第11夜/一目惚れ
うつくしかった。
最高級の硝子玉に、一つの世界を詰め込んで表したかのよう。
そんなラウルさんの二つの瞳に見つめられるだけで、全身が心臓にでもなったみたいだ。扉を開いた先、三人の視線が向かって来て。
片付けを済ませたネクルさんは、私が飲んだことも無い良い香りがする紅茶を傍らで淹れる準備をしていた。ドーレンさんは、弱ったような、恥ずかしいような、でもそれでいてどこかすっきりしたようなごちゃ混ぜの感情を丸めている様相で。参りましたね、とラウルさんに一言かけた後、ようやく私とアベルダさんに気付いたようで。ネェラさんは、気品漂う姿勢で礼をしたまま「お疲れさまでした」と私達に声をかける。
ラウルさんは、ずっと。扉を開いた瞬間から、私だけを見ていた。
「話はまとまったかいそこ二人」
「…。ああ、そうだね。クラシックなスタイルもとても似合っていると思うよ、アズマくん」
「いやあのねお師匠様そこじゃないですよ?」
私と来たら、お待たせしましたと言えたはいいが。彼の開口一番がこうだったもので、照れながら口をつぐむしか無かったのだ。とりあえず、ネェラさんの真似をして、上品な礼でもって言葉に少しでもお返しをしようと思った。絶対に、ここは上流階級のお屋敷だ。何も知らない私が猿真似をするのはちょっと滑稽かもしれないが、しないよりはマシだと思う。ただ、漠然と立って、彼に何も返せないばかりでいるよりは。
ああ、本当に。物語の世界に入り込んだみたい。目を開けたまま、夢を見ているの。いいえ、目を開けても夢の中にいるのか、目を開いてももう現実世界に戻れないのか。でも、そう。ここが、今ここの私が、現実だから。
アベルダさんとの会話の中で、ようやくすとんと受け入れられたあの気持ち。私はここで生きていきたいという、ほんの少しの勇気と希望。顔を上げて、まずは伝えなければならないことがある。
どうか、どうか私などのことで気負わないでほしいと、そう思うから。
「ラウルさん。私、御呼ばれして頂いたことに、何の不服もありません。私、とても、幸せです」
言え、言うんだ。内の自分が私を鼓舞する。ここで勇気を出さずに、どこで出す。アベルダさんも押してくれた背中が、緊張で震える気がしていた。
幸せです、と。言えた私の声色は、今までで一番凛として。はっきりと、軸が行方不明になることも無く。どこかに引っかかる様子も無く、私自身がそれに驚きつつも彼の目を見ながら言った。
「今は、驚きの方が強いです。何故、と思うことが幾つもあります、でも。私、幸せです。きっと貴方に呼んで頂いた、からです。まだ…うまく言葉に出来ない、んですけど、……ラウルさんは、私を、助けてくれました。もう、今の時点で、何回も、助けられてるって…」
――私の世界から、連れ出してくれてありがとうございます
文句なんてありません。悲観もしていません。惜しい世界ではありませんでした。
あれは枷。あれは錘。それに繋がれていた私を解放して下さった。
ああ。夜が降る館なのに、貴方はまるで月のように眩しくて。
きっと私は、その輝きに惹かれて周りを飛びに来たちいさなちいさな星。月の光を分けて貰ってようやく自分を見つけて輝けるのだ。
精一杯の微笑みで、ラウルさんに静かに語りかけた。夜空の星をひとつずつ数えるように、慎重に慎重に言葉を出して。私が言葉を出す様子を、ラウルさんはそのまま見てくれていた。
「……だから。ご心配、いりません。だって私、もう、この世界のことが好きになり始めているんです。
きっと、皆さんが…私のことを本当に考えてくれたから。きっと、ラウルさんが、私を呼んでくれたから。好きに、なれるんです。…ご迷惑で無ければ。置いて下さるのであれば。ここで、生きていきたい、です。私、知りたいです。ラウルさんのいる、この世界のことを、」
ようやく、ようやく見つけたんです。ラウルさんに対する、この感情の名前を。
こんなに簡単な言葉だったのにすぐ思い浮かばなかったのは、知っているだけでしたことが無かったから。知らないうちに、”そう”してしまっていたから。
今だって、こんなにも生を感じているのに、すぐにでも死んでしまいそう!
「ひ、………ひとめぼれ、してしまったおかたの、せかいに。いたくないりゆうなんて、ないではありませんか、?」
さあ、死ぬなら今だ!そう言わんばかりに、心臓がさわがしい。
だって、私。ラウルさんに、私を呼んでしまったことを、罪悪のように感じてほしくない。気にしてほしくない。その優しさのせいで、「本当は元の世界に戻りたいのではないか」なんて、思ってほしくない。
戻りたくない、ここにいたい、二十数年すごした向こうの世界よりも、たった一日目をはじめたばかりのこの世界の方が、本当に好きだと叫びたい。それが常識的に考えてどれほど説得力の無いものだとしても、常識から外れたことこそが、今の自分の常識だと言い張れば良い。
今怖いことは「知らないこと」だけ、だから。ラウルさんに教えてもらいたい。
――種族も何もかも違う人に、こんなにも熱を覚えることを、一目惚れ、と言うのでしょう、?
それが、今の私を動かす原動力なのだと。ようやく知ったから。
「……本心かい」
「はい」
「たとえば。僕でさえ、戻し方が分からないと言っても。戻し方をわざと考えなかったと言ったとしても。君は、」
「幸せです。…それがいいです、それで、いいん、です。お傍に置いてください、」
「それは勘違いではないかい?」
「はい」
「間違いでも、一時の気の迷いでも?」
「はい!」
見守るような視線だったラウルさんの表情から、すっと何かが抜け落ちた。……少し緩んだような顔の様子に、今落ちていったのは緊張感だったのでは無いかと、生意気にも思ってしまって。
よかった、と呟いたラウルさんの微笑みは。その表情こそが、一番の自然体なのだとこちらに悟らせるものだった。
「君が来たら、愛そうと決めていたんだ。間違いなく君は、…愛したい人だと思わせてくれるね」
嘘では無い。
本心だけが、煌いて。
その想いを、互いに宿したから。
「どうか、君の望むままに僕の傍で生きると。もう一度、頷いてくれるかい」
そう、ラウルさんに言ってもらえたこと。何にも代えられるものが無いほどの、この上無い至上の喜びが脳の全てを支配した。血管の中、全てが沸騰するかのような強烈な多幸感。
はい、と。ありがとうございます、と。深く深く一度頷いた。嬉しくて涙が出るなんて、いつぶりのことなんだろう。涙をぬぐうことも忘れて、おいで、と手を伸ばすラウルさんの傍に。いつの間にか、引き寄せられるように両足を歩かせていた。
× × ×
「入る隙無しってのはこのことだねえ。で、何かの原因らしいアンタはどうなのさ」
こちらの存在を認識していたとしても、今は互いのことを語るので精一杯らしいラウルとアズマのその横で。ひそひそ、とドーレンの隣に場所を移したアベルダが呼び掛けた。
こちらもこちらで、彼らを見て見ぬふりも出来ずに角砂糖に手を伸ばしていたドーレンは、行儀悪く突っ伏すような姿勢で紅茶にとぷんと角砂糖を沈めにかかっている。
「…はー。ほんと、お師匠様ったら、馬鹿なのか律儀なのか天才なのか、余計にわかんなくなるだけでしたよ。でも、ワタシの馬鹿さ加減のせいで嬉しそうにしてらっしゃるなら、それでいいです」
「ま、そもそも旦那様が何の考えも無しに召喚する、なんて、よく考えたら有り得ないことだったかねぇ」
「これ以上の心配は無用、とは言いたいですけどね。如何せん、圧倒的に、なんか、色々足りなそうと言うか。いいのかなあって。だって、お師匠様の為に、世界捨てるなんて、普通言えないでしょ。足りないし、足りすぎてる、何て言えばいいんでしょーねえー」
ティースプーンを紅茶の中で回し。時折、故意にかちんと音を立てても。ラウルとアズマには聞こえていても、気にされることは無いのだ。
師匠の望んだことに反対などするわけも無い。けれど、師匠の立場を危うくする可能性が高い魔術の行使を決意されるに至った大元の原因が自分とわかった今では、ドーレンは複雑な表情を作りお茶を濁すしか無い。
「愚問ですね。言葉の数が何億何兆あると思っているんです。……多くを知るラウル様が、ああして少しずつしか語らないと言うのは。もっと大きな言葉を彼女が受け止められるまで待ちたい心地なのか、それとも……」
「それか。単純に、思考に口が追い付いていないのです。ネェラには分かります。カサンドラ・ジル・スティラ様著の恋愛小説に、そういった記述がございます。非常に状況も酷似しております。おかしくないのです、何故なら、御主人様も今初めて。手探りで何もわからない状態で恋事の「お勉強」をされているのですから、不自然ではないでしょう?」
流石は使用人然としている二人だ。彼らの様子にあてられる気配も無く、淡々と思考している。
ああそうか、どうにも変な感覚がちらついたのは。自分がいつも師匠に教えられる立場と言うのもあったからだろうか。誰かとこれから知らないことを学んでいく師匠、なんて、初めて見たから。もしかして、自分の知らない師匠を見るのが怖かったからと言うのもあるのかも、しれない。それが自分の思考を変に乱したのかと、ドーレンは溜め息を吐いた。
まあ。とりあえず。
話したい時でいいですからね、と師匠に釘を刺すことを、ドーレン・パトーはこれからも続けるのだろうと思った。
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