117 - フランシスコ
修道院から聖母マリアの祈りが聞こえてきた。
日没後の6時なので、本来は「お告げの鐘」と言い習わされる晩鐘を鳴らさなくてはならないが、ここは住宅街のはずれ。朝、正午、夕刻の鐘の音も、急激に開発が進みすっかり普通の住宅地となった今では、周辺住民から騒音との苦情が相次ぎ、無期中断せざるを得なくなった。
実情は修道士や司祭の慢性的な人手不足で、一日三回高い鐘突き堂に昇る体力のある者が居なくなったため、これ幸いと近所との折り合いにこじつけて鐘突きをやめたのだ。
フランシスコ修道院にも、住み込みで神学校に通う神学生は居るが、貴重な若手と厚遇されている。
永らく必修だった聖歌伴奏のオルガンもラテン語も、最近は選択科目になってしまった。
「最近の教会はどんどん堕落している。アヴェマリアの祈りなんて変えおって。品格も何もないわ。祈りは天使祝詞に決まっておろう」
車椅子の上から年老いた無精ひげの老人がいきり立ってわめいている。
「フィリポさん、それ昭和じゃないですか。いい加減慣れて下さいよ」
老人をなだめるのは、これも年老いた修道院長・トマス北谷。
身体が動かず他人の世話を必要としても威張り散らし、ローマに派遣・バチカンで直々に学んだという誇りを捨てない、清貧と謙譲という修道院のモットーに最も遠い老司祭・フィリポ水原を憐れむような目で見ている。
「私なんかは聖母マリアの祈りという名で覚えましたよ。この文言を」
そのフィリポ脇でいやいや食事の世話をしている、中年のイグナチオ朝田修道士が祈りの一節を唱えだし、夜のスポーツニュースが流れる修道院の食堂は一瞬厳粛な雰囲気に包まれた。
だがすぐにテレビのプロ野球ニュースに司祭や修道士たちの興味は向いた。
またこれだよ。俗っ気を捨てきれない癖に司祭だっと言うだけで気取りやがる。
修道士は、司祭や司祭志願の若い神学生がやらないような汚れ仕事を一手に引き受けており、フィリポのトイレ介助や食事の介助、着替えも司祭たちの無言の圧力の前に引き受けざるを得なかった。
修道院は男の世界。たとえヘルパーであっても女は入れないのだ。
修道女が来てくれる場合もあるが、それでも肌に触れる身の回りの世話は男がする。
この修道院に唯一食事を作りに来てくれる近所に住む寡婦・ドミニカ澤井も入れるのは玄関から厨房までで、禁域である聖職者の日常ゾーン、食堂や居室までは入れない。
「そうそうフィリポさん、業者が新しい介護ロボットを連れてくるそうなんですよ。イグナチオさんも腰の調子が悪いようだし、使ってみて良さそうだったらあなたのお世話はそのロボットに任せようと思います」
「勝手に決めるな。なぜ教皇様にもお目通りしたわしが機械なんかに」
「フィリポさん、いい加減にしましょうよ。イグナチオさんにも我々にも負担が大きいんですよ。ヘルパーが入れない以上これは神がくれた絶好の機会と受け取るべきです」
毛ほども介護に手伝ったことのない司祭たちがうんうんと頷く。
神の好機と言われると頑固な老司祭フィリポも従わざるを得なかった。
翌日。介護メーカー勤務の信徒・パウロ佐倉が一体のロボットを持ってきた。
汎用型の介護機器という事だった。
メーカーの人間たちがあえて『ロボット』とは呼ばないのは、あくまでも指示に従うだけの介護機材なのだ。
だが修道院ではその介護機器を歓迎した。
なにしろ自分達がやりたくもない威張り腐った老神父の世話を始め日常の一切、修道院のオルガンまでデータ入力で演奏してくれるのだ。
修道院の皆は介護機器を「フランシスコ」と名付け生活を共にした。ただ一人、介護をされる当のフィリポ水原老神父以外は。
痴呆と体の麻痺で自力歩行もできないフィリポだったが、たまに大勢の信徒の前で主日ミサの司式をする時は別人のようにしゃんとしていた。
機械は祭壇の聖域には入れないので神学生が推す車椅子の上で背筋を伸ばし、信徒たちへの祝福も行った。
だがそんな機会も次第に少なくなり、彼は修道院の一番奥の一角に、他の聖職者と離され、食事も祈りもそこはかとなく自分の排泄物が匂う居室で済まさなければならなくなった。
そのうちに、彼は一人で寝返りもうてず、フランシスコの手を借りなければ何もできない体になってしまった。
体だけではない。口を開ける体力も無くなりつつある彼は、僅かな唇の動きを読んでくれるフランシスコでなければ、おむつを替えてほしいとか、喉が渇いたとか訴える事も出来なくなった。
ある日、修道院長と副院長が、やっとカトリック病院に空きが出来たから、もういい加減入院させ、喉に穴をあけ呼吸器をつける措置をした方がいいのでは、とフィリポの部屋の前でやりとりしていた。
既に地域の医師が交代で栄養剤と強心剤の点滴を行っていたが、それでは間に合わない程老神父の体は弱っていた。
「おいフランシスコ」
フィリポの唇が動き、フランシスコの精緻な機械の目が読み取った。いつも機械野郎呼ばわりの口の悪い神父にしては、気味が悪いほど丁寧だ。
「俺はもう十分に生きた。安らかに御父の身元に行きたい。何事にも時がある。今がその時だ。この点滴を止めて俺の命を絶て」
「いいえ、それはできません。できないようにプログラミングされています」
「だが君たちロボットは人の幸せのために働くのが役目だ」
「あなた達キリスト教徒が自分で死ねないように、私たちも人間の命を絶つ事は出来ません」
それはフランシスコが初めてフィリポに反抗した瞬間だった。
「なるほど。では言い換えよう。点滴の速度を上げてくれ。それならできるだろう」
間もなくして、老神父の心臓は止まった。
翌日、大雪の積もった日。修道院裏で、躯体部分がショートし黒焦げになった機械の塊が発見された。
フランシスコと呼ばれていたそのロボットは、大型家電ゴミとして扱われ、区役所に電話されたのち回収まで放置されることになった。
誰も「彼」を振り返る者はなかった。
辺りは何もかも雪に埋まっていた。晴れた雪原の中を、修道院の皆に背負われたフィリポ神父の棺桶が、粛々と運ばれていった。
アヴェマリアの歌を歌いながら。
NEXT……118 - 【悲報】元センターのA2-KOさん、卒業から3日で早速イケメン俳優にお持ち帰りwwwwwww
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