第12夜/訪れぬ朝に、混じる

 ふわり。

 感極まった空気にもようやく一段落ついた頃。

 様々な感情のお陰もあり、浮足立った私をそのまま地面からかるく攫っていったのは、ラウルさんの大きな腕だった。優しい風に飛ばされたかのよう、私を宙に浮かせたラウルさんはそのまま、私の重さなど感じないかのような足取りで歩き出した。

 慌てる私の心境も杞憂だと慰めるかのようにさらりと流し、他の皆の視線があたたかく注がれる中。私を抱き上げたままのラウルさんは、そのまま言う。少しばかり散歩をしたい、と。いってらっしゃいませ、と皆の揃った声を優しく浴びながら。


「ここは広さだけは一人前でね。頼んでもいないのに、功績が大きいならでかい顔をする為の屋敷を作れよ、だなんて広く建てた奴がいるのさ」


 ラウルさんが直に開くまでも無く、この室の扉が勝手に開いていき。地に足をつけることも無く、私はこの部屋を出ることになっていた。

 ローブを着た腕、その上に私を乗せて。巨人に抱きあげられた小人のような心地とは、このようなことを言うのだろう。ああ、腰をかけさせて頂いているこの腕が、意外とたくましくて。それに、それに、こんなにもお顔が近い。余計に色々と意識をしてしまいそうで、そんな風な思考に偏る自分を恥ずかしく思う。間近で見ると本当に、毛並みも素敵。うっかり許可も得ずに触ってしまいそうになる魅力があって。私、ミミズクにこんな感情なんて持ったことないのに、彼との出会い方とそのきっかけはあまりにも。あまりにも、私の脳を蕩けさせるには十分であったのだ。

 ラウルさんの足音よりも私の心臓の音が大きい、彼の腕に乗せられた私に歩く震動が全く伝わって来ないことにも気付いたら、もう、薄暗い中を進み続けるこの距離に終りが無さそうに感じた。


「ここは、夜のアトゥラ・ノクティス

「あとぅら、のくてぃす、」

「そう。いい発音だね」


 二人の姿が少し開けた場所に出る。ここは、玄関ホール、のような役割なのだろうか。膨らんだ円形の床に廊下がつながっていて。幾つもかかる壁掛けランタンが、ほの暗い中での唯一、このお屋敷の光源だ。控えめの明かりでさえ、今は私達だけの為に照ってくれているような…高揚した気分?自意識過剰?とにかく、今は何にでも。こんな私でさえも、全てに対してポジティブに考えが及びそう。

 アトゥラ・ノクティス。それが、私が住まわせて頂く館の名前。惚けた気分で出した声は、発音が不十分だった。


「さあ、少しばかり見せてあげよう。ここは、永久に夜が降りる館。僕と、君の住まう場所さ」


 豪華な装飾が施されていた扉が、静かに開く。私とラウルさんの向こう側、そこには、彼の言う通り。夜の光景が広がっていた。

 私のような小さな身体には、とてもとても、大きすぎる。子供の頃、何かを見れば純粋に感動していた時の、あの感覚。目の前に映るこの景色に、私の心はそれと同等の感情で満たされ。未知なる物に対する驚きと好奇心でぎゅうぎゅう詰めになる。


 美しく整えられた庭園、それは暗い色の下でも自信ありげに育っている彼らの艶やかな緑色を活気よく魅せていて。 

 一歩、ラウルさんがまた動いた。玄関先の小さな段差を降りて行けば、この庭の床がこの世の穢れを一切知らないような白い色をした風体であることに気付く。それが何に近いのか、私が知っている限り高級な材質を思い浮かべてみても、ぴかぴかの大理石の床に少しだけ似ていそうな感じがするという言葉しか出てこない。それも消去法で出た感想であり、実際は大理石などよりもずっとずっと高次元の材質なのだろうとは、思う。

 確か、植物を鑑賞する為に庭園というものは造られるのだと聞いた。けれど、こんな、直に見ることが出来るなんて初めてだ。一般人で貧乏人には、全くお目にかかれない場所。ああ、本当に、私は場違いだ。

 白い床で出来た通路は生垣でその道を作られ、通路全てが繋がりあう中心部である円状床に引き寄せられていて。ラウルさんがゆるりと歩く度、そこに向かって近付いていった。頬を悪戯に撫でる風が何だかあたたかく感じるのは、私がはしたなくも興奮しているからそう思うのだろうか。

 ラウルさんの腕の上。いつもよりずっと高い位置で目を動かし、きょろきょろとあたりを見渡せば。私の知る日本での庭園で植えられているような植物を見つけることも至難の業だとよく分かる。密集した樹木や、綺麗に咲く花々。離れたところにある大きな植木鉢を飾る葉だって、私が元いた世界で見たこと無いような種類のものだったから。植物の知識に疎いからと言ってしまえばそれまでだけれど、そういったところまで含めてこの世界はとにかく未知の知を私に知らせてくれる。まだ知らないことが更にたくさんあると教えてくれているような気がして、知れることがまだ一杯あると導いてくれているような気がして。


「一応は、隠居した身なのだけれどね。この庭園は、僕の趣味と。趣味で受けている仕事に役立つように作ったんだ。皆が皆、ここでしか育たない特別な存在さ」

「…見たこと無い花ばかりです、すごい、…!」

「挨拶でもして貰おうか?ほら」

「わっ……!か、かわいい、です…!」


 ラウルさんが、生垣に声をかけると。まだ咲き始めたばかりの小さな花が、その姿を私にぺこりと傾けてから元の角度に戻るのを目にした。…本当に、この花は生きているんだ。ラウルさんの声を聞いて、その言うことを受け入れていることを表せるくらいに。

 現実世界からかけ離れた場面をまたひとつ記憶に焼き付けて、次へ、次へと視線を移していく。

 上を見上げれば、黒。下を見下ろせば、白。その狭間に立つ私はこれから先、一体何色に染まっていくのだろう。


「見えるかい、あの幕が」


 庭園の中心部。ここまで歩んだラウルさんが、瞳を向ける方角に私も視線を動かす。おそらく、この庭園に繋がっている、館全体を見た際の唯一の入り口らしき門がそこにはあった。劇場で使われているような暗幕がベールになったかのような美しさで、その門が覆われている。まるで、外からの光を一筋でも通してなるものかとでも言うように、閉じられた幕は材質以上に強固に見えて。


「本当なら、君を外に出してあげたい。身の回りの物を整えたいだろうし、別の世界の文化に触れるのも絶対に君の為になる。けれど今、ここは人払いを行っていてね。あと数日の間だが、君をここに閉じ込めてしまうことになる」

「そんな、閉じ込めるだなんて。…私が、ここにいたいのです、ラウルさんのお傍に、」

「…参ったね。恋とはこんなにも、まだまだ学ぶことがあるのだから。他でもない、君から」

「え、」


 目の奥が熱くなっていく。喜びからくる涙を私は一体何回流せば気が済むのだろうか、涙をこらえる代わりに言葉を出す口が余計にポンコツになったようで。く、と詰まったような音が喉から出ていった。


「あのベールを上げても問題が無くなる日まで。僕達は、初めての”一つ屋根の下”だ」

「は、い、」

「――だから、たくさん。君のことを学ばせてほしい。そして、君がこの館の者以外の奴を目に映す前に。…僕のことを学んでほしい、知ってほしい。他の何を見ても、僕だけに揺らがぬ心を置いていって、ほしい。何分、僕も、色恋沙汰に関しては、無知でね」

「ラウルさん……わたし、ほんとうに。幸せです。あなたといれば、きっと。死ぬ日が来ても、笑顔でいられる。…そんな光景が、簡単に浮かぶくらい。す、…すっかり、虜、なんです。だから、だ、だから、私も同じです。同じ、気持ちでいられて、とても嬉しいです!」


 ラウルさんが、また微笑んだ。この愛は、薬よりも何よりも、私の身に染みていく。



 夜の帳。

 あの門は、まさしくそうと例えるに相応しい。

 周りが見えなくなる夜に、全てを塞いでしまう黒。中にいる者を閉じ込めてしまう闇。その空間を作ることが出来る布帛ふはく


 閉じ込めたい、そう言ってくれただけでもどれだけ嬉しいことなのか。宝物のように扱われたことなど無かった、使い捨ての道具とみなされて生かされていた。初めて向けて頂いた、純粋な愛の欲に。なんたることか、私などが、より深くより深く。独占欲などを見出してしまったのです。


 あなたが夜なら、私は帳。

 誰にも触れてほしくない、私以外の誰にも。あの帳のように、私だって。いつでも夜に寄り添って、そうして、外の者との隔たりを作ってしまいたい。


「夜の、帳。私は、そうなりたい。…そうで、在りたいと、思います。ラウルさん、」


 どうぞ、よろしくお願い致します、と。そうして私は、心からの笑顔を彼に向けることが出来たのだった。



 ×   ×   ×



 夜空の下での、初めての朝。

 私達の特別な暮らしはここから始まるのだと、見守るように輝いていた星がもう一度きらめいていた。

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