【陸】 愛撫
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一 愛撫
二 坊ん
三 賽の河原
四 蛹
五 卵
六 鶏
七 薬草
八 執成し
九 許嫁
🌸 一 愛撫
「お前の体は甘い匂いがする。
母ちゃんの乳の匂いだ。
だから舐めたり
それで舐めたら、匂いと同じに甘い味がするのさ。」
「甘いの。」
「餅みたいに甘いのさ。
じっくり噛んでいたら甘さが滲み出て、日だまりみたいに暖かくて、ふわっとして、少しだけ幸せな気持ちになるのさ。」
「カジられるのは痛くて嫌だなぁ。」
日吉は首を傾げた。
「でも、亥助が幸せなら、嬉しい。
少しだけならカジっていいよ、少しだよ。」
亥助は、日吉の夜着の襟元を押し広げて、背中が半分見える位までずらした。
亥助は日吉の小さな背中に、愛おしげに頬や額をこすりつけ、体の匂いを嗅いでいた。
日吉はくすぐったくて、肩をすくめ、体をもぞもぞ動かした。
唇で柔らかい肉を銜え、舌先でペロリと舐めてみる。
甘い匂いでクラクラする。
舌先だけでなく、舌の半ばまでくっつけて味わうと、何とも寧らかな気持が広がった。
日吉は生まれたての子犬みたいにペロペロ舐められて、くすぐったくて、何だか切ない気持ちになった。
この寧らかな感触は、とても愛おしく、悲しく、日吉は泣きだしたいような気持ちだった。
亥助が脇腹の柔らかい肉に噛みついた。
はあ、と日吉の口から吐息が漏れた。
「怖い。」
と日吉は云った。
「痛かったか。」
亥助が聞くと、日吉は首を横に振った。
「悲しくなったんだ。
悲しみが体の中を走り抜けた。
分からないけど、切なくなったよ。」
「そうか、切ないか。」
亥助は日吉を寝かせた。
そこは菊紋と呼ばれる部分だが、そこには放射状の線さえなく、ギュッと内側へ閉じて、指の一本も入りそうになかった。
肌色の陰茎は、剥いた茗荷のようにツルンとしていた。
亥はそれを指でつまんでみた。
ふにゃふにゃとしていたモノは、指で捏ねると、芯が通ったように少しだけ固くなった。
ふと、これを含んでみようか、と亥助は考えた。
「やめてよ、亥助、汚いよ。」
亥助の歯が当たった。
日吉はそこを齧られてしまうのではないかと思い、怖かった。
「汚くなんかないさ、お前はさっき風呂に入ったばかりだろ。」
亥助は再び口に含んだ。
口が窄まり、柔らかい肉に締め付けられた。千切られてしまったらどうしよう、と日吉は気味が悪かった。
「お願いだから離してよ。
オシッコが出ちゃいそうだよぉ。」
下半身を晒されいて、寒さで日吉の太腿は粟立っていた。
亥助はポツポツと粟立った肌に唇をつけた。狂おしく唇を押し付け、舌を滑らせてきた。
そうすると高い所から飛び降りたみたいに、日吉の体に、ザワッ、と震えが来た。
体の中の空洞を、冷たくて強い風が吹き上げるような気がした。
「怖い、怖いよ、亥助。」
日吉の両手は亥助の頭を強く掴んでいた。
亥助は顔を上げて、日吉と目を合わせた。
怯え、黒々とした大きな目に涙を溜めていた。
「ごめん、ごめんな、怖いことはもうしない。」
🌸 二 坊ん
亥助は日吉を思わず抱きしめていた。
服の胸に日吉の涙が染み込んできた。
「ねえ、亥助、お歌を歌って。」
鼻を啜り上げ、か細い声で日吉は云った。
山歩きの途中、亥介は旦那様の車椅子を押しながら、我知らず歌を口ずさんでいた。
繰り返すうち、日吉が亥助の歌に声を合わせてきた。
亥助は日吉に歌詞を伝えるように、ゆっくりと歌った。──
亥助は、日吉の求めに応じ、小声で歌い始めた。
歌いながら、ある光景を脳裏に描いていた。
ある夜、川縁を歩いていると、河原の方から歌が聞こえてきた。
歌っていたのは、焚き火で暖を取る夜鷹だった。
俺は近づいて、そのお袋みたいに年増の女を相手に選んだ。
大きな乳は
荒々しく腰を突き入れると、毛深い太い脚を背に絡ませ、女は獣みたいな声を上げた。
汗ばんだ胸の谷に顔を埋めて、俺は「おっ
女は一瞬、嫌そうに眉根を寄せたが、直ぐにからかうような顔になり、「おお、よしよし」と俺の頭を撫でてきた。
夜鷹が歌っていた歌は、母が妹を寝かしつける時に歌っていた子守唄だった。
目を閉じると
過去は葬った。
すべて捨て去った。
けれど、こうして日吉の側にいて、絵を描いたり歌を歌ったりしてると、あの頃の景色が否応なしに蘇る。
小さな日吉の体を抱いていると、温かく切ない気持ちが滲んでくる。
この柔らかな心地は、亥助を酷く不安にさせた。
段々と、自分が弱くなってゆくように感じた。
あの頃の、無知で無力なガキに戻ってしまうようで、怖かったのだ。
『……きよ、きよ。』
夢のなかで、亥助は
洗濯をしていた母は、前掛けで手を
母は座敷へ上がり、部屋の隅に置かれた尿瓶で、
坊んは、首から下が殆ど動かない状態で年中寝たきりだった。
坊んは
当初、俺は坊んと顔を合わさないようにしていた。
目が合うと視線を逸らし、何かを訊かれても顔を伏せたまま答えた。
だが、坊んの方はそんな俺の態度を気にした風もなく、笑いの形に顔を歪め、何度も話しかけてきた。
坊んは、庭で遊んでいる俺を呼び寄せて用を云いつけた。
坊んは人を使うのが上手だった。
始めは誰にでも出来る単純な事を頼み、様子を見ながら段々と難しい条件を足してくるのだった。
例えば、棚の本を見せてくれ、から、屋敷の者に何かを伝えたり、所望の品を持ち帰る、それから、外へ行って届け物をする、買い物を頼む、といった具合だ。
🌸 三 賽の河原
いつの間にか、俺は坊んの用をこなすのが楽しくなっていた。
坊んの上手いトコは、用を片付けたからといって安易に駄賃をくれたりせず、巧みに言葉で褒め立てて、俺をやる気にさせたところだ。
坊んは庭にいる俺を呼んだ。
「小便をしたいから手伝ってくれ」と云うのだ。
俺は人を呼んでくると云った。
坊んは人が来るまで待てないと云った。
「なあ亥助、お前も寝小便をすることがあるだろ、小便を漏らすと嫌な気分だろう。
あれは惨めだよなぁ、着物は濡れて冷たいし、嫌な臭いだ。
お前は気持ちがわかるだろ。
それにな、着替えさせるのも、布団を干すのも、洗濯をするのも誰がやるんだ?
考えてみろ、みんな、おまえの母ちゃんの仕事なんだぞ。
母ちゃんの仕事を増やしたくはないだろ?
わかったら、早くこっちへ来い。」
なるほどそうだ、と俺は妙に納得させられた。
本当はそんな事したくもなかったが、母ちゃんのためだと思ったら、やらなくてはいけない気がした。
俺は、坊んが好きではなかったが、母ちゃんの負担を減らしたくて、坊んの頼みを聞くために、なるべく坊んの部屋の側にいるようにしていた。
俺は坊んを好きにはなれないが、側にいて良いこともあった。
坊んは棚に並んでいる本を勝手に見てもいいと言ってくれた。
そのころ、俺はまったく字が読めなかったから、本に描いてある絵を眺めていた。
草花が描かれてあるもの、動物、昆虫、建築物、見ているだけで十分に楽しめた。
なかでも、俺が夢中になって見ていたのは、極楽と地獄が描かれている本だった。
それを、「こちらに持って来い」と坊んが言った。
坊んは絵を見ながら、俺に色々と説明してくれた。
「ここは賽の河原だ。
寄り集まっているのは、
皆、石を積んでいるが、これは石積みをして遊んでいるのではない。
石の塔を積み上げられたら、再びこの世に転生できると言われ、鬼に脅されながら泣く泣くやっているんだ。
『転生』というのはな、生まれ変わる、という意味だ。
けれど、石の塔を完成させるのはそう簡単なことではない。
石が積み上がりそうになると鬼がやって来て、金棒の先でチョンと突いて塔を壊すんだ。
また、最初からさ。
結果、童は完成しない石の塔を、延々と作り続けなくてはならない。
『一重つんでは父のため、二重つんでは母のため』
そう念じながら、空しい石積みを続けるのさ。
人が地獄へ行くのは、この世の罪を悔い改めるためだ。
けれど、こうして苦行を味わい、戒心してこの世に生まれ変ったとしても、この世は決して極楽ではない。
『生き地獄』という言葉があるように、目には見えない地獄はそこら中に散らばっているんだ。
本当は、この世も地獄のようなものなのさ。」
──この世も地獄のようなもの。
坊んの言葉は、亥助には理解できなかった。
地獄も極楽も、亥助の身近には存在しないものだった。
🌸 四 蛹
亥助が絵を描くのが好きだと知ると、坊んは紙と筆を貸してくれた。
亥助は虫の絵を見ながら、すらすらと筆を走らせる。
「おまえは、絵は上手いくせに、字の方は丸っきり下手クソだな。」
仕上がったものを眺め、坊んが不思議そうに云った。
坊んは、趣味で俳句を作っているので、浮かんだ言葉を残しておくため、亥助に字を覚えさせていた。
いづれは代筆をさせようとも考え、紙と筆を使う条件で、毎日 亥助に習字をさせていた。
一方、亥助は習字をしながら、毎日 坊んを観察していた。
──坊んは、いつ
それが、亥助にとって今 一番の関心事だ。
本に描かれてある芋虫を見て、亥助はその姿を、「まるで、坊んのようだ」と呟いたのだ。
子供が何気なく口にしたことで、少しも悪気はなかったけれど、坊んが気分を悪くしたのは明らかだった。
坊んは皮肉げに顔を歪め、それから亥助に秘密を打ち明けた。
「そうさ、今の俺は芋虫だ。
だがな、いずれは蛹なり、生まれ変わる。
蛹の中で体をドロドロにして、一から作り変えるのさ。
殻を破って出てきたら、蝶のように美しい姿に変わっている。
人の手を借りず、立ち、歩き、優雅に舞い踊ることもできるようになるのさ。」
坊んは怪しく頬笑んだ。
近頃、坊んに変化があった。
坊んはなんだか浮かれていた。
それは、ある女のせいだった。
亥助は庭から廊下を歩てゆく女の姿を見た。黒地に乱菊の図柄の衣装を着、長い黒髪を垂らしたその姿は、本に載っている揚羽蝶のようだった。
女が来る日が近づくと、坊んは一段と機嫌が良くなった。
身嗜みにうるさくなり、亥助に歯を念入りに磨かせた。
あの女は鍼灸師だ、と坊んは言ったが、じつは、金を貰って不具者の相手をしている売女だった。
女は、「坊んの嫁になってもよい」と言った。
『こんな商売をしているのは親兄弟のため、家族の面倒をみてくれるのなら、妻となり、あなたの子を産んでもよい。』
女は坊んに、自分の弟だという若い男を紹介した。
男は坊んを「兄さん」と呼んだ。
二人は坊んを屋敷の外へ連れ出し、芝居見物をしたり、遊山をしたりした。
帰ると、坊んは上機嫌で、亥助に見聞きしたことを話した。
けれど、ある時から坊んの態度は一変した。
ひと言も語らなくなった。
坊んは、女への復讐を考えていた。
自分に恥をかかせた女を、殺したいほど憎んでいた。
女に復讐するには、己の手足となる人間が必要だった。
金を積めば殺しを請け負う者はいるだろうが、怪しげな者を経由すれば後々に面倒が生じる。
──ちょうどいい者がいるではないか。
坊んの視線の先には亥助がいた。
「亥助、こっちへ来てくれ。」
亥助は庭でしゃがみ込んでいた。
雨上がりで濡れた紫陽花の葉の上に、子蛙がいた。
蛙に成り立てのようで、ちいさくて鮮やかな若葉色をしていた。
亥助はそっと手をのばした。
滑らかで濡れた背中に、もう少しで亥助の指が触れそうだった。
「亥助!
早く来いと言っているだろ!」
🌸 五 卵
亥介はビクンとなった。
坊んが大きな声を出すものだから、蛙は跳ね飛び、何処へ行ったかわからなくなった。
ハア、と溜め息をついて、仕方なしに亥助は立ちあがり、縁側から顔を覗かせた。
「なんですか?」
──ああ、糞か。
妙にモジモジとした坊んの様子から、用便だと察しがついた。
亥介は縁から部屋へあがり、部屋の隅に置いてある平べったい壺を、坊んの尻の下にすけてやった。
「もう、いいですか?」
壺をのけて、亥助は坊んの尻を拭いてやる。
坊んの着物を整え、布団を掛け、壺を抱えて厠へ中身を捨てに行く。
置いたままにしておくと、臭いが部屋に籠もるので、すぐに捨てに行くようにと言われていた。
坊んは、「終わったら、すぐにもどって来るんだぞ」と念を押した。
亥助は壺を抱えてもどり、元の場所へ置いた。
壺の中には匂い消しの草を入れ、蓋をしてある。
「なあ亥助、卵を食いたいか?」
唐突に、そんなことを訊いてきた。
それで亥助は、まえに坊んから卵入りの雑炊を分けて貰ったことを思い出した。
「食欲がないから、食べてくれ」と坊んに頼まれ、亥助は粥を平らげた。
真っ白な米粥に、溶き入れた卵はふわふわと甘く、美味しかったことを、鮮明に覚えている。
食べたい、と亥助は答えた。
「亥助、棚から本を取ってくれ。
野草の絵が描いてある本だ、棚の左端の方にあるだろう、──ああそれだ、開いてみろ。」
ペラペラと捲っていくと、そこでとめろと声がかかった。
「その草を、山に行って採って来てくれ。」
「ダメだよ。
勝手に屋敷の外へ出るなと、母ちゃんから注意されてるし、ひとりで山へなんて、行けないよ。」
「亥助、あっちの塀の向こうに鳥小屋があるだろ。
卵はそこの鶏が産んでいるんだが、近頃の暑さで鶏も参っていて、卵を産む数が減っているんだ。
その野草にはな、滋養をつける効能があるのさ。
人間に効くものは鳥にだって効く。
鶏が元気になって卵をたくさん産むようになったら、おまえにも分けてやれる。
おまえの手柄だからな。
たくさんあったら、ひとつやふたつ分けてやっても構わないさ。
俺の為に飼っている鶏だ、俺がいいと言っているんだから問題はない。」
亥介は、迷っているようすだった。
「妹に、卵の入った粥を食べさせてやりたくはないか?
母ちゃんだって喜ぶだろうさ。」
そう言われると、母の喜ぶ顔が見たいし、妹にあの美味しい卵の粥を食べさせてやりたいと思うのだった。
亥助は、裏山に入り、薬草を採って来た。
「それを餌に混ぜるんだ。
誰にも気づかれないようにしろよ。」
🌸 六 鶏
亥助は言われるままに、草を与えた。
鶏は日に日に弱っていくように見えた。
心配になって坊んに訊ねたら、「体のなかで薬が効き始めているときには、一時的に弱っているように見えるのだ」と返された。
亥助は不安で堪らなかった。
三日経っても、一向に、鶏の症状が回復する気配はなかった。
そして翌朝、小屋へ行くと十羽いた鶏はすべて死んでいた。
亥助は、恐ろしくなって逃げ出した。
野草が生えている場所まで駆けて行った。
亥助は鶏に与えたのと同じ草を
苦い草の味を長く口に留めないように、荒く噛み砕くと無理やりに飲んだ。
──これでオイラは死ぬかも知れない。
亥助は思い、心細くなった。
時が経つにつれ、漠然とした死の気配が亥助を不安にさせた。
罪を償うつもりでやったことだけれど、亥助は後悔していた。
目に涙が溢れ、色々な想いが心に浮かんできた。
──父ちゃんが生きていたころはよかった。
あの頃が一番幸せだった。
父ちゃんは俺を可愛いがってくれた。
乾物の行商で、何日も家に帰って来ない日が続いたけれど、帰ると必ず土産をくれた。
妹が生まれるまでは、母ちゃんも俺に優しかった。
亥助の父は、妹が生まれる
山道で足を滑らせ、谷底に落ちていた。
産後間もなく、母は乳飲み子を抱えて勤めに出ることになった。
母は赤子を背負って働き、諸事に追われ、疲れ、苛立っていた。
亥助はこの頃から、「母は妹ばかりを可愛がる、自分は邪険に扱われている」と感じ始めていたのだ。
──大変な事をしてしまった。
こんな事になって、また母に
──腹が痛くなってきた、……
もうじきオイラは死ぬのだろうか、……母ちゃん、少しは悲しんでくれるだろうか。
腹が苦しくて、冷や汗が出てきた。
亥助は顔を歪め、地面に転がった。
母ちゃん、母ちゃん。
心のなかで何度も呼びかけ、救いを求めた。
──死にたく、ない。
亥助は心の底から、そう思った。
🌸 七 薬草
鶏がすべて死んでいる、と、屋敷では騒ぎが起こっていた。
女中のなかに、早朝に小屋の近くにいる亥助を見た、と証言する者があった。
ならば、なにか知っているだろうと屋敷中を探してみたのだが、亥助は何処にもいなかった。
亥助の母は旦那様に呼ばれ、坊んの部屋へ駆けつけた。
寝耳に水の話だ。
母は息子の不審な様子に、まったく気づいていなかった。
坊んは悲しげな顔をし、すまなそうに言った。
「たぶん、亥助がこんなことをしたのは私のせいなのです。
私が亥助に、『いつも世話になっているから、お前に何か礼をしたいんだが、欲しい物があるか』と訊いたのです。
すると、亥助は『卵が欲しい』と言うのです。
けれど、ここ最近、鶏は卵を産まなくなっていました。
連日の暑さに、弱っていたのです。
だから、『すまないが、分けてやるのは難しい』と、伝えました。
言葉なく、亥助は項垂れました。
あまりに
亥助は、『本当に、くれるんですね』と目を輝かせ、私に念をおしました。
涼しくなるまで、……待っていられなかったのだと思います。
鶏を回復させようと、滋養をつけさせるために、薬草を混ぜたのでしょう。……
亥助は優しい子で、母や妹に卵を食べさせてやりたいとの一心だったのです。
子供が、誤りと知らすにやったことで、決して悪意は無いのですから、どうぞ許してやってください。」
🌸 八 執成し
野草は、薬ともなれば毒ともなる。
その野草は便通を良くする効能があり、決して人を殺せるほどの毒など持ちはしないのだが、量を誤るとやはり害が出る。
人によって適量も違うし、ましてや、人と鶏では効能の出方にも差がある。
毎日与えていれば、害が出ることなど当然だ。
そして当然、坊んはそのことを知っていたのだ。
坊んは鶏が嫌いだった。鳥小屋が近くにあるせいで、風向きによっては、鶏糞の臭気が漂って来る。
事情のわからない女中が要らぬ気を利かせ、「部屋の空気を入れ換えましょう」と、障子を開けたままに去ってしまう。
女中は他に細々と仕事があり、坊んの部屋の障子のことなど忘れている。
間が悪く、近くに人がいないときには、坊んは悪臭を嗅ぎ続けなくてはならなかった。
「あの女は鶏のようだな。
頭を横に振ったら、今し方のことさえスッカリ忘れてしまうのだから。」
亥助にはこうして悪態をつくが、表向きは善い顔をしている。
坊んの性根はネジ曲がっている。
だから、亥助は坊んが好きになれないのだ。
以前、誰かが鳥小屋の
鶏は我が物顔で、部屋中をバタバタと羽ばたいた。
内の一羽が、厚かましく布団のうえにあがってきた。
胸に乗った鶏と坊んの目が合った。
鶏は顔を近づけて、坊んの顔を突っつこうとした。
坊んは大声を上げて首を振った。
幸い、すぐに使用人が駆けつけ、坊んは鶏に目玉を突つかれずに済んだ。
それ以来、あの赤いブヨブヨとした
鶏の皮には寒気がするし、肉も嫌だし、卵も嫌いだ。
体に良いからと、卵を飲まされるのは、もうウンザリだ。
鳥は、大便も小便も卵も同じ穴から
鶏が死んで清々した。
下品な鳴き声も、鶏糞の悪臭も嗅がなくて済む。
坊んは、笑いの形に顔を歪めた。
昼を過ぎた頃、亥助は山で見つかった。
気を失い倒れていた。
亥助は、食べた野草のせいで酷い下痢をしたが、死にはしなかった。
母は、亥助の不始末を責められはしたが、坊んが旦那様に
鶏の補償は、母の給金から天引きされることになった。
母は坊んに何度も礼を云った。
腹具合が良くなってから、母は亥助を坊んの部屋へ連れて行き、頭をさげさせた。
亥助は釈然としない。
鶏の餌に草を混ぜろと指図をしたのは、坊んなのだ。
「仕方がないだろう。
鶏に草を食わせたのはおまえだからな。
俺が親父に口添えをしなかったら、母ちゃんはここを辞めさせられていたんだ。
ここを辞めたら、今の長家には住んで居られなくなるぞ。
大家はウチの親類なんだからな。
赤ん坊を背負った女が、住む場所や仕事を捜すのは大変なことだ。
お前たち親子を思うからこそ、俺はトリナシをしたのさ。」
🌸 九 許嫁
坊んには許嫁がいた。
無論、好き合って事ではなく、婚約は親同士の他愛ない口約束だった。
坊んの父と相手の女の父は親友で、「互いの子に男女が生まれたら、
しかし、約束は赤子のときに罹った病の後遺症により、坊んの体が不自由になってからは反故同然となっていた。
それが一年前、女の親が商売で大変な損失をし、その借財の大半を坊んの父が肩代わりしたことから、利息のように、親は娘を差し出してきたのだ。
祝言の日取りが決まり、部屋に掛けられた花嫁衣装を眺めるたび、女の心は暗く沈んだ。
『早く、孫の顔を見たい』
結納の日に坊んの父が発した言葉に、女は体が凍りつく思いをした。
あの芋虫と、「夫婦の営み」をしなくてはならないのか、──そう思うと、吐き気が治まらなかった。
女は自らの将来を悲観しはじめ、そして思い悩んだ末に自殺を図った。
入水して死ねず、首を吊って死ねず、三度目に、包丁で胸を突こうとしたのを母に止められた。
──私には死ぬ事も叶わないのか。
女は絶望し、食事を受け付けなくなった。
こんな状態では嫁にはやれないと、女の両親は詫びに来た。
坊んにとっては迷惑な話だ。
坊んは嫁など望んでいなかった。
許嫁と紹介された女は、
女は坊んと目が合うと、化け物でも見たかのように顔をそらした。
それきり、女は二度と坊んを見ようとはしなかった。
坊んが気を使って和やかに語りかけても、女は貝のように口を結び、ピシャリと心を閉じていた。
女は、坊んを人間として見ていなかった。
だから坊んも、女を対等に扱うのをやめた。女が部屋を訪れるたび、無言で女の姿を凝視した。
女は居心地悪そうに、肥えた体を縮めていた。
親孝行だと思えばこそ、坊んは、親同士のつまらない約束ごとにも従っていた。
女の方も、親の頼みだからこそ、不具者の妻になる決意をしたに違いない。
嫌ならば否と言えばいいだけだし、女は手足が動くのだから何処へなりと逃げることができた。
嫁になると決めたのであれば、ここで自らの最善の道を模索するべきだった。
気に染まぬ相手とはいえ、坊んは生涯の伴侶となる女の言い分を容れ、譲歩するつもりでいた。
夫婦の営みなど、無理にする必要はない。
こちらだって、蟇蛙との交合は願いさげだ。
金を積めば、子を産んでくれる女などいくらでもいるのだから。
気鬱の病を患い、女が何度も自殺を図ったと聞いても、憐憫の情など涌かない。
それは女の手前勝手な苦しみで、坊んのせいではない。
愚かな女だ。
自ら足下に、地獄を創り出したのだ。
親も親だ。
金で娘を売るようなマネをしておきながら、今さら被害者ヅラだ。
親子揃って馬鹿な奴らだ。
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