【肆】 形相
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一 形相
二 鮃
三 先見之明
四 孵卵
五 菩薩
六 雀
七 身代り
八 余韻
九 憤懣
🌸 一 形相
お爺様の部屋は香が焚かれていた。
老人特有の臭いと、病みついて寝たきりの者が醸し出す臭い、黒糖のような漢方薬の臭いが混じり合い、どこか不吉な気配を醸し出していた。
母が、お爺様を見舞う事は一度もなかった。
いつからか、食事を一緒に取ることもなくなっていた。
お爺様は顔に麻痺があり、口の端から
食べ物は、すり鉢で擦ってドロドロにしたものを、弥平か亥助が口に入れてやる。
飲むことも困難で、食べた物の大半を口から溢していた。
母は、お爺様と同じ部屋に居るのも嫌がった。
「一緒に居ると
お爺様の世話は弥平親子の仕事だ。
日に一度はお爺様の体を拭いて着替えをさせ、血が滞らないよう手足を揉んでいる。
お爺様はいつも穏やかに頬笑まれていて、仏様のように見えた。
午後には薬が効いて、穏やかに眠っている。その間の数時間は、日吉の身は自由になった。
仏様のようなお爺様は、何かの拍子に 豹変した。
穏やかに、微笑を浮かべていたお爺様は、鬼の形相で何かを喚いた。
それは日吉の知らない異国の言葉で、苦しみ悶える姿は、まるで腹の中に火が沸いてでもいるかのようだった。
深夜。
ふと目覚めると、鬼のお祖父様の姿が思い出され、恐ろしく、日吉はそっと母の布団を剥ぐって体を潜り込ませた。
しかし、やっと眠りに就いたのも束の間で、夢にまで鬼のお爺様が現れ、逃げる日吉を追って来るものだから、恐ろしさのあまり、日吉は寝小便をしてしまった。
母は、鼻を突く異臭と布団の湿り具合に目覚めた。
跳ね起きて、眠っている日吉を布団から蹴り出し、金切り声で叱りつけた。
鬼の形相の母は、日吉を庭に突き落とし、布団を放り投げると、障子をピシャリと閉めた。
亥助は母の部屋に新しい布団を運び入れ、弥平は日吉の着替えをさせた。
母は戸を閉めて、日吉を部屋の中へ入れようとしない。
母に入るなと云われれば、入ることができない。
日吉は部屋の前で、膝を抱えて座り込んでいる。
見兼ねた弥平は、自分たち親子の部屋に日吉を入れてやった。
そこは四畳半ほどの、物置のような場所だ。
「親父、あの旦那は本当にボケているのか?」
「どういう意味だ。」
弥平は
「
「そうだ。」
「で? 何が目的で、痴呆の演技をする必要があるというのだ。
旦那様は
誰よりも自尊心の強いお人だ。
老いて
たとえ、何か目的があって呆けたフリをされているのだとしても、赤子のように糞尿を垂れ流すことまでなさるとは思えない。」
「どうかなあ。
案外、当人は愉しんでいるのかもしれないぜ。
俺は、そういう奴を知っているのさ。」
🌸 二 鮃
「俺が下働きをしていた両替商の旦那が、
本宅じゃあ威張り腐っているくせに、若い妾のまえじゃあ無垢な赤子さ。
ま、中身は赤子だが、外見は
その遊びは念の入ったことで、産着におしめまで縫わせてあった。
妾宅に入るとそれに着替え、布団の上に転がるんだ。
何かして欲しいときには、おぎゃあと鳴きながら女を呼ぶ。
一切言葉を喋らないから、女が言葉を取り違えると、喚きながら手足をばたつかせて暴れる。
乳が欲しいとなると、親指をチュウチュウ吸いはじめる。
女は、面倒臭そうに片方の乳を掴みだして旦那に含ませる。
少し経つと今度は反対側だ。
この女、
美しいとはとても言い難い
だが、肌は雪のように白く、大きな乳をしていたよ。
旦那はこのヒラメに、色々と
ヒラメが悲鳴を上げたんで振り向くと、目に涙を溜め、乳を押さえて旦那を睨んでいた。指の間から、血が流れ落ちている。
布で血を拭き取ると、乳の先が半ば千切れてぶらぶらしてる。
ほら、──歯の生え始めた赤子が、乳の出が悪いと
旦那は、赤子みたいに小便を垂れ、当然のように替えさせていた。
小便ならいいが、大便まで平気でやっちまうのさ。
ああ、さすがに俺だって驚いたぜ。
部屋に糞の臭いが立ちこめて、最初は屁でもコキやがったかと思ったら、大便だ。
旦那は、ヒラメが顔を歪めながら始末をするのを、股をおっぴろげて幸せそうな顔で眺めてやがるのさ。
ヒラメは丹念に旦那の体を拭き、着替えをさせてやる。
本当の赤子なら始末も簡単だが、大人の男じゃ重労働だ。
時々、ヒラメが俺を恨めしそうに見るが、俺の仕事じゃないから知らん顔だ。
ヒラメの家に、旦那が通ってくるのは月に二、三回なんだが、それでも結構な金銭の援助を受けていたのさ。
ヒラメは、その金を贔屓の役者に貢いでやっていた。
ちょっと評判になったからと、そいつは天狗になっていた。
毎夜派手に遊び回り、酔ったまんま舞台に上がることも
のちに聞いた話だが、そいつは芝居の最中にゲロを撒き散らし、興行主から総すかんを食らったそうだ。
ヒラメは、寝ても覚めても『ゆめ様、ゆめ様』、そいつに夢中だった。
同情などする必要はない。
嫌なら辞めたらいいだけさ。」
🌸 三 先見之明
話の間に、弥平は懐から小刀と五寸ばかりの木片を取り出し、削り始めていた。
「帰り
呼んだら直ぐ来い、産着の着せ方がなっていない、尻の拭き方が雑、──なんだかんだと重箱の隅をつつくように云い、これで終いだと思ったら、『話を聞く態度がなってない』と、また説教が始まる。
そうしてヒラメを心底
ああ、話しが長くなっちまったが、そんな奴がいるってことさ。」
亥助は弥平を窺ったが、興味ない、という風だ。
「うちの旦那は『お稚児さん』が好きだろ。
だからあの小僧に下の世話をさせたいじゃないのか。
か弱いジジイを装って、小僧を縛り付けて、愉しんでいるんじゃないのか?」
「そんなことをしなくても、坊ちゃんは旦那様を好いている。」
「ああ、そうだろうぜ。
せいぜい愛嬌を振り撒いて、旦那の機嫌を取るだろうさ。
小僧の命運は旦那次第だからな。
母親は頼りになんねぇし、頼みの綱はあのボケたジジイだ。
ちょとぐらい窮屈でも、
なあ親父よ、旦那が死んだらあのガキ売っちまおうぜ。
ありゃ結構な高値で売れるだろうさ。『先見の明』ってヤツか?
旦那はかなりの目利きだ。
さすがはお貴族、『
あの小僧、ガキのクセして妙に色気がある。
旦那じゃないが、こう、グッとくるものがあるぜ。
小僧は旦那が最後に残しておいた、とっておきの肉だ。
だが、体の利かない旦那は、美味い肉を前に
弥平の目は一心に木片へ注がれている。
旦那のことは、一斎語らない気らしい。
「ボケたふりをし、周りを観察しているのかと思っていた。
旦那がボケたのをいいことに、好き勝手している奴らを粛正しようって魂胆だってな。
親族は旦那のを煙たく思っている、だからこんな島に旦那を閉じ込めちまったんだろ?」
お前を呼び寄せた時は、まだ正気だったのさ 、──弥平は胸の裡で呟いた。
実は、最初はそういう手筈だった。
旦那様は用心深いお方だ、周到に計画を練っておられた。
だが、途中から演技が演技でなくなった。敵を欺くには先ず味方から、──私も欺かれているのかと思ったが、近頃の様子を見るに、やはり正気ではおられない。
「俺がここに来たばかりの頃、旦那は俺をじいっと見ていることがあった。
旦那の瞳は薄い鳶色だろ、陽の加減で蛇の目玉みたいに金色に光って見える。
『お前の正体はお見通しだ』と、頭の中に声が聴こえた。
あの目で、脳みそをぐちゃぐちゃにかき混ぜられてるようで、気色が悪かった。」
🌸 四 孵卵
亥助は勘がいい。
目端が利き、使える男だ。
だから島へ呼び寄せた。
だが、信用はしていない。
亥助に限らず「人」という生き物を、弥平は信用していない。
亥助は黙って旦那様の
一方、亥助も、余計なことを知れば自らに災いが及ぶと承知している。
だが、本当にボケているのか、問わずにはいられなかったのだ。
あの、蛇のような双眸に鉢合うと、背が冷えて肌が粟立つ。
旦那様の身体に触れるとき、終始、亥助は伏せ目がちに、顔を合わさないようにしてる。
『
あの目は、無条件に人を従わせる神眼だ。
亥助には、旦那様が人であるように思えなかった。
旦那様は、いまや体の不自由な痴呆の老人だ。
症状は悪化の一途を辿っており、満足に言葉も喋れず、糞尿を垂れ流している。
その状況を目の当たりにしても、亥助は旦那様が「人」であるように思えなかった。
「坊っちゃんに悪さをするなよ。
つまらないことを吹き込んで、坊っちゃんを泣かせているだろう。
旦那様が足の骨を折ったのは坊っちゃんのせいではない、──お前の不始末だ。
お前がしっかり旦那様を見ていたら、あんなことにはならなかった。
旦那様の側を離れ、何をしていたんだ。」
「小便さ。」
──ああ、こいつも随分老けちまったよな。……
深い皺の目立つ弥平の顔を眺めながら、亥助は思った。
こんな島に引き籠っているせいだ。
ここには、欠伸の出るような単調な毎日があるだけだ。
弥平が彫っているのは坊主頭に丸い顔、童の姿の地蔵菩薩だ。
何のつもりでか、弥平は小さな仏を彫り続け、仕上がると、海辺の岩場にある洞穴の
「そうさ、俺のせいだ。
都合の悪いことは皆、俺のせい 、──そういうコトにしとけばイイさ。
今さら誰が悪いと詰めたところで、旦那の足が良くなるわけでもないんだからな。」
あのガキ、親父にチクっていやがったか、 ──亥助は鼻に皺を寄せた。
すると、眩しげに目を細め、泣くような微笑を浮かべる日吉の姿が過った。
日吉を見ていると、イライラする。
小僧の、人に好かれようと懸命なところに腹が立つのだ。
旦那には先がない、とっくに見切りを付けて然るべき者だ。
それに、あの母親。
あの女は子供が嫌いだ。
血を分けた我が子であっても、愛情を持たない女は世の中に幾らだっている。
嫌われている者にどれだけ愛情を注ごうと、振り向いてはくれない。
撥ね付けられ、己が傷つくだけ、──虚しい努力だ。
そうとは知らず、いつか
いくら温めたところで、死んだ卵は孵りはしないのに。
🌸 五 菩薩
「坊っちゃんに、旦那様のことを喋るんじゃないぞ。
あの子は何んにも知らないんだからな。」
「ああ、判っているさ。
世の中には、『知らなけりゃ幸せっだった』ってコトがあるんだって、な。」
亥助はお道化た口調で云った。
「亥助、」と、弥平は作業をとめ、こちらを見た、「お前はそうして得意になって、自分では要領良く立ち回っている気でいるがな、
足下を掬われないよう、用心しろよ。」
──昔から言われ続け、こちとら、耳にタコだ。
亥助は、お道化顔で肩をすくめた。
そして、──夜になると目障りなガキがやって来る。
「おい、寝小便タレ。」
日吉はピクリとなった。
「お前はいつまでここで寝る気だ。
ご立派な部屋をお持ちなんだから、自分の部屋で寝ろよ。
今なら出入りも自由だろうが。
おっかない母ちゃんは、海の向こうなんだからな。」
日吉は、昼間はお爺様の側で過ごし、夜になると父子の部屋にやって来た。
母は居ないと判っていても、日吉は部屋に入れない。
「弥平が、居ても良いと云ってくれたよ。」
日吉はすがるような目で弥平を見た。
弥平は日吉に頬笑んでから、射るような眼差しを亥助にむける。
黙って従え、ということだ。
「ああ、判った。」
と、亥助は不服そうに云い、日吉に向かってグワッと歯を剥いて見せた。
日吉は身を縮め、泣きベソをかきそうになっている。
親子は交替で、旦那様の番をしていた。
土手を転げ落ちて以来、旦那様は腰が立たないので、夜中に目覚めて徘徊することはない。
隣屋で宿直を務めるのは一人で十分だ。
今夜は弥平の当番だった。
あの日から、日吉の寝小便は続いていた。
寝小便の始末は、亥助の仕事だった。
「おい小僧、今度寝小便をしやがったら、チンチンを引っ張って一つ結びにしてやるから、覚悟しろ。」
亥助がギッと睨むので、日吉は布団を被って縮まった。
「おい、起きろ!」
日吉は夜中に起こされた。
目を擦りながら見上げると、「厠へいくぞ。」と亥助は云った。
寝小便の後始末が面倒なので、亥助は考え、日吉を起こして小便をさせることにしたのだ。
囲碁に琴に習字。
旦那様が呆けていようと、日吉は生真面目に日課を続けている。
旦那様の前で、論語を暗唱し、詞を吟じ、琴を披露する。
「翼、翼、」と、旦那様は手をのばす。
眠りの際で、旦那様は弟君を探している。
日吉は両の手で、皺ばんだ冷たい手を、温めるように包み込む。
「お兄様、翼はここに居ります。」
旦那様は溺れかけの者のように、日吉にしがみつく。
「翼、何処へも行かないでおくれ、……」
「お兄様、私は何処へもゆきません。
あなたの側に、こうして居ります。」
「私を、赦してくれ、……翼。」
異様な光景に映った。
旦那様は小さな子供で、日吉の方が大人のように見えた。
慈愛に満ちたその姿は、寝小便を垂れてショボくれているガキと、同じ者には見えなかった。
不思議な子供だ、と亥助は思った。
🌸 六 雀
木の枝を使い、しゃがみこんで、日吉が地べたに何やら描いている。
「それは何だ、犬か?」
「雀だよ。」
鳥には、見えない。
なるほど、紙芝居を人形芝居に変えたのは、絵が下手クソだったからだ。
「貸してみな」
亥助は枝を取り上げて、先を地面に滑らせた。
「上手だね。」
日吉は目を見開き、感心した。
まるで、そこに描かれてある絵をなぞるような、迷いの無い動きだった。
亥助は得意気に、もう一羽、雀を描き添えた。
──ガキの頃、俺は絵を描くのが好きだった。
淡い想いが、亥助の胸に浮いた。
近頃、ふとした拍子に、幼い日々の景色が
そこには、
亥助の母は、裕福な商家で下働きをしていた。
母は背に、産まれて半年になる妹をおぶっていた。
母が働いている間、亥助は邪魔にならないよう、屋敷の庭で時間を潰した。
庭を散策し、虫を捕まえたり、地面に絵を描いたりした。
絵を描き始めると、亥助は人の声も耳に入らず、時の経つのも忘れた。
日吉は、もう一度、亥助の絵を手本に雀を描いた。
簡略化され、輪郭もハッキリとしているので、考えとしては「字」を真似るのと変わらない。
不恰好ながら、日吉は鳥らしい形を描いて、評価を問うように亥助を見上げた。
たぶん、亥助が過去を思い出すのは日吉のせいだ。チョロチョロと
亥助が
母の仕事が終わるまで、亥助は妹の世話を任された。
小さな子を連れていては、遠くへ遊びに行けず、時折、亥助は妹を疎ましく感じることがあった。
その日、亥助は妹を背負って、遊び仲間と河原へ行った。
妹を一人岸に置いたまま、亥助は魚取りに夢中になった。
しばらくすると、岸から甲高い声が上がった。
慌てて亥助が駆け寄ると、妹は、濡れた石に滑ったらしく、膝を擦りむき、額から血を流し、ビイビイ泣いていた。
何も訊かず、母は亥助の頬をパシンと叩いた。
「何で、小さな子を連れて、川へ行ったりするんだい」と叱り、「ちゃんとお前が見ていなかったから、こんな怪我をしたんだ」と、亥助を責めた。
妹は傷を負った。
右眉の上が縦に一寸ばかり裂けていた。
母は、妹の傷の湿布を替えながら、「可哀想に、この傷は、痕になりそうだね」と溜め息混じりに呟いた。
傷は白い痕になり、眉尻のそこにだけ、毛が生えてこなかった。
「お前が代わりに転んでいたら、よかったのに。」
何気なく発した母の言葉が、亥助の胸をチクリと刺した。
河原へ連れて行ったのは亥助だが、妹が転んで怪我をしたのは、己のせいばかりではない。
亥助は妹の傷を見る度に、自分が傷を負った方がどんなに楽だったろうか、と思うのだった。
🌸 七 身代り
「ねえ亥助、どこか痛いの?」
日吉には、何だか鈍い痛みを
「お前は旦那が、好きか?」
亥助は答えず、日吉に問いかけた。
「好きだよ。」
「旦那の、どんなところが好きなんだ。」
「お爺様は、物識りで、色々なことを私に教えてくれたよ。
いつも私を大切に想ってくださる、優しいお爺様が、とても好きだよ。」
──旦那が大切にしているのは、「翼」だ。「日吉」ではない。
お前は「翼」の身代わりだ。
「旦那が、どんな人間でもか?」
日吉は不思議そうに亥助を見返した。
黒目勝ちな双眸が、無垢な光を湛えていた。
翌日。
亥助は本土へ渡った。
月に一度、休暇を取って気晴らしをしている。
行くと、三日は戻らない。
日吉は、亥助のいない一日をひどく長い時間に感じながら過ごした。
四日目。
門前で、日吉は亥助の帰りを待った。
明け方から小雨混じりの強い風が吹いていた。
暗雲が空を覆い、嵐になりそうな様相だ。
まもなく大粒の雨が落ち始めた。
傘を持ち、弥平が迎えに来た。
「坊っちゃん、家へお入り下さい。
海は
今日は、船は出ないでしょう。」
海は暗譚として、波は高く荒れ狂い、白い飛沫が上がっている。
船が出ないと聞き、亥助は喜んでいた。
三日も都にいると、島へ帰るのが億劫になる。
──こんな雨の日は、母が帰るまで家に妹と二人きりだった。
「♪~ 庄屋、猟師、狐。」
狐拳、──
狐は猟師に鉄砲で撃たれ、猟師は庄屋に頭が上がらず、庄屋は狐に化かされる。
亥助は手を膝の上に置いて、庄屋。
妹は開いた手を頭の上に立てて、狐。
「わたしの、勝ち!」
両手を上げ、妹は弾けるように笑った。
🌸 八 余韻
……哀しい、愛しい、苦しい、感情が混じり合い極まって、目蓋を涙が押した。
それは、一瞬の夢だった。
じんわりと夢の感覚は残っているものの、目前に現れた一切の事象は潮が引くように跡形もなく消えていた。
「しつこいよ、あんた!」
遊女は
亥助は大きく舌打ちし、轢かれた蛙のような醜い寝姿に顔を歪めた。
翌日。
目覚めた亥助は、夢を見たことさえ忘れていた。
目の前には、クソみたいな現実が在るのみだ。
亥助は観念し、船に乗った。
屋敷の上空には虹が架かっていた。
陽に蒸され、屋根瓦から仄かに湯気が上がっていた。
──俺は何の為に、ここへ戻るのだろうか。
息苦しい、牢獄のようなこの場所に。……
「──亥助!」
姿を見るなり、満面の笑みで日吉が駆けてきた。
「ああ、良かった。
帰らなかったら、どうしようかと思ってたんだ。」
日吉は亥助の手を握り、門の内へと
──ああ、小僧は寂しいから、誰の手でも掴んでしまう。
優しくしてくれる者なら、どんな奴だって構わない。
それは俺でなくったって、良いのだ。
🌸 九 忿懣
「島の女に手を出すなと、云ったはずだがな。」
風呂に薪を
弥平は昼間、屋敷に出入りする若い女房と亥助が、納屋の陰で言い争っているのを見かけていた。
「ちょっとぐらい、見逃せよ。」
亥助は、火の加減を見つめている弥平の背を、不満そうに眺めて云った。
「あの女、『月の障り』だと云って触らせてくれねぇんだ。
血生臭い匂いなんかしねぇから、絶対嘘ついてやがるのさ。
そんなの気にしねえって迫ったんだ。
そしたら、見てくれよ、あの
亥助の顔と腕に、爪痕がくっきりと残っていた。
「なあ親父、俺はよく働いているだろ。
何の娯楽もねぇ島で、ボケた旦那の下の世話さ。
ジジイの糞尿が手の皺の中まで染み込んで、抜けやしねぇよ。
その上、あの
この三年、俺は文句も云わずにヤったんだ。
なあ親父よ。
旦那の世話くらい俺でなくたってイイだろ。
誰か代わりの者を寄越すように伝えてくれ。」
弥平は黙っていた。
亥助はその背に向け、ハァ、とワザとらしく溜め息をついた。
「おい、俺はいつまで島に居りゃあイイんだ。
少し前に、大掛かりな盗み働きがあったそうじゃないか。
俺がここにいる間に、もう何度目だ。
いい加減、腕が
島に居るのも一年程度と見当を付けていた。
それが、三年経っても
亥助は、今度は憐れっぽい口調で訴えた。
「親父よ、後生だぜぇ。
俺はあんたみたいな涸れかけの泉じゃない、グラグラ煮え立つ
ちっとは俺の身にもなれ。
昔のテメエを思い出せ。
あんただってよぉ、若けぇ時分は、その名を轟かせた
云いかけて、亥助は後の言葉を飲み込んだ。
肩越しの弥平の目が、ギッと鋭利な光りを放っていた。
お前の首をねじ切るぞ、とでも云いたげな形相だ。
「……ああ、イイぜ。
久しぶりに肝が冷えた。
衰えちゃいないな、親父よ。」
亥助の声は震えていた。
「『千人斬りの
握った拳を立て、亥助は下卑た笑みを浮かべた。
「武勇伝を語ってくれよ。
大体この島にゃ、ロクな女がいねぇよ。」
弥平は、亥助の軽口を無視して云った。
「奥様に、手を出すんじゃないぞ。」
「判ってるさ。」
「坊ちゃんにもだ。」
近頃、日吉は亥助の布団に入り込んで寝ている。
二人は互いの体を
日吉は美しい子だ。
何かの拍子に、亥助が妙な気を起こしはしないかと、弥平は気がかりなのだ。
「亥助、子供に悪さをするなよ。」
弥平は釘を刺した。
「ああ、判っているさ。」
亥助はいつになく真面目に答えた。
❀
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