櫻の国【月光】 亥助・蜉蝣島

アマリ

【壱】 水飛沫



  一  水飛沫  ─ みずしぶき ─

  二  郷愁  ─ きょうしゅう ─

  三  庵  ─ いおり ─

  四  陰影  ─ いんえい ─

  五  性分  ─ しょうぶん ─

  六  母  ─ はは ─

  七  お爺様  ─ おじいさま ─

  八  別れ  ─ わかれ ─

  九  遺児  ─ いじ ─ 







🌸  一  水飛沫  ─ みずしぶき ─



「では、ここで失礼いたします。」


 会釈をすると、諭利ゆりは身をかがめて助走をつけた。


 ──あッ、


 とっさに、しょうが振り返る間に、諭利は川を飛び越えていた。

ゆさり、と艶やかな黒髪が美しくたわみ、落ちる。

鳥が羽を仕舞しまうように着物を瞬時に整えて、諭利はすっと立ち上がる。

つむじ風のような人だ、と承は思った。

時にこうして諭利は予測のつかない行動をとる。


 振り向いて、諭利は得意げに頬笑んだ。

向こうとこちらで、しばらく歩調を合わせていたが、二つ目の辻で、諭利は足を止めた。

承に一礼すると、小道へ入ってゆく。


 ──飛んでみようか。


 夕陽を受ける背を見つめながら、ふと、そんな考えが頭に浮かんだ。

跳べない距離ではない。

あちらの方が少し低くなっている。


 承は木刀を荷物袋にくくりつけ、向こう岸へ放り投げた。

何だか飛びたい気分だ。

失敗したって構うものか、落ちたついでに川を泳いでやる。


 ──やってやる、よし、行くぞ。


 相撲を取るみたいに腰を落とし、踏ん張った両の太腿ももを叩いて気合いを入れた。

助走の幅を長めに取り、思い切り岸のへりを蹴った。

びゅん──と、風の音が耳を打つ。

川の流れに沿って冷たい風が吹いている。

ほどなく片足が地に届く。


 ──飛べた。


 と、確信した瞬間、強い向かい風を受けて承の体は、ぐらりと後ろへ傾いた。

大きく開いたまなこに、駆け寄って来る諭利の姿が映りこんだ。片手を伸ばし、落ちかける承の腕をつかんで体を引き戻す。

諭利の胸に受け取られ、承はすっかり安堵あんどした。


 ところが。

 どぼん──と、水に落ちた。

頭まで沈んで浮き上がり、承は顔を覆う水を片手で削ぎ落とす。


「残念、あと少しでした。」


 承の目前で、同じように浮かびながら諭利が言う。

何処か愉しげである。

諭利は先に石垣を登り、承へ手を差しのべてきた。

承は手を取った。

石垣に足を掛け、水面から上がろうとすると、途端に水を吸った服の重さを感じた。


「ごめんなさい。

あなたを巻き込んでしまいました。」


「いえ、構いませんよ。」


 服をしぼりながら、諭利が云う。

溢れ出た水は、ざっと流れ落ち、足下の土を黒く変えた。


 ──また、やってしまった。


 水を含んだ服が肌に貼り付き、冷えた体を、風がさらう。


「私の家に、お寄りください。着物の替えをだしましょう。」


 承は、すまなそうにうなずいた。







🌸  二  郷愁  ─ きょうしゅう ─



 こちらです、と頬笑み、諭利は先立って歩いた。

 夕闇を映す青黒い水の上を、静かに風が渡ってゆく。

代掻しろかきを終えたばかりの水田が続く農道を、二人はひたすらに歩いた。


「独り身ですから、寝る場所さえあればいいようなものですが、そこヽヽを訪れた瞬間、言い知れぬ懐かしさを覚えたのです。


 初めは、長屋暮らしをしようと考えていたのですよ。

良くも悪くも他人ひとと触れ合う、そんな生活を思い描いていました。

ですが、そこを訪れたとき、瞬時にある場所を思い出したのです。

そこは、以前住まわせていただいていた吟仙ぎんせん清張きよはる)さんの御宅の離屋はなれに似ていたのです。

お帰りなさい、と、柔らかなかいなに抱き留められた心地がいたしました。


 人との出会いがあるように、家とも出会いがある。

──即座に、ここで暮らそう、と決めました。」


 諭利は顔を上げ、指差した。


「あちらです、──あの坂の上です。」


 長い緩やかな坂の先に、小さないおりが見えている。

二人の足取りは、坂に向かって自然と速まった。


花菱はなびし、という染め物屋のご隠居が、ついすみかとして建てた庵です。

その方は、五年ほど前に他界され、その後は誰も住む者がなかったそうで、建物の所々に傷みが生じています。

庭木も少々伸びすぎていますし、柵を結わえる紐も弛んでいる。

一見では気づかないけれど、生活をしていると、色々と不具合が見えてくるものです。

今は、家屋の修繕で手一杯なのですが、ゆくゆくは、庭も手を加えたいと考えています。

職人ひとの手を借りず、私の好みに仕立ててゆくつもりです。

縁側に座り、何処に何を配置しようかと思い巡らすのは、楽しいですよ。」







🌸  三  庵  ― いおり ―



「どうぞ。」


 柵を引いて、諭利は承を招き入れた。

確かに庭木は伸びるままの風体だが、取り立てて見苦しいところはない。

雑草は抜かれ、玄関の周りは綺麗に掃き清められている。

そして、不思議なことに、家には明かりが点っていた。


 敷居をまたぐと、人の気配を感じた。


「──ただいま。」


 顔を和ませ、諭利は奥にいるだろう誰かに呼びかけた。


「お帰りなさいませ、旦那さま。」


 前掛けで濡れ手をぬぐいながら、愛らしい、十歳とおくらいの娘が現れた。


「隣家の子です。

隣、といっても、裏の坂をずっとくだった場所です。この子の父親が、家主から家の管理を任されていて、私がここを借りると決まってから、毎日掃除を手伝いに来てくれているのですよ。」


 娘は、承を見て、身分の高そうな方と察したようで、被り物を取って頭を下げた。


小鈴こすずと申します。」


 愛想よく、娘は頬笑んだ。


「承です。」


 ──あら? 


 一瞥した小鈴は承の髪が濡れていることに気づいた。

髪とはいわず、全体が、桶で水を被ったように ぐっしょりと濡れている。


 ──夕立ちにでも、遭われたようなお姿だこと。


「待っていなくてもいいのだよ。

暗くならないうちにお帰りと、云ったはずだよ。」


「今朝、お会いできなかったので、旦那さまのお顔を見たくて、お帰りを待っていたのです。」


 真っすぐに、小鈴は諭利を見つめて云った。

そして、その目は自然と諭利の着衣に注がれた。

小鈴は、諭利の頭から爪先までを眺め、首をかしげた。


「お二方とも、何故そんなに濡れていらっしゃるのですか?」


 率直な疑問に、承は苦笑するしかなかった。


「川をね、飛び越えようとして落っこちてしまったんだよ。」


 諭利が云うと、「まあ、」と小鈴は片手を口に添え、「子供のようですね。」と、くすくす笑った。


「後で家まで送るから、もう少しだけ居てくれるかい。

承様に、着替えを出して差し上げて。」


「ええ、ぐにお持ちします。」


 土間を上がり、小鈴は、部屋の奥の箪笥たんすから二人分の着替えを選んで来た。







🌸   四  陰影  ─ いんえい ─



 背丈が違うのだから仕方ない、と胸のうちで言い訳をしながら、承はズボンの裾を随分と折り返した。


「すみません。」


「いえ、本当に気になさらないでください。」


 実はね、と、諭利は申し訳なさげな表情をつくった。


「私は、あなたを支えられたのですよ。

あなたが水に落ちる姿を見たくなって、あなただけを落とすのは気が引けたので、一緒に落ちた次第です。

謝るのは私の方です、──ごめんなさいね。」


「はあ。」


 言わずもがな。

どうにもこの人は、ひとをからかって愉しむふしがある。


「──でも。

落ちたって構わない、と思ったでしょ。

子供みたいな無茶むちゃをやってみたくなって、川を飛ぼうなんて、したのでしょ?」


 たしかに。

川を飛び越える諭利の姿を目にしたら、胸がわくわくして、思わず、やってやれ、という衝動に駆り立てられたのだ。


 承の表情を見て、ねえ、そうでしょ、と、諭利は悪戯っぽく頬笑んだ。


 ちょうど着替えを済ませたところへ、小鈴がお茶を運んできた。


「ありがとう、温まるよ。

すっかり暗くなってしまって、親父さんが心配しているだろうから、お茶これを飲んだら送ってゆくよ。」


「いえ。

お客様がいらっしゃるではありませんか、お待たせしては失礼です。

私は一人で帰れます。」


「承様、お待ちいただいてもよろしいでしょうか。

暗く寂しい山道です。

やはり、女の子を一人で帰らせるのは心配です。」


「どうぞ、私ならお構いなく。

送ってあげてください。」


 承の言葉を受けると、諭利はスッと茶を飲み干し、黙ってお帰りにならないでくださいね、と念を押して部屋を出た。


 独りになった。

 茶を啜ると、そのささやかな音が反響する。

訪れた時刻のせいでもあるのだろうが、寂しい場所だ。

それに、庵は村里から遠く離れた場所にある。

家の前の坂一つをとっても、老人が暮らし易い場所とは思えない。

利便性を欠いたこの地を選んだことには、元の家主の並みならぬ想いがうかがえる。

承のなかで、言い知れぬ懐かしさを覚えた、という諭利の言葉と、故人の想いが重なり合った。 


 人目に触れない部分では、こうした静寂を愛する人なのだろう。


 承は、諭利の姿を胸に浮かべた。

以前から、諭利のたたずまいには不思議な静けさを感じていた。

やすらかであり、懐かしさもあり、その姿は美しくも物悲しい、春の夜に浮かぶ朧月を連想させる。

諭利は、今まで出会った誰とも、似ていない。

満ち欠けする月のように、会うたびに違った印象を受ける。

自分より十も年上で、様々な経験を経た大人であるけれど、ときにした子供のようなまねをする。


 気づけば、こうして諭利について思い巡らしている。

諭利に惹かれる。

出会ったころより、諭利を知りたいと思う気持ちが強くなっている。







🌸  五  性分  ─ しょうぶん ─



 諭利は、その優しげな姿からはとてもうかがい知れない、危険な部分を持ち合わせている。

迅水じんすい組の市蔵いちぞうという男と昔馴染みで、以前、共に闇商売をしていた仲だった。

そして、十年振りに市蔵と再会した夜、承の目の前で、諭利は組の荒くれ者たちをに、鮮やかな立ち回りを演じた。

諭利の歌声を初めて聴いたときと同様に、承はその姿に強く惹かれた。


 『騙されてはいけません。

 こいつは、本当に悪い男なんです。』


 市蔵が、冗談めかして云っていた言葉が、承の胸の内で反芻されていた。


 悪い男。


 その総称は、少年の間で英雄的な意味を持つ。

それが市蔵の、組のカシラの留守を預かるほどの男の口から発せられたことにも、重要な意味がある。


『悪い男』の値打ちが、数段にハネ上がるのだ。


「──お待たせ致しました。」


 戻ってきた諭利の、黒い着物の肩口には、蜘蛛の巣が引っ掛かっていた。

承の視線を追って、諭利は肩に目を向けた。


「近道を、通ったのですよ。」


 苦笑しながら諭利は糸を外し、着物に絡んだ枯れ葉や埃を土間で払い落とした。


「とてもしっかりとした、感じの良い娘さんですね。」


 承は頬笑んで云った。


「ええ、愛らしいでしょ。

よく気がついて、働き者です。

幸い、私のことをとても好いてくれているので、今から手元に置いて、私好みの女人に仕立てようと考えているのです。」


「はあ。」


 承の困った顔を見て、諭利は苦笑した。


「小鈴の父親は、農作業中に倒れ、右半身が不自由になってしまったのです。

母親は近所の農家の手伝いをし、姉は旅館の中居をして生計を立てています。

あの子は昼間、体の不自由な父親の世話と、家事の全てを引き受けているのですよ。


 ここに住むと決まって、私が掃除をしに来た日、お昼に小鈴が握り飯を持って来てくれました。

麦飯を握ったものが二つに、大根の漬け物が添えてある簡素なものでしたが、私は、なによりあの子の心遣いが嬉しかった。

小鈴は、父親の世話で毎日、ほとんど家から出ずに過ごしています。

束の間でも、ここを訪れて私と語ることで、気分転換になればと思うのです。」


 諭利は、茶を淹れ直して承にすすめた。


「──なんて。

本心ではね、私の方が小鈴にここへ来て欲しいのです。

あの子が、ああして帰りを待っていてくれることが、嬉しいのです。

帰ると、家に明かりが点っていて、ただいまと云うと、お帰りと迎えてくる、──とても、幸せなことです。

そんな相手のいる暮らしに、私は憧れを持っているのですが、一ヶ所に長くとどまっていられない性分で、いまだに相手に恵まれずにいます。


 これは、私の父の血のせいかもしれません。

私の父は旅芸人をしているのだそうです。

私が芝居の真似事をしているのも、そのせいなのかもしれません。」







🌸  六  母  ─ はは ─



「父には会ったことがありません、私が生まれた事さえ、知らないのです。」


 諭利の口から父親の話しが出たので、承は思わず、母親はどんな人かと訊きかけた。

芙啓ふけいのもとに引き取られていたのだから、既に他界したか、生き別れたかしているのだ。

そんな事を、根ほり葉ほりと聞くのは気が引けた。


 諭利は、承が自分を気遣っている様子を好ましく思った。

好意があるからこそ、相手を知りたくなり、色々と訊ねてみたくなるのだ。


「私の生い立ちに、興味がお有りなのですよね。

いいですよ。

自分の事を語らない人間は、信用してもらえませんからね、お話ししますよ。」


 諭利は頬笑んだ。


「ご推察のとおり、母は既に亡くなっています。

母を亡くし、独りきりになった私を、先生が引き取ってくださったのです。


 生まれ故郷は、磐音いわね島です。

そこで十二の歳まで暮らしました。

先生に連れられて本土へ渡るまで、私は一度も島を出たことがありませんでした。

私にとって、島の外は全くの未知の世界でした。


 母は、朱国の者です。

朱の皇室に反物を納めるほどの、名の通った呉服屋の娘でした。

容貌にも恵まれ、蝶よ花よと扱われていた。

幼い頃から望んで手に入らぬものはなく、わがまま放題に育ってしまった。


 年頃になると、金離れの良さから、母の側には大勢の取り巻きがいたのです。

悪い仲間に誘われるまま、怪しげな遊技場に出入りし、ゴロツキ共ともすっかり顔馴染みでした。

母が通ると、強面のヤクザ者も道を空けたのだといいます。


 娘の素行の悪さに、父親は手を焼いていました。

特に、母は芝居好きで、贔屓の役者には、随分と金を使ったそうです。

その目玉の飛び出るほどの請求が、毎度回ってくるのだから、父親はたまったものではありません。


 ある時、旅回りの一座が都で興行を打っていました。

飛燕ひえん、という男の軽業が大層な評判でした。

母も人に誘われて見物に行ったのです。

最初は乗り気でなかったものの、男が、高い場所に張られた綱の上で、燕のように宙返りを決めるさまに、すっかり魅了されたのです。

母は大層、その男に惚れ込んでいました。

そして、一座が都での興行を終え、次の場所へ移って行くと、後を追って都を出たのです。


 けれど、男の方は、金離れの良い上客に、都にいる束の間、付き合っていただけでした。

男は、芸が一番で、一人の女を愛し続けることのできる性分ではなかったのです。

案の定、母は男と喧嘩別れをし、都に戻ってきました。

間の悪いことに、母は腹に子を宿していました。

気付いた時には腹も目立ち始め、堕胎もできず、父親は体裁の悪さを考えた末、ある貴族のもとへ娘を嫁がせることにしました。

その時、母は十七で、相手の男は八十に近い歳でした。

父親は娘を、祖父より年上の老人に無理矢理嫁がせたのです。腹の子ごと、厄介払いしたのです。」







🌸  七  お爺様  ─ おじいさま ─



「その貴族は隠居の身で、珠国の東の沖合いにある磐音島に、屋敷を建てて暮らしていました。

母は身重の体で、遠く離れたこの地まで旅をし、島でひっそりと子を産みました。

それが、私です。


 私は、その貴族の子として育てられました。

屋敷の使用人たちも、母の事情は知っていたけれど、表向きは貴族のつまであり、その子であるとして、粗末な扱いを受けることはありませんでした。

娘を押しつけた後ろめたさからか、母の実家からの十分な仕送りもあり、私たち親子は安楽な暮らしをしていました。


 私は、その貴族を『お爺様』と呼んでいました。

お爺様は私に、日吉ひよしと名付けてくださいました。

お気付きでしょか、貴族の名は大抵、一字 (注)

です。

当然といえば当然ですが、お爺様は私を実子とはせず、見知らぬ某家臣の子として、島の社に届出をしていたのです。

お爺様は、私が物心ついた時には痴呆の症状が表れ始めていて、私のことを『よく』と呼んでいました。

翼という方は、お爺様の弟君で、幼い頃に河原で遊んでいて、過って川に流され、お亡くなりになられたのだそうです。

お爺様は弟君をとても可愛いがっていたそうです。

だから私は敢えて否定せず、その方のように振る舞っていました。

お爺様の話しから、この方にはこんな癖があり、こんな考え方をするのだと読み取って、演じていたのです。

思えば、私はそんな小僧の時分から演技をしていたのです。


 お爺様のお世話は、主に弥平やへいという六十過ぎの下男がしていたのですが、お爺様の痴呆の症状が進み、手に負えなくなってくると、弥平は自分の息子だという若い男を、島に呼び寄せました。

男の名は、亥助いすけといいました。

亥助は何処か堅気の男ではない空気を漂わせていて、使用人たちはこの男を避けていました。

亥助から、血生臭い獣の匂いを嗅ぎ取ったのでしょう。

平穏な島にいる人間には、余計にそういった勘が働くのです。

亥助の方でも、人を避け、人と交わらずにいました。

亥助は無口で無表情な男でしたが、云いつけた仕事は淡々とこなしていました。

誰かを傷つけたり、悪さをすることもなかったのです。

手の掛かるお爺様の世話も、文句を云わずにしていました。

お爺様は夜中に何度か起きて、時にはふらりと裏山に入って行くこともあり、親子は交代で寝ずの番をしました。


 私と母は、廊下を渡った離れの部屋で寝起きしていました。

時折、お爺様の唸り声に、夜中に目を覚ますこともありました。


 お爺様は、普段はとても穏やかな人柄なのだけど、その時の声はとても人が発するものとは思えず、私は、眠ることができずに布団を被って震えていました。

私が九歳ここのつになったばかりのある日、別れは突然に訪れました。


 お爺様は散歩をしている途中、車椅子に座ったまま、眠るように安らかな顔で亡くなられていたのです。」




(注)創作です。



🌸  八  別れ  ─ わかれ ─



「私が九歳ここのつになったばかりのある日、別れは突然に訪れました。

お爺様は散歩をしている途中、車椅子に座ったまま、眠るような安らかな顔をされて、亡くなられていたのです。

お国から迎えの使者が来て、五日後、棺に納められたお爺様のご遺体は、船に乗のり、祖国に帰っていきました。


 しばらくして、お爺様の親族の方々が屋敷の片付けに、島を訪れました。

使用人たちは解雇され、屋敷は立ち入り禁止となりました。


 私と母は、島の中の別の場所に家をあてがわれました。

その、村外れの一軒家は、屋敷の物置と比べても、ずっと狭く粗末なものでした。

ですが、それでも、一般的な村人の住まいに比べたらましな方だったのです。

贅沢な暮らしになれ切っていた私は、その状況を惨めだと感じました。


 お爺様が亡くなってすぐに、亥助も姿を消しました。

弥平は、同じ島に暮らしていたのですが、屋敷を立ち退く際に別れの挨拶をしたきり、会わず終いです。

私が島を出てから、風の便りに弥平が死んだらしいと聞きました。


 島で、私たち親子ふたりの生活が始まりました。

母の実家は、身の回りの世話をする者を寄越してきました。

四十代の夫婦者でした。

母は実家から金が届くと、本土に渡り、金が尽きると戻って来る生活を繰り返していました。

実は、それはお爺様がご存命の頃からの習慣だったのです。


 それから二年が経ち、母の父親が急な病で他界いたしました。

母の兄が家業を継ぐと、実家からの支援はパタリと途絶えてしました。

雇われていた夫婦者は、いつの間にやら消えていました。

夫婦は家から金目の物を持ち出し、逃げたのです。


 母の母親は、兄に内緒で僅かばかりの金を送ってくれていました。

けれど、母はそれを持って遊びに行ってしまうので、家に残された私は、その日の食べ物にも困る有り様でした。

家事をする者がいないので、家の中は散らかり放題です。

母は、私のことなど関心がありません。元々、母は子供があまり好きではなかったのです。


 この頃、母は島の有力な男から援助を受けて生活していました。

島の者たちは母を白い目で見ていました。

同様に、私にも冷たい視線を向けてきました。

心無い大人は、母の行状を語って私を辱め、大人の口汚い話を聞いている子供は、遠くから私をはやし立て、石を投げつけるのです。」







🌸  九  遺児  ─ いじ ─



「また、暫く経つと、母は豊国の軍人に惚れ込んで、その男を家に入れるようになりました。

軍人は、珠国の島のひとつに軍事施設を造る目的で派遣され、島々の視察をしていたのです。

母は、男が国へ帰る時に、一緒に島を出ることを考えていました。

しかし、男には妻子があり、母を連れ帰る気などなかったのです。

そして任期を終えた男は、母に別れを告げることなく帰国しました。

残された母は嘆き悲しみ、酒浸りになりました。


 生活はさらに荒んでゆきました。

その夜も、母は正体をなくすほど酔っていて、火の始末をしないまま眠り込んでいました。

何かの拍子に行灯が倒れ、脱ぎ散らかした着物に火が移り、家の中は火の海になりました。

気づいて、私が母を起こすと、半ば眠りの際にあった母は、状況を把握出来ずに半狂乱になって家を飛び出して行きました。

母は、立ち止まることなく崖の方まで駆けて行きました。

そして、躊躇ためらうことなく崖を飛んだのです。


 火柱を上げる家に駆けつけて来た村人たちは、落ちていく母の姿を目にしました。

矢を受けた鳥が落ちるように、母は夜の海に落ちていきました。


 翌日。

母の遺体は浜に打ち上げられていました。

悲しむ者は、おりません。

村人は、弔いだけは手伝ってくれました。

私が側にいるにも関わらず、清々したと、口々に言い合っていました。

そして、村人たちの話題は、残された子供の処遇へと移ってゆきました。

私の意思に関係なく、彼らは私の今後を決めようとしていました。

母の実家とは、祖父母が亡くなった時点で縁が切れていました。

身代を継いだ兄とは母は不仲であったので、頼ることはできません。


 島の女たちは母を毛嫌いしていました。

都育ちの母は、周囲から浮いた存在でした。

わば、鴉の群れなかに白鷺しらさぎが混じっているようなものでした。

女たちは、美しく身を飾り、好き勝手に振る舞っている母が目障りであったのです。


 日々の雑事に明け暮れる己の姿と、奔放な母の姿を比べ、一層憎さを募らせていたのです。

女たちは、私にも消えて欲しいと望んでいました。

島の外へ、奉公に出そうということで話は纏まりかけていました。

女たちは、母を想起させる一切を、島に留めておきたくはなかったのです。」


 なにせ、私の容姿すがたは、母に生き写しでなのだから。──


「──ちょうどその頃、先生(芙啓ふけい)は、国から農作物の作付けの指導を依頼され、島に滞在していたのです。」







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る