第5夜/夜との対面

 心地好い。

 この一言だけに、どれだけの爽やかさを詰めようか。空の上、雲を渡り歩く今の私の心境は、ここからどれだけハイになって楽しめるのだろうかと言う高揚感に満たされていた。

 漫画の世界で見たことのあるような、天の国に近い場所。あたり一面がふんわりとした柔らかさを持つ、足で踏むことが出来る雲で包まれている。一歩、また一歩と踏み出して歩く度に足音は五月蝿くなることもなく、もすん、と吸い込まれていった。戯れに視線をまっすぐ向こうまで伸ばしてみると、途切れている場所がどこか分からない程、雲の道ははるか先へと続いている。

 日本中の綿を、いや、世界中の綿を集めたらようやくこれくらいのスケールの道になるのでは無いかと、白に囲まれた空間の中でただ感嘆の声を漏らしていた。雪が降って固まった道を歩くよりも、柔らかい。踏み込んだ場所によってはそのまま足首まで沈むこともあり、人肌と同じくらいの熱があたためてくれるような感覚がする。足跡だけを雲に残す、それがどうにも楽しくて。童心にかえった気分だ、元々体が軽いのも相まってか今はこのまま飛べてしまいそうだと勘違いしそうになる。

 そう言えば、空腹だった筈なのにいつの間にやら忘れていた。とても眠たかった筈なのにその苦しみも無い。ただ、ここを歩くのが楽しい、それだけを考えていればいいのだと思い込んで。


 次の瞬間、踏み込んだ足がそのまま雲を突き破って、重力に従い落ちていく。


 目を、見開いた。

 明るい天とは違い、ただ、暗がりに落とされた地上が眼下に存在する。紫に染められた大きな月が、それ自体が誰かの瞳のように、私だけを鏡のように映していた。

 ああ、思い出した、私は、職場の窓から、落ちて、

 そう気付いた瞬間に、地上へ落下する速度が乱暴に私の体を捕まえる。あの道路に、そこに開いた大きな孔に、叩き付ける為。何高度から空から落ちて行く、頬に鞭打つほど強い風が全身を流れていった時、ぶつん、と世界の電気が一斉に切られた気がした。


「―――あ、っ、?お……?う、…?」


 突然目が醒めたのはその直後だった。

 眠りについたままの姿勢のまま両目をしっかりと開けば、目の前の景色を視認する前に、冷や汗が額を幾筋か流れていることに気付く。

 神経に電気が思い切り通されたかのような衝撃に驚いた眼球がきょろきょろと動き、更なる覚醒を促して。少々間抜けな声を出しながら、混乱する私はゆっくりと上体を起こした。体に支障が出ないようのろのろと動き始めた筈なのに、寝すぎたからなのだろうか、妙に体が重く。ふとした瞬間にくらりとする眩暈が訪れる。若干の気持ち悪さを携えながら、「夢…」と、心底ほっとした表情で言葉と一緒にため息を漏らした。

 朦朧とした頭のままであたりを見回す前に、ここは絶対自宅では無いことを悟る。何故って、手をついたものは大きなベッドだったから。一瞬、ビルから落ちたのだから、連れてこられたのは病院かとも思ったが、病院にしてはベッドが大きすぎる。安物のぺらぺらの布団とは比べ物にならない柔らかさ、私が左右それぞれに二回、ごろんと寝返りをしてもまだ余るだろう面積だ。

 視界がぼやけたままなのは未だに眠気が漂う中であるのと同時に、いつもつけている眼鏡が無いからだ。流石にこれ以上寝るのは逆に体に悪いと思って、懸命に眼鏡を探す。ぽす、ぽす、と綺麗なシーツの上で手を這わせながらあたりを探るも近くに無い。その手でそのまま自分の目を擦ると、少しだけよく見えるような感じがした。


「……よく寝たなあ…」


 この気だるさは、間違いなく。珍しくしっかりと睡眠を取れた日とそっくりだ。それでも取りきれない疲れがまだ体に残っているのは会社のせいだろう。まだ体がどこかに浮いたままのような錯覚を覚えるのは悪夢の印象が強いからなのか。

 一体、ここは、どこなんだろう。ベッドに座ったままの姿勢で上を見れば、暗い。右を見ても、左を見ても、どちらが出口か把握するのに時間がかかるくらい色合いの違いが分からない。最後に視力をはかったのはいつだったか、確か0,05くらいの悪さだったと思う。かぶせられていたらしい掛け布団をめくり、ずるずる、と這い出してベッドの端を目指した。


 妙に暗さが目立つと思ったが、ベッドの外に手を伸ばそうとして始めてその謎が解明された。レースで出来たカーテンのようなものが、ベッドの上から囲うように垂れ下がっていたのだ。再度上を見上げると、このベッドは天蓋つきのものなんだと理解出来た。薄めの生地は、眼鏡が無い状態では指でつまむのも難しいくらい表面がつるりとしていて。少し探ると、その幕に大きい切れ目が入っていることが分かる。

 誰かを呼ぼうにも、何をするにもまずはここから出るしか無いそうだ。何時間振りに動かした体は、ベッドから足ひとつおろすだけでも億劫だと訴えてくる。今の痩せ切った体に擦れる衣服も私が知らないものだ、着た事も無いような上等のネグリジェに似ている。…あれからどうしたんだろう、何があったんだろう、それを当人が知らないなんて全く怖い話である。下におろした二本の足で、カーテンの幕を前に押し上げながら歩く。裸足に冷たい感覚が走ると、これが現実であるという証明に繋がった。



「起きたかい」



 ――その、現実が確約された先。見えた影が、忘れかけていた衝撃を強引にこじ開けて思い出させてきた。


「……あ、」


 まるで、陸に引きずり出されたばかりの魚だ。はくはくと口を動かすも、何を言っていいか分からない。何かを言うべきであるということは分かっているのに、それを上回る存在感が目の前にあるのだから。

 立ち上がってベッドを抜け出した私の前に、その人はいた。空気に囁くように、大地に優しく読み聞かせをするように、柔らかな声を出す人。聞き覚えがあるその声は、つい最近耳にしたばかりのもの。そして、その、シルエット。眼鏡が無いとは言え、おおよそ人間の形さえしていれば顔が見えないだけなのだけれど、今目の前にいる人は、人のかたちをしていない頭部をしている。


 今はそのまま、眠りにつくがいい、


 そう言って、夢と現と区別がつかない私を、もう一度。眠りに落とした人。


「二度も、その目に映ったのはまだ、この世界では私だけだね」

「…あ、あなた、は、」


 僅かな明かりが灯る中。椅子に座っていた体勢から、その人は立ち上がる。私なんかよりずっとずっと高い身長は私の頭の上を軽々越えて、首が痛くなるほど見上げないといけない。

 くるり、とその首が傾げられた時、ぴょっと、私は1ミリほど飛び上がって驚いた。


「ふむ。獣人を見るのは、初めてなのかい」


 ひょ、と元の位置に首を戻したその人は、驚くくらい静かに私の傍に立ち寄って。そうして、私が動揺する間に、とても美しい所作で。私の目の前で跪いた。

 黒衣に包まれたその風貌、首から上は人間では無く、ミミズクの造形をしている。す、とそのまま差し出された手は、やはり完全な人間のものでは無い。獣と人間の手を合わせたかのようなかたちの指、止まり木を掴む筈のそれが、人のように暮らす為進化したつくりだ。羽で覆われた全身、人からはかけ離れた見目、そうであるにも関わらずしっかりと二足歩行をしている。

 私の知っている世界には、絶対、いない存在。


「ひ…人、なんですか、」

「人ではないと、この手を握り返してはくれないのか」

「え、あ、その…」

「冗談だ。からかいが過ぎたね、すまない」

「ごめんなさい。こ、怖いから、言ったのではないんです、」


 自分でも、不思議だった。未知との遭遇であるのに、むしろその姿全てを見てから逆に落ち着いていったのは。あの、優しい声と、優しい手。それを忘れてはいけないと思ったからだ。

 言葉が出せない代わりに、差し出された手に自分の手をそっと乗せた。あまりに大きさが違いすぎて、私の手が子供のよう。長く黒い鉤爪が伸びたその指は、私を傷つけること無く弱い力で手を握ってくれている。


「初めまして、異世界の君」


 この世界に君を呼んだのは私だよ、と。

 人には無い筈の嘴が、告げる。悪怯れた様子をその表情の影に落としながら。この部屋に夜を連れて来た人は、ラウル、と。そう名乗って私の手を取ったのだった。


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