【弐】 居場所



  一  居場所  ─ いばしょ ─

  二  孤児院  ─ こじいん ─

  三  商売  ─ しょうばい ─

  四  囚人  ─ しゅうじん ─

  五  親愛  ─ しんあい ─

  六  未練  ─ みれん ─

  七  存在  ─ そんざい ─

  八  友  ─ とも ─

  九  紫雨  ─ しう ─







🌸  一  居場所  ─ いばしょ ─



「先生は、誰からも相手にされず、野良犬のように暮らしていた私を気にかけてくださいました。

会うたびに声をかけ、ときには家を訪ねて来ることもありました。

しかし、当時の私は、先生の優しさを素直に受け入れることができませんでした。

なぜなら、先生は仕事を終われば島を去ってゆくのです。

それは、飼うつもりのない犬へ、気まぐれに餌を与えるようなもの。

残される者の気持ちなど、少しも考えず、その場かぎりに良いことをしたと自己満足にひたるその行為に、私は憎しみさえ懐いたのです。


 私は、先生を無視し続けました。

遠目に姿を見かけると隠れたし、あまりしつこいので、何度か面罵したこともありました。


 しかし、先生は私を見限ることはありませんでした。

そして、母を失ない、独りになった私に手を差しのべてくれたのも、先生でした。

先生は私に、一緒に暮らそう──と言ってくださいました。

先生の島での仕事が終わり、本土へお帰りになるときに、私も島を出ることになったのです。


 島を離れるその朝は、どんよりとした曇り空で、海は時化しけて波が高かった。

私は、本土へ渡る船のうえから、島影を眺めていました。

あの、息苦しい、牢獄のような島から出られたというのに、私の心は晴れやかではなかった。


 私には、『希望』がなかったのです。


 たとえば、歩き疲れ、もう一歩も前に進めないと思っていても、道の先に温かな灯が見え、あの場所に、喉の渇きを潤す水があるとののぞみがあれば、何処からか気力も涌いてくるものでしょう。


 けれど、私の立っている場所からは、なにも見えなかった。

道はなく、地はただ果てしなく広がっており、どちらに進んで行くべきか、見当もつかなかった。


 それ以前に、私は、何処へ行こうとも考えてはいなかった。


 私には、帰れる場所がなかったのです。

私にとって『居場所』とは、故郷や特定の住居ではない。

愛する人の隣が、私の居る場所だったのです。


 私は、母を愛していました。

どんなにうとまれようと、母は私の唯一無二の人でした。

母がいなくなったことで、私が島に留まる理由も消えていました。


 思えば、島を出ることなど、さほど難しいことではなかったのです。

ただ、船に乗りさえすればよかったのだから。

私が島を出てゆかなかった理由──それは、そこに母が居たからです。


 愛しい人がいないのこの世に、価値はなかった。

生きていることが、無意味だった。

私は、自らの行く末に、なんの希望もいだいてはいなかったのです。」







🌸  二  孤児院  ─ こじいん ─



「私は、先生の住まいである慈照院じしょういん(孤児院)で暮らすようになりました。

そこには、農作業に従持する男女十名ほどの大人と、様々な事情で孤児となった三十人ほどの子供がおりました。


 私は、戸惑っていました。

集団での生活を経験したことのない私には、慣れないことが多く、人にも馴染めずにおりました。


 私は、折に触れ、島で先生と過ごした数日を思い返しました。

先生は、片時も離れず側に居てくださいました。

一人で宿舎に置いておかれることなどはなく、先生は仕事の場へも私をともなわれました。

先生は私に様々なことを語ってくださいました。

野の草花や虫の生態に詳しく、それに関連するご自身の幼少期のことなども、語ってくださいました。

いつも、先生は夜更けまで書き物をしておられました。

私はその広い背中を眺めながら、眠りについていたのです。


 先生は、私にとってかけがえのない唯一の人でした。

先生には、私だけを見ていて欲しかった。

けれど、施設には私と同じような境遇の子供たちがいました。

先生の子は私だけではない、私は、大勢の内の一人でしかない。

その事を知り、こんなはずではなかった──と不満を懐いたのです。


 私は、先生を独り占めにしたかった。

先生の気を引きたくて、反抗的な態度を取るようになりました。

振り返ると、恥ずかしくなります。

私は幼く、不満だらけで、つまらない屁理屈をこねては先生を困らせていました。

それは、まことの親のように、先生を慕い、甘えていたのです。

心の底では、どんな態度を取ってもこの人は許してくれる、この人は私を見捨てたりはしない──そんな、確信めいたものがあり、やるかたない憤懣ふんまんをぶつけていたのです。


 私は、読み書きの授業には出ず、農作業も手伝わず、昼間は木陰で眠っていました。

日が沈み、あたりが暗くなると、塀を乗り越えて街の近くまで歩いて行きました。

夜風に吹かれながら川縁を歩くのが、私は好きでした。

向こう岸の賑やかな様子を眺め、流れてくる端唄に声を合わせて歌う──想えば、市蔵と出会ったきっかけも、歌でした。


 市蔵たちと交流するうち、これまでに見なかったものを、見るようになりました。

私は井の中の蛙で、世の中というものをまるで解っていませんでした。

世の中には、貧富があり、身分の差がある。

私は、お爺様から、身分の卑しい者たちは前世で罪を犯し、それを償うために今生で苦しみを味わっているのだと教わっていました。

しかし、そうした教えにも疑念を懐くようになりました。


 施設は、十五になると自分の意志で身の振り方を決めるきまりがあります。

私は市蔵たちと行動を共にすると決め、施設を出ました。

以前に市蔵が話したとおり、町の浮浪児たちを集め、商売をはじめたのです。」







🌸  三  商売  ─ しょうばい ─



「市蔵は南の生まれです。

出会った当時、市蔵も、私と同じ孤児でした。

両親と死別してから、薬の行商をしていた母方の伯父に引き取られ、伯父の商売を手伝っていたそうです。

ですが、その伯父も、不慮の事故で亡くなり、市蔵はひとり、都へのぼって来たのです。


 私たちが扱っていた品物は、おもに高山に生育する希少な薬草と、寄せ木細工の工芸品でした。

南の山岳地には、スサ(須叉)の末裔といわれる人々が住んでいます。

その人々は、いまでも不当な差別を受けています。

市場で直接品物を売る権利を、持てずにいるのです。


 市蔵は商いに明るく、豊国の商人との繋がりを持っていました。

私たちは、仲買人に買い叩かれていた品を適正な価格で買い取り、南の港から船に積んで豊国へ運んでいました。

当時は、豊国の船については検閲がゆるく、いまのように規制も厳しくはなかったので、役人を懐柔するのも容易でした。


 商いは、少しずつ利益をあげていきました。

一つの商売が上手くいくと、また一つと、事業を広げていきました。

噂を聴き、私たちに品物を売ろうという者もあらわれました。

豊国への密輸だけでなく、国内での商いにも手を出すようになりました。

扱う品も様々でしたが、たとえば、農家から作物をじかに買い付ける。

相場より少し高く買い、それを市場の価格より少し安く売る── 一つの品の儲けは少ないけれど、量を多くサバけば利益をあげられます。

売り手にも買い手にも喜ばれ、私たちも調子づいていったのです。


 私は、匿名で施設に寄付をしました。

私たちの商売は違法であるけれど、私には罪を犯して侵しているという自覚はありませんでした。

だから、時々イイ格好をしたくて、施設に顔を出しました。

これ見よがしに、甘いお菓子や玩具を手渡し、子供たちを喜ばせていました。


 しかし、先生は私の行為をこころよく思っていませんでした。

私の商売と施設への寄付を知り、『商売をやめないのなら、ここへは来るな』とおっしゃいました。

私には、納得のいかないことでした。

盗みをしたわけではないし、喜んでいる人がたくさんいたのです。

どんな手段で手にいれようと、金は金。

施設の財源は乏しいのだから、知らぬ顔をして受け取っておいたらいいのに、そう思っていました。


 私はまどか様が、先生に内緒で親類縁者を回り、金の無心むしんをしているのを知っていました。

当然、返す目処めどもない金ですから、快く貸そうという者はありません。

円様は、さげたくない頭をさげ、ご自身の持ち物を質種にし、遣り繰りをなさっていたのです。

なのに、実状を知らず、先生は綺麗事ばかりを言っている。

私は先生を、愚かであると思いました。


 私の心にはおごりがありました。


 一方で、正規に商売を営む人々は不満を募らせていました。

私たちは頻繁におどしや妨害を受け、身を守るために武装するようになりました。

日々、何処かで小競り合いが起き、そして、ついに決定的な事態となりました。

商いの均衡を乱され、不利益を被った者たちが、やくざ者に私たちの始末を頼んだのです。」







🌸  四  囚人  ─ しゅうじん ─



「商売は立ち行かなくなりました。

やくざ者の脅しを受け、私たちに品物を売ろうとする者はありません。

さらには、売られた喧嘩だ──と言って一部の者が暴走し、怪我人や死人を出す事にまで発展していました。

気がつけば、引くに引けない状況に陥っていたのです。


 三喜みよし川の河原を挟んで、私たちと迅水組の者たちが対峙していました。

闘いがはじまる、一触即発という場面でした。

そこで、『待て』と声がかかったのです。

声を発したのは、迅水組の兆爾ちょうじ親分でした。

親分は人情に厚い方で、年若い私たちになさけをかけてくださいました。

商団を解散すること、商団のかしらである初音が国を去ることを条件に、騒動を手打ちとしたのです。


 市蔵は、私が初音を連れて逃げたのだと言いましたね。

承様は、私たちが駆け落ちをしたのだと、思われたでしょう。

けれど真実は、そんな甘い恋物語ではなかった。

ようするに、私たちはこの国から追い出されてしまったのです。

それに、初音は血を分けた姉に等しく、恋だの愛だのとは無縁の関係であったのです。」


 諭利は承に目を合わせ、がっかりなさったでしょう──と、すまなそうに頬笑んだ。


「お爺様が亡くなったことによって、私の生活は一変しました。

人生は、一寸先になにが起こるかわかりません。

とくに子供のうちは、親の生き方に自分の運命を左右されがちです。

私は、無知で無力でした。

それゆえ、木葉のように、波に揺られるままに流されてしまったのです。」


 母がいて、お爺様がいて、弥平と亥助がいる──そんな日々が続いていくものだと疑いもしなかった。

けれど、あの時、私の側にいた人たちは、ひとりもいない。


「私はこの国を出る時、生き直したい──と思ったのです。

生まれ変わる、という意味で新しい名を得、人生をそこからはじめたいと思い、先生に名を授けていただいたのです。


 しかし、だからといって、まったくの別人になれるものでもありません。

良くも悪くも、過去の積み重ねがあっての、『私』です。

そのことを、私は長い旅路のなかで知りました。


 ある時、豊国を旅していて、罪人の護送に遭遇いたしました。

罪人は三人、その男たちは、悪名を馳せた盗賊団の一味でした。

籠の中の罪人は、囚人用の襤褸ボロを着ており、髪はざんばら、顔髭も延び放題、拷問を受けたためか顔に生々しい痣がある。


 足を止めて見ていると、ふと、罪人のひとりと目が合った。

気のせいではなく、その罪人は私をじっと見返していた。

腫れ上がった目蓋によって、右目は半ば潰れていたけれど、虚ろな目は、フッと和んだように映った。

私は、不思議な気分で罪人の籠を見送りました。

遠ざかるその姿を、小さくなるその背を、私は覚えている。


 それは、亥助でした。

亥助が堅気の男でないと、私はそれとなく感じていました。

そもそも弥平とは親子ではなく、盗賊の仲間であったのです。

亥助が私の前にあらわれた時、大掛かりな盗み働きを終えたあとで、島に来たのは追っ手をかわすためであったのです。」







🌸  五  親愛  ─ しんあい ─



「憶測ですが、年老いて、盗み働きができなくなった弥平は、島で金の管理をしていたのではないかと思うのです。

そして、お爺様も、その事になんらかの関わりがあったのではないかと思うのです。

そうすると、私は盗賊に養われ、共に暮らしていたことになるのです。


 お爺様が、何処の国のなんという貴族か、私の口から申し上げることはできません。

私が語ったことも、すべてが真実であるとは限りません。

遠い昔のことですし、記憶にも曖昧な部分が多いのです。」


 ──夢、物語。

 今、諭利と向き合っているこのときこそが、夢であるように承は感じていた。


「先ほど、あなたと川に落ちたとき、遊吉様と旅をしていた頃のことを思い出していました。


 真夏、河原にはジクジクと蝉の声が響いていました。

行く手には、村の子供らが二手ふたてに分かれ、陣取りをしているようすが見えました。

遊吉様と私は、釣り糸を垂れながら、しばらくを眺めていました。

そして、不意に遊吉様は腰をあげました。

形勢が悪くなっている側の陣へ歩いて行かれ、子供たちに、なにやら耳打ちをして回ったのです。

すると、子供たちの動きに変化があらわれました。

自分の役割を与えられ、めざましい活躍をはじめたのです。


 しかし、一方に知恵を授けたのでは公平を欠きます。

ですから、反対側の陣へ、私は加勢をすることにいたしました。

こうして私たちは軍師の真似ごとをし、半日近く子供たちと遊んでおりました。


 昼を過ぎ、腹も減ってきたので、皆で川に入り、捕った魚を焼いて食べました。

日中、笠も被らずに陽に当たっていたので、後日、焼けた肌がいつまでもチリチリと痛んでいたことを、覚えています。


 あの方と旅をしているときには、私も時折、童心に帰っていました。」


 心に懐かしい風景を描き、諭利は顔を和ませていた。


「あなたは、遊吉が好きなのですね。」


「ええ、好きです。

人間味あふれる、愛らしいお方です。

あの方の姿には、学ぶことが多くありました。


 旅をしていると、人の『死』に幾度となく立ち会いました。

多少なりと関わりのある者から、名も知らぬ者まで、様々な人の死に遭遇いたしました。

死は、生きることと表裏であるけれど、やはり、受け入れ難いものです。

それは、親しい者の死であれば、尚のこと。


 私が、遊吉様のもとでご厄介になってから、半年ほど過ぎた日のことです。

偶然に、私はある人の『死』を耳にいたしました。

その人は、私に情愛を教えてくれた人でした。

私の中に眠っていた様々な感情を呼び覚まし、大切なことを気付かせてくれた人でした。


 別れてから、二年が経っておりました。

私はその人を、とても愛していて、愛しているからこそ、身を退かなくてはならなかった。

別れても、片時も忘れることはなかった人。

その人が、この世から消えてしまったと知り、私の頭の中は真っ白になりました。

そして、胸には見えない針が、付き刺さっておりました。」







🌸  六  未練  ─ みれん ─



「その針の、小さな傷は、癒えることはありませんでした。

心の臓が動くたび、じわじわと血を流し続けていたのです。


 独りきりの夜には涙が流れ、しばらくしてから、自分が泣いていることに気付くのです。

私は、どこか壊れかけていました。

風にさらわれる砂のように、崩れていく己を、己ではどうにもとめようがありませんでした。


 なにも言ないけれど、遊吉様は異変を察し、私を旅にお誘いくださいました。

遊吉様の供をして各地を巡るうち、流れていた血はとまり、胸に刺さった針の痛みも和らいでゆきました。


 はじめは、あの方は子供のような無茶をなさるので、こちらが大人になり、保護をするつもりで付き添っていたのです。

けれど、あまりにも奔放な姿を見ていると、どうにも童心が疼いて、気づけば、一緒にはしゃいでいるのです。


 その旅は、絵の注文を請け、遠方の豪商のもとへ向かう道行でしたが、それとは別の大事な目的を兼ねていました。

遊吉様に、王より直々に襖絵のご依頼があり、絵の題材を求めての旅でもあったのです。


 そのころ、都は長年の念願であった王子の誕生に沸いておりました。

豊国の王には、お妃様とのあいだに姫君が二人、ご側室との間にも姫が五人と、男児に恵まれずにおりました。

そこへ、蘭氏の娘が入台し、すぐに懐妊、翌年の春に王子を産んだのです。

王は大変お喜びになり、蘭貴妃への褒美として、祥瑞しょうずい湖のほとりに御殿の建設をお命じになりました。

その、殿中の襖絵のすべてを、遊吉様が監修なされることになったのです。

絵師遊吉、一世一代の大仕事でございます。


 私は遊吉様と、四季折々の景象を眺め歩きました。

童心にかえった私の目には、刻々と姿を変える自然の色彩が、一層鮮やかに映りました。

そこに生きる名もない花や小さな虫の命さえ、尊く感じられました。」


 諭利の瞳に静謐が満ちた。


「愛しい者を亡くしても、人は、生きていかねばなりません。」


 諭利は、自らに言い聞かせるように言った。


「その人と過ごした日々の記憶は、私が生きた証です。

この胸の痛みは、その人が生きていたことの証です。

決してこの身から切り離すことはできません。

私は、この痛みと共に、生きるてゆくと決めたのです。」


 襟元を開き、諭利は首から下げた物を取り出した。

それは小粒の猫目石を連ねた数珠だった。


「これは、その人から頂いた物で、いまでは形見の品ともなりました。

その人が、幼い頃より肌身につけていたもので、一連の数珠を二つに分け、一つを私にくださったのです。


 別れたのち、人伝いに私の元へと届いたこの品を見、これに託されたあの人の想いを、強くなりたい感じました。」


 諭利は右手を胸に添えた。


「針は、いまもこの胸に留まったままです。」


 そして、髪の束を前に流し、指先を差し入れた。


「その人が、この髪を美しいと褒めてくださいました。

こうして指をとおされ、『月の光をり合わせたようだ』と言ってくださいました。


 未練です。

伸びるまま、いまではこんなに長くなってしまったけれど、あの人が指を通したこの髪を、私は切ることができずにいるのです。」







🌸  七  存在  ─ そんざい ─



 美しい──その髪に、幾度となく触れてみたいと思った。

 諭利の髪は、見知らぬ「その人」の形見のように思われ、一層、触れてはならないものように感じられた。


「女々しいと、思われるでしょう。」


「いいえ、忘れ難い想いは、あなたの情の深さゆえ。

最愛の人を亡くされたのですから、無理もありません。」


 ──あなたに、それほどに愛されたその方は、お幸せです。


「私に、この品を渡してくれた人は、私たちの事情をよく知っておりました。

何処に在ってもあの方は、あなたの幸せを祈っておられます──と言い、生きて幸せを掴むことが、あの人への供養であると、私を諭されました。


 いつまでも、悲しみに暮れていてはいけない。

あの人に、そして私の背をそっと支えてくださった方々に、前を向いて歩く姿を示さなくてはならない──そう、思うようになりました。」


 諭利は、一呼吸おいてから、静かに言葉を発した。


「私は、ふたたび恋をしたいと思っています。

いつの日にか、愛し合える人に巡り会えたなら、二人で店を営み、共に生きてゆきたいと思っております。」


 諭利は、あらためて承を見つめる。


「承様、私と『友』になっていただけますか。

この地で、真に友と呼べる者は、市蔵しかいないのです。

──お嫌でしょうか。」


「嫌だなんて──私などでよろしければ、ぜひお願いします。」


「ありがとうございます。

少しずつ、私のことを知ってください。

そして少しずつ、あなたのことを話してください。

互いの事を語り合い、いつか真の友になれると嬉しいです。」







🌸  八  友  ─ とも ─



 承に頬笑みかけ、諭利は言葉を継いだ。


「しかし、年若い友人を持つのは、こちらも若返った気分になって愉しいですね。

おかしなもので、子供の頃には、商売で大人と対等に渡り合うため、容姿で見くびられたりしないよう、早く大人に成りたかった。

しかし、大人になると、もう取り戻せない少年の日々を懐かしみ、惜しんでみたりする。

人は、無い物ねだりです。」


 たしかに──と、承は神妙な顔で呟いた。


 ──いま、私は、早く一人前の男にならなければと焦っている。

 ときに、己がとても小さな存在に思える。

 他者ひとと比べ、自分は劣っている、遅れをとっている、と感じる。

 成果の出ない努力を続けるのが辛くなり、時折、虚しさを抱いてしまう。

 私の歩いている道は、正道なのだろうかと疑問をもち、不安になる。


「焦る必要は、ないのです。」


 承はドキリとして諭利を見た。


「急いでいる時には、大切な物事を見落としがちです。

どうぞゆっくりと、大人に成られてください。」


 諭利には、よく心のうちを言い当てられる。

すべて見透かされているようで、恥ずかしくもあり、快くもある。


「今日はこれ位で、話しは止めておきましょう。

夜も更けて参りましたからね。」


「そうですね。

少しだけおじゃまするつもりが、長居をしてしまいました。」


 まだ、こうして諭利と語り合っていたい気もするけれど、承にも帰ってやるべきことがあった。


「まだ引っ越して来たばかりで、家内の片付けも済んでいません。

また、ゆっくりとおいでください。」


「ええ、また寄らせてもらいます。」


 ふたたび諭利は承を、二人して落っこちた川の側まで送って行った。







🌸  九  紫雨  ─ しう ─



 三尺の花房の連なりは、さながら紫の雨のようだった。


 その日、諭利は文長から教わった藤の名所を訪れていた。

藤棚の下の長椅子に腰かけ、団子の串を手に一休みしていると、隣に若い男が腰をおろした。

何気なく顔を傾け、姿を見た。

男は少しだけ笠をずらせ、正面を見据えたまま言った。


「知らないふりをしてください。」


 男はすぐに笠を戻した。


「この顔を覚えておいでですか、そうならば椅子を二度、叩いてください。」


 諭利は指先をトントンと弾ませた。

男の顔は、あの夜、月兎ソエルの傍らにいた女の顔と同じだった。

人形のように端正な、それでいて人の印象に残らない顔立ち。

同じ人物でないのは明白だが、酷似していた。


あるじの使いで参りました。

主の言葉をお伝えします。

あなたをこの国に迎え入れるそうでございます。」


 月兎から先に接触をして来た。

何故──という諭利の疑問に答えるように、男は言葉を継いだ。


「ある方が、主に書状を寄越して来たのです。

あなたの身元を保証し、あなたの行動に責任を負うと書かれてありました。

つくづく、あなたは恵まれた方でございます。」


 月兎の側には 、こうした似た顔の従者が幾人もいるのだろう。

見当違いをしていた。

諭利は、兎の仮面の者が影武者で、言葉を伝えていた従者こそが、本物の月兎だと推測していたのだ。


「あなたが会ったのは、私の姉です。

歳は親ほど離れておりました。


 私は、あなたに会いたいと思っていました。

姉は、主にすべてを捧げていました。

誰よりも長く側に仕え、主も姉を信頼していました。


 それが、姉は一度だけ、主に背いたのです。

あの時、姉は主の言葉を正しく伝えなかった──故に、罰を与えられました。


 主の言をたがえた罪の代償として、葡萄の実一粒ほどの肉を、違えた言の数だけ、刀でくり抜いていくのです。

美しい姉の体は、蜂の巣のようになりました。

話す事も、聴く事も、見る事も適わず、いまも闇で生かされております。


 刑を受ける前、私は姉と言葉を交わしました。

どうして、そんな大それたことをしたのだ──そう、問わずにはいられなかった。

そして、姉は頬笑み、言ったのです。

惚れてしまった、抱かれてみたかったのだ──と。


 年若い私には、姉の真意がわからなかった。

けれどいまなら、なんとなく理解ができる。

主といい、姉といい、人を惹きつけるなにかを、あなたはお持ちのようです。


 恨みごとを言うつもりはありません。

ただ、見返りを求めず、あなたを救いたいと思った姉の真心を、どうぞ心の隅にお留め置きください。」


 ──我らには名すらない。

 人知れず生き、人知れず死ぬ。

 実体ある「人」として、誰かの記憶に残りたいと願っては、いけないのでしょうか。


「お喋りが過ぎました。

お別れです。

もう二度と、お目にかかることはないでしょう。」


 男はスッと立ちあがった。


「あなたは姉を覚えていた。

私は、あなたの記憶に残れたでしょうか。」


 諭利は、指先で二度、椅子を叩いた。











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