第9夜/天秤にかけるまでも無く

「ほら、これ取って洗っておいたんだ。慣れた服着る方がまだ落ち着くかと思ってね」

「あ、ありがとうございます、」


 意外や意外、優しく床に降ろしてくれたアベルダさんが言うには、ここは彼女自身に与えられた私室だそう。机の上に畳んで置かれていたのは、見慣れた私の事務服と眼鏡のセット。お洒落な絨毯が敷かれた床の方には、これまた私の着用していたパンプスが一足、仕事をしばらく休めたと言わんばかりにくたびれているそれは憐憫の情を誘う。眼鏡と共に事務服を私の胸に押し付けるように元気な勢いで彼女は渡して来た。ここに来て、自分の住んでいた時代背景と合う見慣れた物の登場に喜べばいいやら何とやら。

 西洋風の落ち着いた色味で統一された部屋は、彼女の一見さばさばとした性格のイメージとはちぐはぐのように思えた。早速度のきつい眼鏡をかけて、きょろきょろとあたりを見回す。やはり、この屋敷のどこにいても自分の存在が浮いてしまうようで複雑な気分になったが、久々にかけた眼鏡のつるが無性にしっかりしていることに気付く。何年も使い続けて結構ボロが来ていた筈なのに、新品みたいな掛け心地だ。


「あ、その眼鏡ね、螺子ゆるいし結構部品もくたびれてたから旦那様が直してくれたのよ。また後でしっかり顔見てお礼言ってくれると、アタシも嬉しいかねえ」

「え、その、ラウル、さんがですか」


 起きる前からも相当お世話になっていたらしい、とても申し訳ない気持ちと共に。しっかりと私の視界を保ってくれる眼鏡が頼もしさを取り戻したことに感動した。


「本当珍しいわよぉ。あの方、しっかりした仕事の依頼とか、アタシら相手以外にそんな優しいことやってくれないもの。だから、皆感じてる。よくわかんないけど、アンタは旦那様にとって特別な存在なんだろうなってね」


 まあそれが伴侶候補だとは思わなかったけど、と。誇らしげにしているような、恥ずかしくもあるように笑い声を出しながら私の肩を抱いたアベルダさんはベッド近くの衝立の方へと私を押し込んでいく。慣れない今の靴で足元がもたもたとしながらも、少しだけこちらに引かれた衝立の後ろへ私の全身がおさまった時。衝立の反対側から、ちょっぴり出た彼女の片手がひらひらと私に振られていた。


「着替えちまいな、ただでさえアンタにとっちゃ別の世界なんだから。少しでも慣れたモンだけ身に着けな」

「あ…ありがとうございます、あの、このネグリジェって、」

「ああそれ、アタシの服のサイズを急いで変えた奴なんだ。アンタ本当に小さすぎてサイズぴったりにするのも難儀したんだよ。したら、普通に成人越してる歳じゃないか!本当たまげたよ」

「はは……」


 事務服をぎゅうと抱えながら、慣れているこの服でさえも最近はすっかすかに間が空いてきたように思うのだ。冬などはひとたび風が吹けば、痩せたせいで隙間から入った冷たい空気で全身が冷えあがる程で。しまいには私に着られる服の方が可哀そうなくらい、ガリガリになってしまった。155センチで30キロあるか無いかくらいなのだ、そんな状態でもひたすら仕事を続けていた。

 自然と、自分の片手をお腹にあてていた。胃の中心、そして腹に繋がる場所。今は、そこがとてもあたたかい。十分に休養を取れて、久しぶりにしっかりと食事が出来て。そして、似合わないけれどこんなに素敵な服や靴を身に着けることも出来て。普通のご飯を食べて、素敵な服を着る。それが普通の人間だと思うけれど、この”普通”ですら私はろくに出来てもいなかった。

 異世界に呼ばれてしまった、と。私を呼んでくれた側の人が心配してくれていると言うのに、私の心は既にこちら側の世界に傾いていることを自覚する。だって、私は、あの世界から逃げたかったのは事実だったから。


「…アンタさ。ああ、いや、着替えながらでいいよ。答えたくないならいいけど、自分の世界ではどんな暮らし方してたんだい。アンタの手当てしてる時、ドーレンやネェラなんか二人して遠慮無しに「奴隷職じゃないか」なんて予想なんかしててさあ、」

「あ、あ~~…。あはは。当たらずとも遠からず、的な奴ですね、はは、」

「おやまあ、本当に近いとこ言ってたのかい。すまないね」

「いえ。色々と生活怠ってた私が悪いですし、」


 事務服を床に置き、ネグリジェのリボンをするりと解こうと指をかけた。その間も、彼女とのやり取りは続いていく。


「…旦那様のこと、悪く思わないでくれよ。あの人、知識が豊富で頭良すぎるからアタシらもたまについていけないところがあって。致命的に言葉が足りないところもある。でも、ワケも無しに気紛れで何かをやって誰かを困らせるようなことはしないんだ。絶対だよ、これだけは信じてほしい。だから、アンタを呼んだのも…旦那様の自己満足や、独りよがりじゃあないってことだけは、」

「はい。それは、よく、わかります。だって、…あの方、とても優しいんですもの。…こんな見目の、醜い私に、色々としてくれた、」


 同情でも、慈悲でも、私に優しくしてくれた。それだけで、ひどく揺らいでしまう。他人相手に虐げられていた私が、人では無い彼に助けてもらえるなんて。

 …そうだ。むしろ、私の中では。異世界に勝手に呼ばれた、なんて感覚じゃない。きっと、助けてもらえた、って感覚が一番強いんだ。急に、しっくりときた。不揃いだったパズルピースの形が整って、寸分の狂いも無くはまっていく、感覚。


 ――そうか、私、助けて貰ったんだ、彼に!あの、逃げたかった世界から!


 明確に表現出来る言葉をやっとのことで見つけた私は、心臓がきゅうと締め付けられるような痛みに襲われる。でも、苦しいだけじゃあない。なんなんだろう、この、溢れてくる気持ちは。


「そっか。心証が悪くないみたいで、ホッとしたよ。うちの男連中、揃いも揃って女の扱いが下手くそだから。ついでに聞いとくれ、この部屋もアタシのセンスじゃないんだよね。ネクルの奴が「貴方は絶対に散らかしますから」って、ここ住むことになってからあいつが内装決めちまったのよ。普通に女の部屋にズカズカ入るし、勝手に片付けもするような奴がここの執事頭だからねえ」

「え、ええと、す…すごいですね?」


 からから笑いながら話を続けるアベルダさん。本当に、私とは正反対の明るくて素敵な女性。

 男だから女だからどうのこうの、と言う見方は基本私はしたことが無い…と言うより、性別の違いを意識するような余裕が今まで無かったから。他人とうまく付き合えず、自分の失敗でやらかしてしまった方の記憶が、うまく出来た際の記憶よりもこびりついてしまっていて。

 だから、こう言うしかないのだ。男も女も平等に怖い生き物だった、と。

 それが、今。自分の元いた世界なんかじゃなくて、全然別の世界にいる人の方がとても優しくて。いい女性だな、いい男性だな、なんて。そう思えるような存在をしばらくは全く見たことも無かったし、私の前に現れたことも無かった。

 なんておかしいんだろう、元の世界で長年過ごした時よりも。ここに来てすぐに、こんなにも嬉しい、幸せなことばかりしてくれるのが、異世界人だなんて。たったこれだけの時間で、あの世界の鬱屈とした色々を抱えていた私の埃を、ぱっと綺麗にしてくれて。


「……帰りたい、って。アンタ、言わないんだね。知らないとこに来たってのに」


 ぽつり。明るい声色で話しかけてくれていたアベルダさんの声が、急に様子を変えていた。衝立の向こうで、落ち込んだように、らしくなさそうな話し方だ。


「お気遣い、本当にありがとうございます。でも、私。…よく考えなくても、あの世界に。帰るだけの価値があるか聞かれたら、全く無いんです。感慨も無い、むしろ、そのう…あんなところから、連れ出してくれてありがとうございます、としか、言えなくて、」 


 産まれた世界であると言うのに。幾つもの文明の利器に触れ、現代に慣れ、地上からは一度たりとも離れたことの無かった世界、地球、日本。卒業した学校もあるし世話になった施設もある。

 確かに、産まれて育ったという証こそあるけれど、私はあそこで何も作れなかったのだ。あの世界を惜しむくらい、離れたくないくらいに自分を引き留めるような存在を見つけられもしなかったし、見つけようとする努力も全くしなかった。その程度の人間なんだ。

 天涯孤独なんて、今じゃ珍しくも無い出自だ。可哀そう、だなんて言ってもらいたかったわけじゃない。ただ、誰かに、一寸でもいいから。傍にいてほしかった。自分が泣いている時だけでいいから。そんな弱音ばかり吐いて、結局今の今まで一人きりだったのだから呆れるばかりだ。勇気も何も、出したことが無いのではなかろうか。


「驚いては、います、でも。今の私、自分でもびっくりするくらいに――もう、この世界のこと、好きになりそうで。ひどいフライングなんですけど」


 そして、今。……大胆にも、失礼にも。あっちの世界で駄目だったのだから、こちらでは、なんて淡い期待を抱いてしまっている。元いた世界でうまくいかなかったのにこちらでうまくいく筈なんて無かろうに。

 現実はライトノベルのようにすらすらと、割り切って受け入れる速度がすぐに追いつくわけも無い。もしも、運命が違っていたら。私も普通の家庭で産まれて、大切な家族がいて、仲のいい友達がいて…そんな理想的な人間だったのなら、今ここでこんな風に悩んだりはしない。きっぱりと「元の世界へ帰りたい」とその私は言うだろう。

 でも私は、そんな理想になれなかった私でしかない。理想を諦めて、あの現実を受け入れてへらへらと笑い、必死で媚を売るくらいしか出来なくて。…そんな私が、今。逃げたかった、連れ出してもらえた、と。誰かに初めて、こんな風に言葉にして吐き出せたのだ。ほんの少しの変化と勇気だけれど、出来ればそれを、今度はこの世界でもしもつかえたのなら。

 そう、思うだけで、



「……?あら、着替えなくていいのかい」

「ご、ごめんなさい。私。…もし、よかったら。ご迷惑で、無いのなら。もう一着だけ、お洋服を貸して頂いても大丈夫ですか、」



 ――この服は、前を思い出してしまいそうになるので、


 そんな私の我儘だったのに。アベルダさんは、未だにリボンから指が離せず固まったままの私が懇願したその言葉に快く頷いてくれていた。

 もし、やり直せるなら。今からでも、普通の私に。理想の私に、なれるのなら。そんな希望の欠片を、ラウルさんが、皆さんが、私に見せてくれたような気がしたから。心を動かされたこと、そのことに感謝しているということ、自分の言葉で全部言ってから返さないといけない。

 そうするべきだと、私の中に数年も眠り込んでいた小さな勇気がようやく目を醒ましたようだった。


「……あと、その。…何だか、この靴も、脱ぐのが勿体無い気がしてきて。…そんな感じで、すみません…」

「そうかい、そうかい!大丈夫さ!すまないけど、壊すのは得意でも創るのは少しばかり苦手でね。今アタシのを貸してやるから、ちょっとだけ待ってなよ!」


 アベルダさんの背中が見える。私は衝立から少しだけ身を乗り出して、彼女の後姿に釘付けになっていた。ああ、とっても、素敵な女性だなと。月並みながら、そんな言葉しか思い浮かばなかったのだった。

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