【陸】 愛撫



  一  愛撫  ─ あいぶ ─

  二  坊ん  ─ ぼん ─

  三  賽の河原  ─ さいのかわら ─

  四  蛹  ─ さなぎ ─

  五  卵  ─ たまご ─

  六  鶏  ─ にわとり ─

  七  薬草  ─ やくそう ─

  八  執成し  ─ とりなし ─

  九  許嫁  ─ いいなづけ ─ 







🌸  一  愛撫  ─ あいぶ ─



「お前の体は甘い匂いがする。

母ちゃんの乳の匂いだ。

だから舐めたりクワえたり、カジってみたくなるのさ。

それで舐めたら、匂いと同じに甘い味がするのさ。」


「甘いの。」


「餅みたいに甘いのさ。

じっくり噛んでいたら甘さが滲み出て、日だまりみたいに暖かくて、ふわっとして、少しだけ幸せな気持ちになるのさ。」


「カジられるのは痛くて嫌だなぁ。」


 日吉は首を傾げた。


「でも、亥助が幸せなら、嬉しい。

 少しだけならカジっていいよ、少しだよ。」


 亥助は、日吉の夜着の襟元を押し広げて、背中が半分見える位までずらした。

亥助は日吉の小さな背中に、愛おしげに頬や額をこすりつけ、体の匂いを嗅いでいた。

日吉はくすぐったくて、肩をすくめ、体をもぞもぞ動かした。


 唇で柔らかい肉を銜え、舌先でペロリと舐めてみる。

甘い匂いでクラクラする。

舌先だけでなく、舌の半ばまでくっつけて味わうと、何とも寧らかな気持が広がった。


 日吉は生まれたての子犬みたいにペロペロ舐められて、くすぐったくて、何だか切ない気持ちになった。

この寧らかな感触は、とても愛おしく、悲しく、日吉は泣きだしたいような気持ちだった。


 亥助が脇腹の柔らかい肉に噛みついた。

はあ、と日吉の口から吐息が漏れた。


「怖い。」


と日吉は云った。


「痛かったか。」


 亥助が聞くと、日吉は首を横に振った。


「悲しくなったんだ。

悲しみが体の中を走り抜けた。

分からないけど、切なくなったよ。」


「そうか、切ないか。」


 亥助は日吉を寝かせた。

そこは菊紋と呼ばれる部分だが、そこには放射状の線さえなく、ギュッと内側へ閉じて、指の一本も入りそうになかった。


 肌色の陰茎は、剥いた茗荷のようにツルンとしていた。

亥はそれを指でつまんでみた。

ふにゃふにゃとしていたモノは、指で捏ねると、芯が通ったように少しだけ固くなった。


 ふと、これを含んでみようか、と亥助は考えた。


「やめてよ、亥助、汚いよ。」


 亥助の歯が当たった。

日吉はそこを齧られてしまうのではないかと思い、怖かった。


「汚くなんかないさ、お前はさっき風呂に入ったばかりだろ。」


 亥助は再び口に含んだ。

口が窄まり、柔らかい肉に締め付けられた。千切られてしまったらどうしよう、と日吉は気味が悪かった。


「お願いだから離してよ。

オシッコが出ちゃいそうだよぉ。」


 下半身を晒されいて、寒さで日吉の太腿は粟立っていた。

亥助はポツポツと粟立った肌に唇をつけた。狂おしく唇を押し付け、舌を滑らせてきた。

そうすると高い所から飛び降りたみたいに、日吉の体に、ザワッ、と震えが来た。

体の中の空洞を、冷たくて強い風が吹き上げるような気がした。


「怖い、怖いよ、亥助。」


 日吉の両手は亥助の頭を強く掴んでいた。

亥助は顔を上げて、日吉と目を合わせた。

怯え、黒々とした大きな目に涙を溜めていた。


「ごめん、ごめんな、怖いことはもうしない。」







🌸  二  坊ん  ─ ぼん ─



 亥助は日吉を思わず抱きしめていた。

服の胸に日吉の涙が染み込んできた。


「ねえ、亥助、お歌を歌って。」


 鼻を啜り上げ、か細い声で日吉は云った。


 山歩きの途中、亥介は旦那様の車椅子を押しながら、我知らず歌を口ずさんでいた。

 繰り返すうち、日吉が亥助の歌に声を合わせてきた。

 亥助は日吉に歌詞を伝えるように、ゆっくりと歌った。──


 亥助は、日吉の求めに応じ、小声で歌い始めた。

 歌いながら、ある光景を脳裏に描いていた。


 ある夜、川縁を歩いていると、河原の方から歌が聞こえてきた。

 歌っていたのは、焚き火で暖を取る夜鷹だった。

 俺は近づいて、そのお袋みたいに年増の女を相手に選んだ。

 茣蓙ござには女の体のぬくみがあった。

 大きな乳はへそ位まで垂れ下がって、下腹には肉割れがあった。

 荒々しく腰を突き入れると、毛深い太い脚を背に絡ませ、女は獣みたいな声を上げた。

 汗ばんだ胸の谷に顔を埋めて、俺は「おっかあ」と呟いた。

 女は一瞬、嫌そうに眉根を寄せたが、直ぐにからかうような顔になり、「おお、よしよし」と俺の頭を撫でてきた。


 夜鷹が歌っていた歌は、母が妹を寝かしつける時に歌っていた子守唄だった。

 目を閉じるとおぼろに、赤子をおぶった母の姿が浮かんだ。


 過去は葬った。

 すべて捨て去った。


 けれど、こうして日吉の側にいて、絵を描いたり歌を歌ったりしてると、あの頃の景色が否応なしに蘇る。

 小さな日吉の体を抱いていると、温かく切ない気持ちが滲んでくる。

 この柔らかな心地は、亥助を酷く不安にさせた。

 段々と、自分が弱くなってゆくように感じた。

 あの頃の、無知で無力なガキに戻ってしまうようで、怖かったのだ。


『……きよ、きよ。』


 夢のなかで、亥助は五歳いつつの子供になっていた。


 んが、亥助の母の名を呼んでいた。呼鈴よびりんを激しく鳴らし、「早く来い」と催促していた。

 洗濯をしていた母は、前掛けで手をぬぐいながら庭を駆けて来た。

 母は座敷へ上がり、部屋の隅に置かれた尿瓶で、とこに寝たまんまの坊んの小便を採ってやった。


 坊んは、首から下が殆ど動かない状態で年中寝たきりだった。

 坊んは二十歳はたちを過ぎた男だが、背丈は五尺に足りず、十歳くらいの少年がそのまま老いたような奇異な姿をしていた。


 当初、俺は坊んと顔を合わさないようにしていた。

 目が合うと視線を逸らし、何かを訊かれても顔を伏せたまま答えた。

 だが、坊んの方はそんな俺の態度を気にした風もなく、笑いの形に顔を歪め、何度も話しかけてきた。


 坊んは、庭で遊んでいる俺を呼び寄せて用を云いつけた。

 坊んは人を使うのが上手だった。

 始めは誰にでも出来る単純な事を頼み、様子を見ながら段々と難しい条件を足してくるのだった。

 例えば、棚の本を見せてくれ、から、屋敷の者に何かを伝えたり、所望の品を持ち帰る、それから、外へ行って届け物をする、買い物を頼む、といった具合だ。







🌸  三  賽の河原  ─ さいのかわら ─



 いつの間にか、俺は坊んの用をこなすのが楽しくなっていた。

 坊んの上手いトコは、用を片付けたからといって安易に駄賃をくれたりせず、巧みに言葉で褒め立てて、俺をやる気にさせたところだ。

 坊んは庭にいる俺を呼んだ。

「小便をしたいから手伝ってくれ」と云うのだ。

 俺は人を呼んでくると云った。

 坊んは人が来るまで待てないと云った。


「なあ亥助、お前も寝小便をすることがあるだろ、小便を漏らすと嫌な気分だろう。

 あれは惨めだよなぁ、着物は濡れて冷たいし、嫌な臭いだ。

 お前は気持ちがわかるだろ。


 それにな、着替えさせるのも、布団を干すのも、洗濯をするのも誰がやるんだ?

 考えてみろ、みんな、おまえの母ちゃんの仕事なんだぞ。

 母ちゃんの仕事を増やしたくはないだろ?

 わかったら、早くこっちへ来い。」


 なるほどそうだ、と俺は妙に納得させられた。

 本当はそんな事したくもなかったが、母ちゃんのためだと思ったら、やらなくてはいけない気がした。

 俺は、坊んが好きではなかったが、母ちゃんの負担を減らしたくて、坊んの頼みを聞くために、なるべく坊んの部屋の側にいるようにしていた。


 俺は坊んを好きにはなれないが、側にいて良いこともあった。

 坊んは棚に並んでいる本を勝手に見てもいいと言ってくれた。

 そのころ、俺はまったく字が読めなかったから、本に描いてある絵を眺めていた。

 草花が描かれてあるもの、動物、昆虫、建築物、見ているだけで十分に楽しめた。

 なかでも、俺が夢中になって見ていたのは、極楽と地獄が描かれている本だった。

 それを、「こちらに持って来い」と坊んが言った。

 坊んは絵を見ながら、俺に色々と説明してくれた。


「ここは賽の河原だ。

 寄り集まっているのは、十歳とおに満たず、親より先に死んだ童たちだ。

 皆、石を積んでいるが、これは石積みをして遊んでいるのではない。

 石の塔を積み上げられたら、再びこの世に転生できると言われ、鬼に脅されながら泣く泣くやっているんだ。

『転生』というのはな、生まれ変わる、という意味だ。

 けれど、石の塔を完成させるのはそう簡単なことではない。

 石が積み上がりそうになると鬼がやって来て、金棒の先でチョンと突いて塔を壊すんだ。

 また、最初からさ。

 結果、童は完成しない石の塔を、延々と作り続けなくてはならない。

『一重つんでは父のため、二重つんでは母のため』

 そう念じながら、空しい石積みを続けるのさ。


 人が地獄へ行くのは、この世の罪を悔い改めるためだ。

 けれど、こうして苦行を味わい、戒心してこの世に生まれ変ったとしても、この世は決して極楽ではない。

『生き地獄』という言葉があるように、目には見えない地獄はそこら中に散らばっているんだ。

 本当は、この世も地獄のようなものなのさ。」


 ──この世も地獄のようなもの。


 坊んの言葉は、亥助には理解できなかった。

 地獄も極楽も、亥助の身近には存在しないものだった。







🌸  四  蛹  ─ さなぎ ─



 亥助が絵を描くのが好きだと知ると、坊んは紙と筆を貸してくれた。

 亥助は虫の絵を見ながら、すらすらと筆を走らせる。


「おまえは、絵は上手いくせに、字の方は丸っきり下手クソだな。」


 仕上がったものを眺め、坊んが不思議そうに云った。

 坊んは、趣味で俳句を作っているので、浮かんだ言葉を残しておくため、亥助に字を覚えさせていた。

 いづれは代筆をさせようとも考え、紙と筆を使う条件で、毎日 亥助に習字をさせていた。


 一方、亥助は習字をしながら、毎日 坊んを観察していた。


 ──坊んは、いつさなぎになるのだろう。


 それが、亥助にとって今 一番の関心事だ。


 本に描かれてある芋虫を見て、亥助はその姿を、「まるで、坊んのようだ」と呟いたのだ。

 子供が何気なく口にしたことで、少しも悪気はなかったけれど、坊んが気分を悪くしたのは明らかだった。


 坊んは皮肉げに顔を歪め、それから亥助に秘密を打ち明けた。


「そうさ、今の俺は芋虫だ。

 だがな、いずれは蛹なり、生まれ変わる。

 蛹の中で体をドロドロにして、一から作り変えるのさ。

 殻を破って出てきたら、蝶のように美しい姿に変わっている。

 人の手を借りず、立ち、歩き、優雅に舞い踊ることもできるようになるのさ。」


 坊んは怪しく頬笑んだ。


 近頃、坊んに変化があった。

 坊んはなんだか浮かれていた。

 それは、ある女のせいだった。

 亥助は庭から廊下を歩てゆく女の姿を見た。黒地に乱菊の図柄の衣装を着、長い黒髪を垂らしたその姿は、本に載っている揚羽蝶のようだった。


 女が来る日が近づくと、坊んは一段と機嫌が良くなった。

 身嗜みにうるさくなり、亥助に歯を念入りに磨かせた。


 あの女は鍼灸師だ、と坊んは言ったが、じつは、金を貰って不具者の相手をしている売女だった。

 女は、「坊んの嫁になってもよい」と言った。


『こんな商売をしているのは親兄弟のため、家族の面倒をみてくれるのなら、妻となり、あなたの子を産んでもよい。』


 女は坊んに、自分の弟だという若い男を紹介した。

男は坊んを「兄さん」と呼んだ。

二人は坊んを屋敷の外へ連れ出し、芝居見物をしたり、遊山をしたりした。

帰ると、坊んは上機嫌で、亥助に見聞きしたことを話した。


 けれど、ある時から坊んの態度は一変した。

ひと言も語らなくなった。


 坊んは、女への復讐を考えていた。

自分に恥をかかせた女を、殺したいほど憎んでいた。

女に復讐するには、己の手足となる人間が必要だった。

金を積めば殺しを請け負う者はいるだろうが、怪しげな者を経由すれば後々に面倒が生じる。


 ──ちょうどいい者がいるではないか。


 坊んの視線の先には亥助がいた。


「亥助、こっちへ来てくれ。」


 亥助は庭でしゃがみ込んでいた。

雨上がりで濡れた紫陽花の葉の上に、子蛙がいた。

蛙に成り立てのようで、ちいさくて鮮やかな若葉色をしていた。

亥助はそっと手をのばした。

滑らかで濡れた背中に、もう少しで亥助の指が触れそうだった。


「亥助!

早く来いと言っているだろ!」







🌸  五  卵  ─ たまご ─



 亥介はビクンとなった。

坊んが大きな声を出すものだから、蛙は跳ね飛び、何処へ行ったかわからなくなった。

 ハア、と溜め息をついて、仕方なしに亥助は立ちあがり、縁側から顔を覗かせた。


「なんですか?」


 ──ああ、糞か。


 妙にモジモジとした坊んの様子から、用便だと察しがついた。

 亥介は縁から部屋へあがり、部屋の隅に置いてある平べったい壺を、坊んの尻の下にすけてやった。


「もう、いいですか?」


 壺をのけて、亥助は坊んの尻を拭いてやる。

坊んの着物を整え、布団を掛け、壺を抱えて厠へ中身を捨てに行く。

置いたままにしておくと、臭いが部屋に籠もるので、すぐに捨てに行くようにと言われていた。


 坊んは、「終わったら、すぐにもどって来るんだぞ」と念を押した。

亥助は壺を抱えてもどり、元の場所へ置いた。

壺の中には匂い消しの草を入れ、蓋をしてある。


「なあ亥助、卵を食いたいか?」


 唐突に、そんなことを訊いてきた。

 それで亥助は、まえに坊んから卵入りの雑炊を分けて貰ったことを思い出した。

「食欲がないから、食べてくれ」と坊んに頼まれ、亥助は粥を平らげた。

真っ白な米粥に、溶き入れた卵はふわふわと甘く、美味しかったことを、鮮明に覚えている。


 食べたい、と亥助は答えた。


「亥助、棚から本を取ってくれ。

野草の絵が描いてある本だ、棚の左端の方にあるだろう、──ああそれだ、開いてみろ。」


 ペラペラと捲っていくと、そこでとめろと声がかかった。


「その草を、山に行って採って来てくれ。」


「ダメだよ。

勝手に屋敷の外へ出るなと、母ちゃんから注意されてるし、ひとりで山へなんて、行けないよ。」


「亥助、あっちの塀の向こうに鳥小屋があるだろ。

 卵はそこの鶏が産んでいるんだが、近頃の暑さで鶏も参っていて、卵を産む数が減っているんだ。


 その野草にはな、滋養をつける効能があるのさ。

 人間に効くものは鳥にだって効く。

 鶏が元気になって卵をたくさん産むようになったら、おまえにも分けてやれる。

 おまえの手柄だからな。


 たくさんあったら、ひとつやふたつ分けてやっても構わないさ。

 俺の為に飼っている鶏だ、俺がいいと言っているんだから問題はない。」


 亥介は、迷っているようすだった。


「妹に、卵の入った粥を食べさせてやりたくはないか?

 母ちゃんだって喜ぶだろうさ。」


 そう言われると、母の喜ぶ顔が見たいし、妹にあの美味しい卵の粥を食べさせてやりたいと思うのだった。


 亥助は、裏山に入り、薬草を採って来た。


「それを餌に混ぜるんだ。

 誰にも気づかれないようにしろよ。」







🌸  六  鶏  ─ にわとり ─



 亥助は言われるままに、草を与えた。

 鶏は日に日に弱っていくように見えた。

 心配になって坊んに訊ねたら、「体のなかで薬が効き始めているときには、一時的に弱っているように見えるのだ」と返された。


 亥助は不安で堪らなかった。

 三日経っても、一向に、鶏の症状が回復する気配はなかった。

 そして翌朝、小屋へ行くと十羽いた鶏はすべて死んでいた。


 亥助は、恐ろしくなって逃げ出した。

 野草が生えている場所まで駆けて行った。

 亥助は鶏に与えたのと同じ草をむしり取って、「南無三」と口に詰め込んだ。

 苦い草の味を長く口に留めないように、荒く噛み砕くと無理やりに飲んだ。


 ──これでオイラは死ぬかも知れない。


 亥助は思い、心細くなった。

 時が経つにつれ、漠然とした死の気配が亥助を不安にさせた。

 罪を償うつもりでやったことだけれど、亥助は後悔していた。


 目に涙が溢れ、色々な想いが心に浮かんできた。


 ──父ちゃんが生きていたころはよかった。


 あの頃が一番幸せだった。

 父ちゃんは俺を可愛いがってくれた。

 乾物の行商で、何日も家に帰って来ない日が続いたけれど、帰ると必ず土産をくれた。

 妹が生まれるまでは、母ちゃんも俺に優しかった。


 亥助の父は、妹が生まれる一月ひとつき前に死んだのだ。

 山道で足を滑らせ、谷底に落ちていた。

 産後間もなく、母は乳飲み子を抱えて勤めに出ることになった。

 母は赤子を背負って働き、諸事に追われ、疲れ、苛立っていた。

 亥助はこの頃から、「母は妹ばかりを可愛がる、自分は邪険に扱われている」と感じ始めていたのだ。


 ──大変な事をしてしまった。


 こんな事になって、また母にうとまれる。


 ──腹が痛くなってきた、……


 もうじきオイラは死ぬのだろうか、……母ちゃん、少しは悲しんでくれるだろうか。


 腹が苦しくて、冷や汗が出てきた。

 亥助は顔を歪め、地面に転がった。


 母ちゃん、母ちゃん。

 心のなかで何度も呼びかけ、救いを求めた。


 ──死にたく、ない。


 亥助は心の底から、そう思った。







🌸  七  薬草  ─ やくそう ─



 鶏がすべて死んでいる、と、屋敷では騒ぎが起こっていた。

 女中のなかに、早朝に小屋の近くにいる亥助を見た、と証言する者があった。

 ならば、なにか知っているだろうと屋敷中を探してみたのだが、亥助は何処にもいなかった。

 亥助の母は旦那様に呼ばれ、坊んの部屋へ駆けつけた。

 寝耳に水の話だ。

 母は息子の不審な様子に、まったく気づいていなかった。


 坊んは悲しげな顔をし、すまなそうに言った。


「たぶん、亥助がこんなことをしたのは私のせいなのです。

 私が亥助に、『いつも世話になっているから、お前に何か礼をしたいんだが、欲しい物があるか』と訊いたのです。

 すると、亥助は『卵が欲しい』と言うのです。

 けれど、ここ最近、鶏は卵を産まなくなっていました。

 連日の暑さに、弱っていたのです。

 だから、『すまないが、分けてやるのは難しい』と、伝えました。

 言葉なく、亥助は項垂れました。

 あまりに悄気しょげた様子なので、私は、『涼しくなれば、また卵を産むようになるだろうから、必ず分けてやる』と、亥助に約束いたしました。


 亥助は、『本当に、くれるんですね』と目を輝かせ、私に念をおしました。

 涼しくなるまで、……待っていられなかったのだと思います。

 鶏を回復させようと、滋養をつけさせるために、薬草を混ぜたのでしょう。……


 亥助は優しい子で、母や妹に卵を食べさせてやりたいとの一心だったのです。

 子供が、誤りと知らすにやったことで、決して悪意は無いのですから、どうぞ許してやってください。」 







🌸  八  執成し  ─ とりなし ─



 野草は、薬ともなれば毒ともなる。

 その野草は便通を良くする効能があり、決して人を殺せるほどの毒など持ちはしないのだが、量を誤るとやはり害が出る。

 人によって適量も違うし、ましてや、人と鶏では効能の出方にも差がある。

 毎日与えていれば、害が出ることなど当然だ。

 そして当然、坊んはそのことを知っていたのだ。


 坊んは鶏が嫌いだった。鳥小屋が近くにあるせいで、風向きによっては、鶏糞の臭気が漂って来る。

 事情のわからない女中が要らぬ気を利かせ、「部屋の空気を入れ換えましょう」と、障子を開けたままに去ってしまう。

 女中は他に細々と仕事があり、坊んの部屋の障子のことなど忘れている。

 間が悪く、近くに人がいないときには、坊んは悪臭を嗅ぎ続けなくてはならなかった。


「あの女は鶏のようだな。

 頭を横に振ったら、今し方のことさえスッカリ忘れてしまうのだから。」


 亥助にはこうして悪態をつくが、表向きは善い顔をしている。

 坊んの性根はネジ曲がっている。

 だから、亥助は坊んが好きになれないのだ。


 以前、誰かが鳥小屋のかんぬきをかけ忘れていて、鶏が坊んの部屋にあがり込んで来たことがあった。

 鶏は我が物顔で、部屋中をバタバタと羽ばたいた。

 内の一羽が、厚かましく布団のうえにあがってきた。

 胸に乗った鶏と坊んの目が合った。

 鶏は顔を近づけて、坊んの顔を突っつこうとした。

 坊んは大声を上げて首を振った。


 幸い、すぐに使用人が駆けつけ、坊んは鶏に目玉を突つかれずに済んだ。

 それ以来、あの赤いブヨブヨとした鶏冠とさかと、馬鹿そうな鶏のつらを思い出すと肌が粟立つ。

 鶏の皮には寒気がするし、肉も嫌だし、卵も嫌いだ。

 体に良いからと、卵を飲まされるのは、もうウンザリだ。

 鳥は、大便も小便も卵も同じ穴からり出すのだ、そんな汚れた物を口にしたくはない。


 鶏が死んで清々した。

 下品な鳴き声も、鶏糞の悪臭も嗅がなくて済む。

 坊んは、笑いの形に顔を歪めた。


 昼を過ぎた頃、亥助は山で見つかった。

 気を失い倒れていた。

 亥助は、食べた野草のせいで酷い下痢をしたが、死にはしなかった。


 母は、亥助の不始末を責められはしたが、坊んが旦那様に執成とりなしをしてくれたお蔭で、奉公を辞めずに済んでいた。

 鶏の補償は、母の給金から天引きされることになった。


 母は坊んに何度も礼を云った。

 腹具合が良くなってから、母は亥助を坊んの部屋へ連れて行き、頭をさげさせた。


 亥助は釈然としない。

 鶏の餌に草を混ぜろと指図をしたのは、坊んなのだ。


「仕方がないだろう。

 鶏に草を食わせたのはだからな。

 俺が親父に口添えをしなかったら、母ちゃんはここを辞めさせられていたんだ。

 ここを辞めたら、今の長家には住んで居られなくなるぞ。

 大家はウチの親類なんだからな。


 赤ん坊を背負った女が、住む場所や仕事を捜すのは大変なことだ。

 お前たち親子を思うからこそ、俺はトリナシをしたのさ。」







🌸  九  許嫁  ─ いいなずけ ─



 坊んには許嫁がいた。

 無論、好き合って事ではなく、婚約は親同士の他愛ない口約束だった。

 坊んの父と相手の女の父は親友で、「互いの子に男女が生まれたら、夫婦めおとにさせよう」と言い交わしていた。


 しかし、約束は赤子のときに罹った病の後遺症により、坊んの体が不自由になってからは反故同然となっていた。


 それが一年前、女の親が商売で大変な損失をし、その借財の大半を坊んの父が肩代わりしたことから、利息のように、親は娘を差し出してきたのだ。


 祝言の日取りが決まり、部屋に掛けられた花嫁衣装を眺めるたび、女の心は暗く沈んだ。


 『早く、孫の顔を見たい』


 結納の日に坊んの父が発した言葉に、女は体が凍りつく思いをした。

 あの芋虫と、「夫婦の営み」をしなくてはならないのか、──そう思うと、吐き気が治まらなかった。


 女は自らの将来を悲観しはじめ、そして思い悩んだ末に自殺を図った。

 入水して死ねず、首を吊って死ねず、三度目に、包丁で胸を突こうとしたのを母に止められた。


 ──私には死ぬ事も叶わないのか。


 女は絶望し、食事を受け付けなくなった。


 こんな状態では嫁にはやれないと、女の両親は詫びに来た。

 坊んにとっては迷惑な話だ。

 坊んは嫁など望んでいなかった。

 許嫁と紹介された女は、痘痕あばた顔の、脂ぎったガマ蛙のような父親によく似た、固太りで器量のよくない女だった。これが器量が良くないなりに愛嬌でもあればよいのに、それも無いのだ。


 女は坊んと目が合うと、化け物でも見たかのように顔をそらした。

 それきり、女は二度と坊んを見ようとはしなかった。

 坊んが気を使って和やかに語りかけても、女は貝のように口を結び、ピシャリと心を閉じていた。


 女は、坊んを人間として見ていなかった。

 だから坊んも、女を対等に扱うのをやめた。女が部屋を訪れるたび、無言で女の姿を凝視した。

 女は居心地悪そうに、肥えた体を縮めていた。


 親孝行だと思えばこそ、坊んは、親同士のつまらない約束ごとにも従っていた。

 女の方も、親の頼みだからこそ、不具者の妻になる決意をしたに違いない。

 嫌ならば否と言えばいいだけだし、女は手足が動くのだから何処へなりと逃げることができた。

 嫁になると決めたのであれば、ここで自らの最善の道を模索するべきだった。


 気に染まぬ相手とはいえ、坊んは生涯の伴侶となる女の言い分を容れ、譲歩するつもりでいた。

 夫婦の営みなど、無理にする必要はない。

 こちらだって、蟇蛙との交合は願いさげだ。

 金を積めば、子を産んでくれる女などいくらでもいるのだから。


 気鬱の病を患い、女が何度も自殺を図ったと聞いても、憐憫の情など涌かない。

 それは女の手前勝手な苦しみで、坊んのせいではない。


 愚かな女だ。

 自ら足下に、地獄を創り出したのだ。

 親も親だ。

 金で娘を売るようなマネをしておきながら、今さら被害者ヅラだ。


 親子揃って馬鹿な奴らだ。











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