4月13日(金)17:00追加

176 - くじらのはらわた

 かささぎ少年はその目の前の巨大なおおきな、とてつもない塊の腐肉が何処どこから来て、如何いかなる味がするのか知らない。


 今、目の前の池に沈められようとしているこの塊が、何の肉かも知らない。

 生前の姿は元から知り得ない。


『降ろすぞ『ゲホッ『おおとり梭魚羅かますら繊虫せんちゅうはいいって話だ『オェ『カハ』


 だが鵲には、確かに知っている事がある。この池も、この肉の事も。

 池中みずのなか柔かく愛らしく動く虫達は、零れた腐汁つゆに集まって来る事。

 肉は蛆ばかりで先客が居て煮ても食えず、臭気で大の男が噎せあがってしまう事。


 今にも崩れそうな腐肉におおのこを持った大男が飛び乗り、豪快に切り分けていく。

 作業は総出で三日三晩掛かるのに、男達の腹を少しも満たすことのないこの腐塊にくが、何物なにに作り変えられるのか。




 その答えは単純明快、この場に居る誰もが知っている。




 この肉塊は、になるのだ。

 己の肉を腐りながらにして生かされ、虫共の生命力ちから攣縮しふるえながら大地を這いずる惨めな四肢てあしを欲す、鉄と布ひふで包まれて人を形どった卑しい鯨――儡鯨ライゲイ一肢あしに。


 男たちの仕事ぶりで跳ねる汚水と、池の住人である有象無象の虫達を全身に引っかぶりながらもそよぐ風が気持ち良くて、朝露と日の出の香り虫共が騒ぐ池のすえた香りを運んできてくれるこの快晴は仕事日和だ、と鵲は思った。








 池の仕事を見終えた鵲少年は、作業場にやってきた。

 彼は骨組ほねぐみと呼ばれる役の見習いである。


 彼の作業場は太い鉄骨が張り巡らされた空間、その中央には大橋脚型起重機ガントリー・クレーンである。下にある池に漬けてある肉を下げする際に使うものだ。


 丁度目の前で揚がったのは、虫の塊にくである。蚯蚓みみず飛蝗ばった沙蚕ごかいうなぎ菟葵いそぎんちゃくさめ羽織虫はおりむし――古今東西あちらこちらの細長い生物が犇き合っている魑魅魍魎ちみもうりょう集合体あつまりだ。

 正確には、虫共が中心の肉へ食らいついている。うねうねとみちみちと、空間全てに充填され、一見仲良くひしめきあっている。

 そんな有様であるから、からびた床に降ろされた際に重みで、下方の虫たちからぶちぶちと弾けるとても心地の良い音がするのも自明の理お決まりであった。弱い虫は、の周りですら淘汰される。

 腐肉の周囲は、自然界より厳しい弱肉強食だ。


「いい肉じゃの」


 鵲の後ろから声を掛けてきたのは、彼の胸にも満たない背丈の老婆だった。


ごう婆さん、おはようございます」

「おはようさん。今揚がったのは検分せんと使えん。今日はをやるが、もうひさごは始めている。来な」







酸漿かがちの繊虫は十匹でいい』はい』鵲が来てるよ、瓢』


 先ほどの肉から離れた鵲の目の前では、別塊の分けが行われていた。簡単に言えば肉周りの虫達から、余分あるいは弱い虫を間引いていく作業である。

 儡鯨の内臓や筋肉からだは虫で作られているのであれば、<はらわた>と表すのは的を射ている――しかしあの老婆の姿形はどうかしている、と鵲は思った。

 業の仕事は本来腑分けではなく、<経絡紡けいらくつむぎ>と呼ばれるものだ。


 腑分けは虫達を知らなければならない。

 経絡紡ぎは虫と鯨をいなければならない。


 しかし虫達を掻き分けに齧りつかれながら、仮初の信号経路神経系と血管系腐肉に張り巡らせるを生き返らせる任は、高温の蒸気と虫の分泌液に晒される為、行う人の皮がどろどろに溶け爛れる。

 目の前の老婆まさにそれだ。人の形ではあるが痘痕あばたが無い所は何処にもなく、何十年と痛み続けた髪は白髪を通り越しきらきらぬらぬら透き通っており潤みきっており、黒く弛んだひたいは目元を覆い今何方どちらを見ているかさえ彼には判別が付かなかった。


「鵲。遅いわ」

「ごめん。瓢」


 この老婆を直視し続けるのは敬っていても拷問に近い――と感じつつあった鵲に、虫達から這い出て来た人間が話しかけてくる。

 繊虫せんちゅう飼いの菫城きんじょう家跡取り娘であるひさごだ。今は腑分けの見習いで、黒っぽい茶髪と雀斑そばかすが可愛らしい、鵲と同齢の少女だ。


「業ばあ、そろそろ指にしてみない?」

「ふむ、良いだろう。紡ぎは動かしながらじゃな」







 無言で手順が進んでいく。鯨のを作っているのだ。

 試験用電算信号装置鯨の脳味噌を三人で肉の奥へと繋いでいく。電気信号めいれいによって、腐った鯨の七指を駆動させる集った虫たちを統御する。がちがちと音を立てる骨と、再び潰えていく機会を得た虫達が狂騒曲を奏でる。


 鵲は、瓢がどうにもたまらない。虫飼いの名家と、平民の自分がどうにかなるとは思わないが、からだが熱くなる。彼には虫達の糞や粘液で汚れた彼女のつんと高い鼻や柔らかそうな触れたことのない頬が、どうしても淫靡いんびに見えて仕方がないのだった。

 しかし業と瓢。この二人の間に本質的な違いが有るのかと考えてみると、特に無いことにも彼は気付いていた。


 見事な蠕動運動ゆびのうごきは、七本の指が何れも巨大な芋虫にしか見えないことを意味している。今のように何物にも包まれない裸の状態なら、あちらこちらから飛び出す腐肉から追い出された細い虫で毛虫のようにも見える。尤も、両者に大した違いは無かった。

 第六第二第七第三拇指が拳側に向けられて、わきわきと人よりも器用そうに動いた。


 瓢は家から反対されているものの、いつか腑分けを超え、経絡紡ぎに入門するだろう。そう、ある意味で老婆は、少女将来の姿みらいなのかもしれない――ここでふと鵲は、更に恐ろしい拒み難い妄執否定し難い仮説に突き当たった。


 細かい動作は、業の爛れきった指では不可能だ。だから業が指示を出し口を出し、瓢が装置を操作する脳味噌を動かす。その度に指がびたんびたんと過剰に反応し動き過ぎて、床やてのひらに叩きつけられ、涙を零した体液を飛び散らせた

 ――まるでこの上なく醜い老婆が、まだ肌に艶が有る少女を操るかのように。

 それは――己の肉が腐り果ててもなお蘇生よみがえりを諦めぬ獣が、はらわたを集め自らを儡鯨人の姿をした卑しい鯨へとでもあり――。


 後数ヶ月のうちに、四肢や胴、頭、他全ての部位が揃うだろう。骨組とは全作業の監督である。見習いとはいえ、筋道は大分わかってきた。

 だからこそ己の情熱や固執が、既に死んだはずの獣、いてはこの鯨に利用されているのではないか。鵲はそんな疑念を浮かべずにはいられなかった。

 だが自分は、この人型の鯨に関わることをやめられない――鵲にとってこれはどうにもならない真実だった。瓢もそうなのだろう。だから好きなのだ愛している

 

 たとえ自分や瓢が、死んだ獣虫の集る腐肉卑しい鯨儡鯨、或いは過去未来ほかのなにかに操られているとしても――不変の変わらない想いを彼は知っていた。




 ――――しかし鵲少年は、池の鯨儡鯨は知っていても、海の鯨くじらが何物かは知らなかった。



NEXT……177 - プリンセスかぐやは何のために戦うのか

https://kakuyomu.jp/works/1177354054885440692/episodes/1177354054885634449

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