ぎた日々に、亥助は想いを馳せた。

 なにもしていない。

 盗みも、火付けも、人殺しも、やってはいない。

 背筋が凍る思いも、血の沸き立つ思いも、味わうことがなかった。

 悪事を犯さず、単調な日常をひたすらに生きた。

 それは真っ当な人間の、ごく普通の暮らしだった。

 欲しい、──と望んでいた、心やすらかな日々の、はずだった。







🌸  七  微笑  ─ びしょう ─



 近頃、坊んを思い出す。

 坊んの歪んだ笑い顔が、脳裏をよぎる。

 坊んは蛹にはならないし、蝶にもならない。揚羽蝶とも夫婦めおとにならない。

 揚羽蝶は死んだ。

 坊んが殺したのだ。


 坊んは屋敷の近くに家を借り、女を住まわせていた。

 女に仕事を辞めさせ、代わりに月々幾らかの金を渡していた。

 そのうえ、女の弟の、塾の学費と寮費の工面もしてやっていた。


 坊んは女を嫁にしたいと願い、その旨を両親へ伝えた。

 親としては、女を囲うのは結構だが、怪しげな商売をしている女を、嫁に迎えることには反対だった。


 父親は人を雇い、女の素性を調べさせた。

 女の化けの皮を剥いで、坊んの目を覚まさせようと考えたのだ。

 しかし、これが以外にも、女は身元の確かな武家の娘だった。

 弟の方も、学業優秀で周囲の評判も良好だった。


 以前、坊んと祝言を挙げるはずだった女が、不具者へ嫁ぐことを悲観し、自殺を図った経緯があり、両親は息子に負い目を感じていた。


 考えたすえに、両親は婚姻を認めた。

 それが、これまで我儘わがままを言ったことのない息子の、唯一の望みだったからだ。


「亥助、『木蓮屋敷』へ、棚の上の箱を届けてくれ。」


 木蓮屋敷、──とは、坊んが借りてやっている揚羽蝶の家のことで、箱の中身は化粧品だ。

 坊んは、肌が弱い女のために、朱国から高価な化粧品を取り寄せてやっていた。

 荷が着いたらすぐに届けるようにと、女から念を押されている。

 遅れると女の機嫌が悪くなる、と言って坊んが急かすので、亥助は家に向かった。


「すみません、──桔梗屋の使いの者です。」


 玄関で呼んでも出ないので、亥助は裏へ回った。

 縁側から再び声をかけると、障子が開き、女が顔を覗かせた。

 正午を過ぎるているのに、女は夜着のままだった。

 女の後ろに目を遣ると、寝床に横たわる男の姿が見えた。


 女はサッと戸を閉め、そそくさとこちらへ寄って来た。

 亥助が包みを渡すと、「待っていたのよ」と女は大げさに喜び、「ご苦労さま、妹に、飴でも買っておやり」と掌に銭を乗せた。


 貰えない、と、戸惑う亥助の手を、女は握り込んだ。

 それから、身を屈めて間近に顔を寄せ、亥助の目を覗き込んできた。


 女は微笑した、──口の両端が弓のようにキュッと引ひかれ、唇の朱が、透き通るような白い肌に際立った。

 それは なにかか含みのある、怖いような笑いだった。


 帰ってから、亥助は坊んに、女がとても喜んでいたことを伝えた。

 それから、「なにか変わった事があったか」と、坊んに訊かれたので、女の弟が来ていたことを正直に話した。


 女は銭をくれたあと、朱色の唇の真ん中に人差し指を立て、「内緒」という仕草をした。だから、亥助は駄賃を貰ったことは黙っていた。


 坊んは亥助を見ていた。

 隠し事をしている後ろめたさから、亥助は目をそらした。


「おまえ、駄賃を貰ったんだろ。」


 亥助はピクンとなった。


「いいさ。

 駄賃を貰ったくらいで怒りやしない。

 今の話、俺は聞かなかったことにする。

 それと今日、『木蓮屋敷』へ行ったことは、誰にも喋るんじゃないぞ、──わかったな。」







🌸  八  知らぬが仏  ─ しらぬがほとけ ─



「母ちゃんにも、話すんじゃないぞ。」


 坊んはそう、固く口止めした。

 亥助には、自分が見聞きしたことを秘密にしておく理由がわからなかった。


 なにか問いたげな亥助を横目に、坊んは、「亥助、世の中には『知らなければ幸せだった』ってことがあるのさ。」と云った。


 亥助は、謎かけのような坊んの言葉と、口止めの理由を考え続けていた。

 そして、寝る前になってから、ふと、坊んは女の弟が嫌いなのかもしれない、──と思いついた。

「寝所で、弟が寝ていた」と話すと、坊んは顔色を変えた。

 表向き、坊んは誰にでも良い顔をする。

 だが、亥助と二人きりになると、誰かれとなく小さなことをあげつらっては罵っていた。

 坊んが両親以外で悪口を云わないのは、俳句の師と、女と、女の弟くらいだ。

 好きな女の弟だから、悪口を我慢しているのだろうか、──そう考えたが、嫌う理由まではわからない。


 坊んが陽気になったのは、女が治療に来はじめてからだった。

 坊んは屋敷の外へ出、芝居や遊山を楽しむようになった。

 そのうち、坊んはもう少し遠出をしたいと思い、泊まりがけで、紅葉の美しい湯治場へ行く計画を立てた。

 当日、女と弟が迎えに来ると、坊んは機嫌よく出て行った。


 ところが、何故だか三人は予定より早く戻って来た。

 亥助は、旅の土産話を聴くのを楽しみにしていたのに、坊んはムッツリとして口を利こうとしなかった。


 女は、早々に旅行を切り上げた理由をこう話した。

「初日に酷い船酔いをなさって、気分を削がれておしまいになったのです。」と。


 しかし、これは坊んの体面を繕う嘘だった。亥助は女中たちが、「坊ちゃんは、旅の疲れからか、宿泊先で寝小便をしてしまったらしい」と声をひそめて話すのを聴いた。


 坊んの不機嫌のわけを理解したので、亥助は一切、旅のことには触れなかった。


 しばらくして、坊んと女の祝言の日取りが決まった。

 嫁入りが近づくと、女は毎日屋敷に通って来た。

 けれど、昨日は姿を現さなかった。

 そして今日も、昼を過ぎるのに連絡がない。


 坊んは女の身を案じ、木蓮屋敷に人をった。


 そうして。 ──

 使いの者が見たものは、折り重なって息絶えた、姉弟の亡骸だった。

 弟はかんざしで首の急所を刺されており、姉は同じ簪で自らの胸を刺していた。


 のちの調べで、女は「富一」という男に強請ゆすられていたことが判明した。

 富一は、坊んの父親が女の身元調査を依頼した男だった。

 この男、一年前から行方知れずで、旅にでも出たものと思われていた。

 舞い戻った富一は、女の弟の素行を調べ上げ、文を送りつけていた。

 弟は学問をなおざりに遊び惚け、博打で多額の借金を作っていた。

 最近では、ヤクザ者の女房に手を出し、恐喝されていたらしい。

 弟は、姉に金の工面をさせていた。


 事件はこう推測された。

 その夜、──姉は金の無心むしんに来た弟と口論になり、発作的に弟を刺すという事態が起こった。


 ──坊んが、殺したんだ。

 

 姉弟の死の一報を聞き、亥助は即座にそう思った。







🌸  九  恋文  ─ こいぶみ ─



 亥助は幾度か、坊んの遣いで木蓮屋敷に「恋文」を届けていた。

 だいたい、女は昼過ぎまで眠っているので、亥助は早朝こっそりと、文を玄関の戸に挟んでおいた。

 この時も、「姿を見られないように」と坊んに言い含められていた。


 坊んには数人の文通相手がいた。

 それは、隣町に住む俳句の師と、俳句を通して知り合った数人の仲間だ。

 手足が利かない代わりに坊んは頭がよく回り、文章を考えるのが得意だった。


 だから、エエ格好カッコしいの坊んは、女にイイところを見せたくて、恋文だなんて気取ったマネをしているんだ、──そう、亥助は思っていた。


 思い返すと、府に落ちないことは幾らでもあった。


 亥助は坊んから、恋文を入れた封筒に書名を頼まれた。

 坊んは、「それは俺の雅号だ」と言った。

 亥助は指示された通り、朱色の塗料を中指に付け「富一」と書いた。


 身震いがした。

 亥助は恐ろしくなった。

 いつも、知らないうちに悪事の片棒を担がされている。

 鶏の時だって、そうだ。

 坊んは、「草の葉の形が似ていたから、見間違えたのだ」と言い訳をしたけれど、あれはすべて、坊んの計画通りだったんだ。


 ──坊んの側に居たら、おいらは悪人にさせられる。

 閻魔様に、地獄へ落とされてしまう。


 亥助は押し入れに立て籠って、母が宥めても叱っても、出て来ようとしなかった。


 それから、間の悪いことに屋敷で盗難騒動が起きた。

 亥助が屋敷に来なくなったのと同時に、奥様の衣装棚から、数点の宝飾品が消えているのが発覚した。

 家中を隈無く探したが、見つからない。

 使用人と、屋敷に出入りのあるすべての者が聴取を受けた。


 亥助にも、話を訊きたいから屋敷に来るように、と通達があった。

 母は、「このままではお前が盗んだ事にされてしまうんだよ」と、亥助を説得した。

 だが、亥助は、「盗みなどしない、屋敷へは行きたくない」の一点張りで、用便以外では押し入れを出ようとしなかった。


 こうなれば当然、皆が、亥助が盗んだものと思っている。

 亥助には、「鶏殺し」の前科があるのだ。

 母は、屋敷で白い目を向けられていた。


「きよ、」と、坊んは穏やかに言った。


「私は、亥助が盗んだとは思っていない。

 亥助が盗みをするような子ではないと信じている。

 だが、万が一、亥助がいるのであれば、私に言って欲しい。

 品物を返し、『すまなかった』と詫びてくれさえしたら、私も許してくれるよう、母に頼む。


 それとな、これは別の話だが、先生が、亥助に絵を習わせてみてはどうかと仰っていた。亥助の絵を見て、なにか感じるものがお有りだったようだ。

 絵を習う気があるなら、私が費用の面倒をみるから、亥助に訊いてみてはくれないか。」


 この上ない、申し出だった。

 母は坊んの言葉を亥助に伝え、坊んに会うよう勧めた。


「おまえは絵を描くのが好きだろ、ありがたい話じゃないかい。」


 絵のことを持ち出して、母は説得を続けたが、亥助の心は、遂に動かなかった。











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