106 - 鳥籠の中の操り人形

――いつからだろう。感情が無くなっていたのは。いつからだろう。食事をしても味を感じなくなっていたのは。いつからだろう。記憶が曖昧になったのは。いつからだろう。雨の匂いがわからないのは。



思い起こせば、まだ小学生ぐらいの頃であろうか。生まれ育った家庭は決して恵まれた環境とは言えなかった。


建設会社で働く父は粗暴であり、毎晩酔って帰ってきては、虫の居所が悪いのか訳の分からないことをわめき散らしながら、母に暴力を振るう男であった。母も母で、夜の仕事を生業とし、職場でのストレスや父から受けた暴力によってたまった鬱憤を、娘の私達にぶつけるような女だった。


ただ、二人が決まって私達に言うことは勉強をしろということであった。勉強さえしておけば、苦労はしない、いい生活が送れると、自分達はそれ無視をしてきたであろうことを棚に上げ、親ぶって懇切丁寧に説教をしてくるのであった。


そのうち私達は、父や母のご機嫌を取るために勉強をするようになった。そこに自分の意思は無かった。ただ、良い点をとってそれを見せれば、その日は父も母も、末は博士か大臣かと私達を誉め称えながら、家族で仲良く食卓を囲めることを知っていたからだった。


しかし、小学5年の秋、母は突然消えた。待てど暮らせど、母は帰って来なかった。そのことを父にそれとなく聞けば、子供の出る幕ではないと言われ、今度は私達が暴力を振るわれるようになった。いま思えば、父に嫌気がさした母は他に男を作って出ていってしまったのであろう。


そんな父も、私達が中学に上がる前に消えた。残していったのは8桁に近い借金だけであり、違法なところからも借りていた。そのため、相続放棄もできず、里親を見つけることもできなかった。


その時からであろう。様々な私達の感覚(モノ)が無くなったのは。


中学を卒業するとすぐ、紹介された仕事を始めた。勉強は人並み以上に出来たため、中学の先生からは推薦の話も貰った。しかし、身請け人がそれを許してくれなかった。


学歴もない、親もいない女が出来る仕事など限られたものであった。自分の武器といえば16歳という若さだけなのだから。


8桁に近い借金は、3年で返し終わった。あっという間といえば聞こえは良いが、この3年間の記憶は殆ど無かった。人には忘れたい過去があるものだというけれども、覚えていない過去は忘れたい過去とはならないのだった。ただひとつ覚えていることといえば、最初の勤務日が来る前の夜、怖くて全く寝られなかったことだけだ。


借金を背負った理由からか、私達の境遇を不憫に思ってくれたのか、金融機関のおじさんは利息をまけてくれ、元金だけの返済で済ませてくれた。そうして仕事をはじめてからちょうど3年後、気付いたときには私達は自由の身になっていた。


そんなとき、新宿の歌舞伎町、ちょうどコマ劇場の前で彼と出会った。肩の辺りまで伸ばした黒髪のストレート、眼鏡の奥には切れ長で意思の強そうな目、そして細身で、明らかに夜の仕事の男であった。


そうした男のいなし方は、これまでの経験から心得ていたつもりであったが、その日は何故かついていってしまった。


たぶん彼の声が良かったからであろう。細身な身体からは想像できない程、低く太く、しかし優しい彼の声は、遠い昔の私達の記憶の片隅に眠っていた思い出、ちょうど小学生のときに良い点を取って報告したときの優しかった父の声に似ていた。


彼の発するどんな言葉も、うわべだけの優しさなのは頭ではわかっていた。ただ、私達の身の上話を、同調も否定もせず、微笑みながら聞いてくれるだけなのが良かった。


人の優しさや温もりに触れることが無く、荒涼とした砂漠同然だった私の人生に、彼の優しさは暖かな春風が吹き込んできたかのように思え、新芽が萌え出ずる感情を覚えさせた。たとえそれがうわべだけでも良いとおもえた。


彼に会うために、毎晩通った。覚えたての酒の味も、忘れてしまっていた様々なフルーツの味も、私達はいつしか感じ取れるようになっていた。


お金が足りないときでも彼が頼んでくれば、売り掛けで飲んだ。誕生祭のときには、リシャールをせがまれたので、彼のいうとおりに入れてやった。


なんでもかんでも「彼のため」という意味付けがなされた行為をすることによって、私達は自尊心を満たしていた。


彼を夜の男として支えるためにはお金が必要だった。だから辞めずに働いた。働いたらその足で店に行き、湯水のごとくお金を使うになっていった。帰り際、彼は毎回、ありがとうと声をかけてくれた。ただ、来る日も来る日も、働いているときの自分は鳥籠にいるように感じた。


自由は得たはずであったのに鳥籠から飛び立てない。いや、飛び立とうとしなかった。彼から求められていると思えば、たとえそれが内心ダメなことだと分かっていても、立ち止まって考えることなどしなかった。彼の幸せが私達の幸せと思っていたから。


彼に言われるがまま、お金を稼ぎ、店に通い、金を使う女。親が求める理想の子供像に近づき、ご機嫌を取るためにまるで操縦されているが如く勉強をしていた女。ただ、いつの時でも、そこに自分の意思は無かった。



操り人形(ロボット)。



そんな女が私達であった。



こんな風に思いめぐらすとき、目を閉じてもう一人の自分に話しかける。


――私達、間違ってないよね?

――大丈夫、辛いときはまた替わろう。代わりはいくらでも作れるから。



今日から彼に紹介された仕事に向かう。


早朝、茜色の空の歌舞伎町は雨の匂いがした。


NEXT……107 - 人魚姫へのプレゼント

https://kakuyomu.jp/works/1177354054885440692/episodes/1177354054885535633

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