【参】 後見人 



  一  後見人  ─ こうけんにん ─

  二  父子  ─ おやこ ─

  三  悪意  ─ あくい ─

  四  罪悪感  ─ ざいあくかん ─

  五  篭の鳥  ─ かごのとり ─

  六  紙芝居  ─ かみしばい ─

  七  秘密  ─ ひみつ ─

  八  人誑し  ─ ひとたらし ─

  九  約束  ─ やくそく ─







🌸  一  後見人  ─ こうけんにん ─



 屋敷は町を見おろす丘のうえに建っていた。

そこからは遠く港が見えていた。


 日吉は、屋敷の敷地内から出ずに育った。

屋敷には大人ばかりで、同じ年頃の遊び相手などはいなかった。

子供は使用人の子でさえ、出入りを禁止されていたのだ。


 日吉は、お爺様に本を読んでもらいながら読み書きを覚えた。

お爺様──とは、この屋敷の主人で、とある国の貴族だった。

噂では、王族に連なる高貴な血筋で、内大臣の位を極めた権力者だというが、定かでない。


 母は日吉に関心がなく、今日はこんなことを習ったのだとか、こんな面白いお話を聞いたのだとか話しても、迷惑そうな顔をしてそっぽを向いてしまう。

日吉の手の平に金平糖こんぺいとうを三粒ほど乗せ、あちらへお行き──と微笑を浮かべながら白い手をヒラヒラさせる。

犬でも追うように、日吉はあしらわれてしまうのだ。


 母の気を引きたくて、母の喜んでくれそうなことを考えてみるのだけど、母は、幼子が側に寄るのもわずらわしいらしく、ときおり甲高い声をあげて叱りつけることもあった。


 日吉は、沈んだ表情で庭の三尊石の陰にしゃがんでいた。

お爺様は縁側から手招きし、日吉を自室へあがらせた。


「どうした。

なにか気に病むことでもあるのか。」


 お爺様は、白い眉のしたから慈愛に満ちた眼差しを向け、深みのある穏やかな声色でたずねてきた。

こうして気遣いをされると、喉元にとどめていた悲しい気持ちがグッと込みあがり、日吉の黒々とした大きな瞳には、たちまち涙が満ちてくる。


母様ははさまは、私をお嫌いなのでしょうか。」


「そのようなことはない。

よくはよい子だ。

そなたのように心根の優しい子を、いとう者などいるはずがなかろう。

私も、そなたをとても愛おしく思っている。」


 そう言うと、お爺様は顔を曇らせ、ただ──と、声をひそめた。


「母は、 少々気を病んでおるのだ。

誰しも、気分の優れぬときには、愉しいことも愉しいとは思えず、人が側に寄るのさえ煩わしと感じるものだ。


 だから、いまはそっとして置いてあげなさい。」


「お加減が悪いのなら、そう言ってくださればよいのに。」


「それは、そなたに余計な気遣いをさせまいとして、黙っているのだ。

 そなたを想ってのことだ。」


「そう、なのですか。」


「そうだとも。

そなたが心を痛める必要はないのだよ。」


 日吉は、お爺様の背に手を回して胸元に頬を押し付けた。

お爺様は日吉の体を包んで、優しく頭を撫でる。

お爺様の指先はとても冷たく、こうして抱かれていると安らかである反面、日吉はなぜだか故知れぬ不安を感じるのだ。







🌸  二  父子  ─ おやこ ─



 屋敷は、近くの村からもよほどに離れている。

歩いて半刻ほどかかる道のりを、農夫は荷車を引いて野菜を届けに来る。

近頃、その農夫に付いて、八つくらいの男の子が屋敷を訪れるようになっていた。


 日吉は、門の外にいる子供を珍しげに眺めた。

少年も日吉に気づき、見返した。

互いに興味を惹かれているのだが、どちらとも声をかけられずにいた。


 村人たちは、屋敷の内情に関心があり、細かい事まで知っていた。

狭い村では なにもかもが筒抜けだ。

おもに屋敷に出入りする者たちが、使用人から あれやこれやと聞き出して、これ見よがしに話すのだ。


 ある日、丘の上の屋敷に若い女がやって来た。

臨月も間近の身重の体。

なんでも、朱国の、呉服問屋の娘であるらしい。

どこの馬の骨とも知れぬ旅芸人に入れあげて、男を追って家を出た。

案の定、女は捨てられ、一月ひとつきも経たぬうちに戻った。

そして、その腹には旅芸人の種が宿っていた。

親はあわて、厄介払いを思い付いた。

屋敷の隠居に、娘を押し付けた。


 女は、とんでもないアバズレだ。

実家から金が届くと本土へ渡り、博打と男に金を使ってしまう。

金が尽きると島へ戻ってくる。

産んだ子を、一度も抱こうとはしない。

泣いているのも知らん顔で、乳も与えず、オシメを替えることもしない。


 旅芸人の子は、屋敷の隠居の子として育てられている。

その子は、花のように愛らしい子だ。







🌸  三  悪意  ─ あくい ─



 日吉が成長すると、お爺様の痴呆の症状が進み、己が誰なのかさえわからないことがあった。

お爺様の気分によって、日吉は色々な名前で呼ばれるようになった。

日吉は呼ばれるままに話しを合わせ、お爺様の相手をした。


 やがて、お爺様の奇行は弥平の手に余るようになった。

そこで弥平は、亥助という若い男を島に呼び寄せた。

弥平は息子だというが、似たところは少しもない。

歳は二十代半ば、痩身で背丈は標準よりも低いほうだ。

細い目に薄い唇、めったに口を開くことはないが、歯は数本欠け、煙草のヤニで黄ばんでいた。


 使用人たちは、陰気な亥助を避けていたが、日吉は、島の外から来た男に興味を惹かれた。

見かけると、そっと後をつけて歩き、物陰から男を観察した。

少し猫背でガニ股気味な亥助の歩き方を、日吉は面白がって真似ていた。


 亥助は日吉に気付き、足をとめて肩越しに睨んだ。

日吉は一瞬ピクリとして、見つかっちゃった、という風に、悪戯っぽく笑ってみせた。


「おまえの真似をしていたんだよ。」


 右目を細め、亥助は大きく舌打ちした。

それきり、日吉には目もくれずに歩きだした。


 ──目障りなクソガキめ。


 亥助は はじめから日吉に気づいていたのだ。

小僧はチョロチョロついてくる。

 俺のことを珍獣でも見るような目で見ていやがって、俺のマネをしておちょくってやがる。

 使用人どもが馴れ馴れしく近づいてこないよう、無口で無愛想な男を演じていたのに、馬鹿なガキは、空気を読まずに寄ってきた。


 亥助は、どこの馬の骨とも知れない芸人の息子に、「おまえ」と呼ばれたのが、酷く勘に触ったのだ。


 日吉はその場に立ち尽くしていた。

ピシャリ、と顔に水をひっ掛けられたような心地だった。

自分に悪意を向けてくる人間に、はじめて遭った。


 日頃、日吉は亥助に、「坊っちゃん」と呼ばれているが、そこには蔑んだ響きが含まれていた。







🌸  四  罪悪感  ─ ざいあくかん ─



 その日、お爺様は体調も良く、屋敷の裏山を散策していた。

お爺様は右膝が悪いので、杖に頼りながらゆっくりと歩く。

横に日吉が寄り添い、後ろに亥助が付いてゆく。


 ほどよく汗をかいて、お爺様は日陰の石垣に腰をおろし、休んでいた。

日吉は川の流れる音に耳を傾け、そちらに歩いて行った。

キラキラと水面が輝いて、水しぶきが上がっている。

河原では、五、六人の子供が遊んでいた。

日吉は土手の上から、そのようすを眺めていた。


 子供の一人が日吉に気づいた。

目が合うなり、土手を駆けあがって来た。

その子は、野菜を届けに来る農夫の子だ。

日吉に笑いかけ、「来いよ」と言った。

日吉は手を引かれ、河原へ降りていった。


 子供たちは沢蟹を捕まえていた。

石をはぐって蟹を見つけると、素手で掴んで魚篭びくに入れる。

甲羅を持つと鋏まれない──と説明されたが、日吉は怖くて触れない。

落ちていた枝を拾い、先を蟹に向けてみた。

蟹は枝を鋏んだ。

枝を上げると宙に浮いた。

日吉はそれを魚籠に放り込んだ。


「──翼、翼」


 土手の方からお爺様が日吉を呼ぶ。

蟹捕りに夢中になっていた日吉は、お爺様のお供をして来たことを、すっかり忘れていたのだ。

そして日吉は、川の側へ近寄ってはいけないよ──とお爺様から注意を受けていたことを思い出した。


 振り向くと、お爺様は不自由な足で土手を降りてきていた。

気がいて、お爺様の体は前へと行くけれど、足は思うようには動かず、草に滑って足を縺れさせた。

お爺様は土手の半ばから転がり落ちてきた。

お爺様のあとを追って、亥助が駆け降りてきた。

日吉も慌てて走り寄った。

お爺様は苦しげに顔を歪ませていた。


 日吉はお爺様の手を握りしめ、不安そうに目を合わせた。


「お爺様──」


「ああ、翼。

そなたが無事で良かった。」 


 お爺様は安堵したようすでに、日吉に微笑みかけた。


 亥助はお爺様の足の具合を見ていた。

右足が妙な具合に曲がっている。

みるみる衣が血に染まってゆく。

折れた脛の骨が外に突き出ていた。


 亥助は子供たちの兄貴分である少年に呼びかけた。


「おい、畑に行ってお前の親父を呼んでこい、屋敷の隠居が土手から落ちて、脚を折ったと伝えろ。

 それから、そこのお前。

 お前は屋敷に行って、同じことを伝えろ。


 人の命に関わる大事だ、判ったら、サッサと行け。」


 子供に指示をしながら、亥助はお爺様の膝上辺りを縛り、止血をしていた。


 しばらくして、農夫が荷車を引いて来た。

お爺様を戸板に乗せて土手の上へ運び、そのまま荷車に積んで屋敷へ向かった。

日吉は泣きながら、荷車の後ろを付いてきた。

お爺様は腰を強く打ち付けた為に、立つことができなくなっていた。


「おまえのせいだな。」


 ボソリと亥助が呟いた。


 責めるのでなく、ただ事実を述べているといった調子ではあるが、日吉には、亥助の言葉が重くのし掛かった。

自分でもそう感じていただけに、罪悪感が増したのだ。







🌸  五  篭の鳥  ─ かごのとり ─



 ──私が言いつけを守らなかったせいで、お爺様がお怪我をされたのだ。

 もしかすると、お爺様は私の身代わりになられたのかもしれない。


 そう思うと日吉はいたたまれなかった。


 お爺様は高齢であり、骨の付きも遅く、傷口は膿んで臭気を放っていた。

 日吉は片時も離れずに側にいて、お爺様の世話をした。


 弥平は手先の器用な男で、椅子に車輪を付けて、人を座らせたまま運べるものをこしらえた。

お加減のよい日には、お爺様をそれに乗せて外を散策した。

椅子の背を亥助が押し、日吉はお爺様の横についた。


 川の側を通ると、河原で遊ぶ子供たちの姿が見えたけれど、再び土手を下りて行きたいという気持ちにはならなかった。


 日吉は、お爺様がお昼寝をしている間、屋敷を囲む石垣の上に登って、村の向こうの町や、もっと遠くの港の様子を眺めていた。

母が本土に渡って半月経つ。

母は気鬱の病を治療しに行くのだと聞いていた。


「外に行ってみたいか。」


 声を掛けてきたのは、亥助だった。


「港に荷を取りに行くんだが、付いて来るか。」


 亥助は私の事を好いてくれてはいない、と感じていたから、思いもしない申し出だった。


「いいの、一緒に行っても。」


 日吉はおずおずと亥助を見返した。

 亥助の心を探るその目には、微かな期待が表れていた。


「行くのなら、降りてこい。」


 日吉が石垣を降りかけると、亥助は両手を伸ばして日吉の腰を支えた。

ヒョイと体が持ち上がって、羽のようにふわりと着地した。


 亥助は弥平に、日吉を外に連れ出してもいいか、と訊いた。

船で届く荷を受け取りに行くだけだから、旦那が眠っている間に帰って来れる、と説得した。


 日吉は屋敷の敷地から出たことがなく、同年代の遊び相手もなく、毎日、寝たきりの老人の側に付いている。

幼い子が狭い場所に籠っているのは、さぞ窮屈だろうと、弥平も思っていた。

日吉にも気晴らしが必要だ。旦那様が起きるまでに必ず帰って来るように、と念を押して、弥平は二人を送り出した。


 爺様は日暮れまで眠っている。

お爺様が飲んでいる薬には、気持ちを穏やかにする効果があり、眠りを誘うものなのだという。


 亥助の横を、日吉は跳ねるように歩いていた。

ウキウキと心が弾む。

こんな気持ちになったのは、久し振りだ。

遠くから眺めているだけだった村の中を、ただ歩いていることが楽しいのだ。

畑の一面には玉菜が植わり、蒸れた肥料がムッと臭っていた。

何処かで草を燃やしているらしく、焦げた臭いも漂っていた。

道をひたすらに歩いて、やっと町の景色が見えてきた。


 町は村と違い、色々な臭いが混じり合って、色々な音がした。

こんなに大勢の人がいるなんて、と日吉は驚いて、キョロキョロと辺りを見回した。

小さな体は人にぶつかって、よろけた。


「おい、ボサッとしているなよ。」


 亥助は二の腕を掴んで、転びかけた日吉の体を引戻した。







🌸  六  紙芝居  ─ かみしばい ─



 海風が大通りに吹き込んで、土埃が巻きあがった。

町の中は埃っぽくて、風は何処か生臭く、ベタベタとしている。

日吉は町に入ってから、絶えずケホケホと咳き込んでいた。


 港には倉庫が並び、船からの荷を運び入れたり、荷を船に積み込んだりしていた。

島に渡って来た者たちがおりると、本土へ渡る者たちが乗り込んでいく。


 屋敷から見えていた小さな船影は、近くで見ると、とても大きな物だった。

これほどの物が、どうしたら浮いていられるのかと不思議だった。

それでも中型の船で、もっと大きな物が本土の港には出入りしているのだと、亥助は言った。


「ちょっと待ってろよ。」


 目当ての船が到着したようで、亥助は寄りかかっていた壁からヒョイと背を離した。


「いいか、そこを離れるなよ。」


 そう言い置くと、亥助は人波を掻き分けて船に向かった。

下りてくる人の中に、知った顔を見つけ、小走りに近づいて行く。

中年の商人風の男と亥助は長いこと話していた。


 日吉は、ちょっとだけ、と岸壁へ歩いて行った。

海の近くは生臭い匂いがした。

勢いよく、波が岩に砕けて飛沫がかかった。日吉は、頬の滴を指で掬って舐めてみた。


 ──あ、本当にしょっぱいんだ。


 と、日吉は塩の味を実感した。

塩は海水から造るのだと、いつかお爺様が話してくれた。

海水は塩よりも、苦くて複雑な味わいだ。


「あんまり覗き込んでいると、落っこちるぞ。

おまえは泳げやしないだろうが。」


 動くな、と言ったはずだが──というふうに、亥助は眉間に皺を寄せた。


「大きな魚がいるよ。」


「ありゃあ、さばだろうな。」


「ご用意は済んだの。」


「ああ、済んださ。」


「ねえ、それは何。」


「旦那の薬だ。」


「そっちは?」


「煙草だ。

豊国から取り寄せた、上物さ。」


 亥助はいつになく、機嫌が良い。


「帰るぞ。」


「帰る、の。」


 日吉は名残惜しそうに言った。

寂しげな日吉の様子を横目に、亥助は背を向けて歩き出した。


 それでも、小僧はちゃんと付いて来ているか、と気になって、亥助は横に視線を向ける。

ちゃんと付いて来ているよ、と日吉は亥助を見あげて頬笑む。

けれど何度目かに見ると、日吉の姿が消えていた。


 亥助はぐるりと辺りを見回した。

遠く、飴売りの紙芝居に、子供たちが集まっている様子が見えた。

日吉は人垣の後ろに立ち、熱心に見つめていた。


「おまえは芝居が好きか。」


 亥助の声は、聴こえていないようだ。

紙芝居が終わると、日吉は満足そうに手を叩いていた。

頭から、亥助のことなど消えていた。

ふと、横に亥助がいるのに気づくと、バツが悪そうに日吉は頭を下げた。


「ごめんなさい。」


 亥助はわざと怖い顔をして、なにも言わずに歩き出した。

待って──と、日吉はあわてて亥助を追った。


 帰りの道すがら、日吉は楽しげに紙芝居の台詞を喋り続けていた。

一度聞いただけで覚えちまったのか──と感心し、思わず亥助は呟いた。


「それは、おまえの親父の血のせいなのだろうな。」







🌸  七  秘密  ─ ひみつ ─



「私の父様とうさまを、亥助は知っているの。」


「やっぱり、旦那が父親でないのは知っていたか。

じゃなきゃ、『お爺様』とは呼んでいないよな。」


 口を滑らせた亥助を、日吉は目を輝かせて見あげている。


「おまえの親父は旅芸人さ、よくは知らねえが、生きてりゃ、何処かの国を渡り歩いているだろうさ。

運が良けりゃ、いつか何処かで会えるかもな。」


 要らないことを喋るな──とは言われているが、村の者なら誰でも知っていることだ。

亥助は悪びれずに続けた。


「飛燕──て通り名で呼ばれているそうだ。」


「ヒ、エン。」


「飛ぶツバメ、って書くのさ。

たけえ所に張った綱の上でな、クルリクルリと宙返りをキめてみせるから、いつの頃からか『飛燕』と呼ばれるようになったんだとさ。」


 亥助は、人差し指をクルリクルリと回した。


「左肩の下あたりに牡丹の花みたいな痣があると、おまえの母ちゃんが言っていた。

俺は、おまえの父ちゃんに少しだけ似ているそうだ。」


「そうなの。」


 日吉はマジマジと亥助の顔を見上げていた。


 『遠目に見ると背格好が似ている。

 おまえは目障りさ、私の視野に入らないでおくれ。』


 あの高慢コウマンチキな女が、言ったのだ。


「──急ぐぜ、おまえのせいで遅れちまった。

 旦那が起きたら、大騒動だ。」


 亥助は大股で歩きはじめた。

歩幅の小さい日吉は、自然と駆け足になった。

日吉は息を切らせながら、亥助の後を必死で追い、坂の上の屋敷に辿り着くと、ペタンと座り込んだ。


「ねえ、亥助。

また一緒に連れて行ってくれる。」


 日吉は肩で息をしながらも、亥助を見あげて微笑する。


「おまえが秘密を守れたらな。

 いいか、今日のことは旦那に話すんじゃないぞ。」


「わかった。

きっとだよ、約束だよ。」


 立ち上がろうとすると、両の爪先に痛みが走った。

痛ったぁ──と日吉は呟いた。


「どうした、足をヒネったのか。」


 日吉は足を胸に引き寄せて、隠すようにした。


「なんだ、見せてみろ。」


 亥助は腰を落とし、日吉の右足のふくらはぎを掴んで靴を脱がした。

 足袋の小指の辺りに赤黒い染みが広がっていた。

足袋を脱がすと、小指の外側の部分に豆ができ、潰れて血が滲んでいた。

よく見ると、かかとにも酷い靴擦れができていた。


「なんで、言わないんだ。」


 言えなかった。

亥助が怖いから、というより、面倒をかけたら、もう町へは連れて行ってもらえないと思ったのだ。


 その夜。

一人きりの寝室で日吉は目を閉じ、昼間のことを思い返した。

町、大勢の人、大きなお船、通りに吹き込む海風、潮の匂い。

歩きづめでひどく疲れたけれど、またあの場所へ行ってみたいと日吉は強く想った。


 『おまえが秘密を守れたらな。』


「秘密」という言葉は、とっておきの飴玉のように、喉を転がり落ちて胸の辺りで甘く溶けた。

少し後ろめたい気もしたけれど、誰かと一つの事柄を共有していることに、胸がときめいた。







🌸  八  人誑し  ─ ひとたらし ─



 亥助がまきを割っている場所から、旦那様の部屋が見えていた。

縁側には、椅子に座った旦那様と日吉がいる。

旦那様の前で、日吉は人形を操って見せていた。


 人形は日吉の手作りだ。

町から帰って、何やら熱心に縫い物をしていると思ったら、あんな物をこしらえていたのだ。

人形劇は、どうやら昨日の紙芝居を模したものらしい。

話の筋は頭に入り、台詞回しもどうに入っている。

五歳いつつの小僧が大した役者だ、と亥助は手を休めて眺めていた。


 演目は『斑竹姑娘』。

斑文のある不思議な竹の中から現れた童女「竹娘」は、やがて美しく成長し、権力者たちから婚姻を迫られる。

しかるに、竹娘は次々と難題を出して求婚者を退け、貧しい竹取りの若者と晴れて夫婦めおととなるのだ。


 日吉は人形を操りながら、声色まで役に合わせて変えていた。

童子が芝居を演じて見せる姿は、可愛いらしく頬笑ましい光景だった。

旦那様は機嫌よく、うなずいたり手を叩いたりとしていた。


 劇が終わると、更に、日吉は飴売りの口上を述べた。


「♪~ 孝行糖、孝行糖。

 うるの小米に寒晒し、かやに銀杏、肉桂にっき丁字ちょうじ

 親を大事にしようとて、こしらえあげたる孝行糖。

 食べてみな、美味しいよ。

 チャンチキチ、スケテンテン。

 また売れた、嬉しいね。」


「ああ愉快だ、とても上手だよ。

こちらへおいで。」


 旦那様は手招きをした。


「よし、そなたに褒美を取らせよう。

なにをがよかろうか。

黄金の鐘、玉の木、火鼠の皮衣、海竜の分水玉、燕の産む黄金の卵、そなたの前に、この世の宝をすべて集めてみせようぞ。

さあ──なんなりと申してみよ」


 日吉は旦那様を真っすぐに見つめ、ゆっくりと首を横に振った。


「いいえ、私はなにもいりません。

私にとって、あなた様の喜ぶお顔こそが、なによりの褒美でございます。」


「おお何と。 可愛いことをう。

 そなたこそが、ぎょく

 なににも代えがたい私の宝ものだ。」


 旦那様は日吉の肩を抱き、愛しげに頭を撫でた。

日吉は旦那様の膝に頬を付け、愛猫のようにその身を預けている。


 亥助は鼻に皺を寄せた。

苦いものが込みあげていた。


 ──あの小僧。

 まだ乳臭いのガキのくせして、己の身の処し方をよく心得ているではないか。

 無垢なフリして、芸妓も顔負けの人誑ひとたらしだ。


 苦いものを噛んだように、亥助は唾を吐き捨てた。


 ──つい同情しちまった。


 あの可愛いツラに騙された。

子供が無垢だなんて、嘘だ。

ガキは弱っちいから、いつも大人の顔色を窺っている。

人を見て選り分ける。

下手に出るヤツは蔑んで、強面のヤツには媚びを売る。

なにか不始末をしでかし、都合悪くなるとビイビイ泣いて、こちらが折れるのを待つのだ。


 ──ああ、ガキなんて、大嫌いだ。


 亥助は薪を立て、斧を振り上げてガツンと真っ二つにした。







🌸  九  約束  ─ やくそく ─



「♪~

 孝行糖、孝行糖、うるの小米に寒晒し、かやに銀杏、肉桂にっき丁字ちょうじ~」


 日吉は歩きながら楽しげに口ずさんでいる。


「孝行糖」のはなしに出てくる唐の十二四孝・老莱子ろうらいしという者は、七十歳になる老いた身で、老いた両親の面倒をみていた。

この男は、常に童が着るような色鮮やかな衣装を着、童のような振る舞いをし、両親に甘えた。

配膳の時にわざと転び、童が泣くように泣てみせたという。


 この行動の真意は、年老いて見窄らしくなった息子を見て親が悲しまぬように、また、息子の老いを見て自らの老いを感じぬように、という配慮なのだそうだ。


 この話を聞いたとき、亥助は、装っていたのでなく、この男は本当に痴呆ボケてやがったんだろうと思った。


「ねえ亥助、今度はいつ、町に行くの。

もう足も治ったよ。


痛いの痛いの、遠いお山に飛んでいけ──亥助のおまじないのお蔭だよ。」


 一日中、日吉は亥助にまとわりついていた。


「本当はね、もっと町に居たかったんだ。

ねえ、今度はもうちょっとだけ、町を見て回ったらだめかなぁ。」


 靴擦れのひどい日吉を、亥助はおぶって部屋まで運んだ。

足を綺麗に拭き、傷口に薬を塗りながら、思ったことは溜め込んでいないで口に出せ──と言った。

日吉はその言葉を真に受け、亥助の しかめっツラにも気づかずに手前勝手に喋り続けていた。


 その日。

朝から亥助の姿が見えず、日吉は屋敷中を探して回った。

亥助はどうしたの──と弥平に尋ねると、町へ行ったと答えが返った。


 日吉はドキリとした。


 ──約束したのに、楽しみに、していたのに。


 門前で、日吉は亥助を待った。

私を置いて行ったことに気づいて、途中で引き返して来るかも知れない──そう、期待した。

けれど、日暮れまで亥助は帰らなかった。


「ねえ亥助、どうしてひとりで行ってしまったの。

約束を、忘れたの。」


 日吉を見て、面倒くさそうに亥助は口をひらいた。


「忘れたわけじゃない。

おまえが約束を破ったんだ。」


 思い当たる節がない──日吉は首を横に振った。


「誰にも話してないよ、本当だよ。」


 亥助は冷めた目を向けてきた。


「旦那の前で、おまえは人形芝居をっただろう。

ありゃあ、言ったも同然だ。」


「そんなぁ。」


「何処で見た──と旦那に問われたら、どうする気だったんだ。

旦那はボケているが、たまに正気のときもあるだろう。

どうだ──おまえは嘘をつくのか。

ひとつ嘘をついたらな、嘘を隠すために また嘘をつかなきゃなんねぇんだ。

嘘を嘘で塗り重ね、おまえは平気でいられるのか。」


 考えもしなかった。

お爺様に、喜んでもらいたい一心だったのだ。

日吉は口を閉じた。


 亥助は背を向け、歩きだした。

胸に、日吉を遣り込めたことへの罪悪感がある。

日吉が去り際に見せた悲しげな顔が、頭にチラつくのだ。


「糞がッ。」


 亥助は、そんな自分に酷く腹が立った。











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