【拾壱】 句会



  一  句会  ─ くかい ─

  二  古参  ─ こさん ─

  三  洗礼  ─ せんれい ─

  四  土産物  ─ みやげもの ─

  五  失態  ─ しったい ─

  六  度胸試し  ─ どきょうだめし ─

  七  遊山  ─ ゆさん ─

  八  人誑し  ─ ひとたらし ─

  九  弱味  ─ よわみ ─

  十  悪縁  ─ あくえん ─









🌸  一  句会  ─ くかい ─



 文長が「桃華とうか会」の者たちに会わせてくれると言うので、諭利は句会の会所となっている料亭「伊勢いせ屋」に向かった。


 文長は少し早めに来て、仕切り役の相模さがみ屋に礼を述べた。


「他でもない、白浜屋さんの頼みだ。

会がお開きになったあとで、皆さんには少しお時間をいただいているので、その諭利ヽヽという人には、別室で待っていてもらうといいですよ。」


 桃華会のなかでも父と親しい相模屋は、新参者の文長の面倒をみてくれていた。

諭利のことを話し、場を設けてのらえるように頼んでいた。


「お手数をかけます。

決してご迷惑はかけませんので。」


 上座に杉田屋が座り、右に三人、左に三人、左下の空いた席は文長の座だ。

顔合わせを頼んでいるだけで、桃華会の会員でない諭利の席は、当然用意されていない。


 桃華会──とは、俳句の会の名称である。月に二度、会合をひらく。

この土地で古くから商売をしている老舗の旦那たちの集まりで、この会の者たちの間で商いの方針などが決まっていくのだ。


 席順は店の大きさではなく年功序列である。

文長は最近店を継いで、この会にも名を連ねた。

歳も一番若く、新参者であり、発言権はないに等しい。


「お時間をいただき、ありがとうございます。」


 文長はうやうやしく頭をさげ、言葉を継いだ。


「この者は、私の昔馴染みで諭利といいます。

この国の生まれで、十年ほど諸国を旅しておりましたが、この度、この地に骨を埋める覚悟で帰郷したのでございます。

聞けば、商いを始めたいと申します。

それならば、まずは皆さま方にご挨拶をと、参上した次第でございます。」


 文長は横に視線を向け、諭利に合図をしてきた。


「お初にお目にかかります。

諭利といいます。

生れ育った土地に恩を返したいと思い、戻った次第でございます。

清い商いを心掛けていく所存でございます。どうぞ、よろしくお願いいたします。」


「ご大層な口を利くのだね。」


「近頃の若い者は、口ばかり達者なのだよね。」


「つい最近、但馬屋の息子と話しをしたのだが、あれはどうにもならないね。

修英院(大学)を出た自慢の息子だそうだが、口の利き方が成っちゃいない。

同輩と語るようにいきなり足を崩し、これからの商売は ああだこうだと一方的に話しをする。

学問を学ぶ者は、まずは一番に礼節を知るべきだ。

恥知らずが学問をすると、とんでもない勘違いができあがる。

己が富むことだけしか頭にない連中だ。

今の世の中、そんな若い者が増えてきている。

嘆かわしいかぎりだ。」


「そこにいくと、白浜屋さんは立派なものだ。

何不自由ない親元を離れなさって、余所の土地へ修行に出るとは、見上げた心掛けです。」


「有難う、御座います。」

 文長は神妙に応えた。褒められるのも、気苦労なことだ。

この連中は一筋縄ではいかない老獪ろうかいなのだ。







🌸  二  古参  ─ こさん ─



 誉め言葉は口先だけで、その言葉の裏には必ずなんらかの含みがある。

こいつらが俳句を詠むのは、そういった含みヽヽを上手いこと包み隠し、さり気なく他人に皮肉を言うための習練であろう、とさえ思える。


 但馬屋の紳介は、確かにイヤミな奴だが、語っていることには一理ある。

百年続いた老舗だからと横柄に構えていたのでは、この先の百年は続いてゆかない。

よその国の者が、新しい商売のやり方を持ち込んでくる。

そうした者と競うには、こちらも手を変え品を変え、対応する必要がある。


 紳介は、修英院に在学中に異国への留学経験があり、語学が堪能で経済や文化に精通している。

文長は、紳介と花街で何度か顔を合わせていた。

面白い事を考えている奴がいると聞いていたから、一度話しをしたいと思い、席を設けた。


 堅苦しい挨拶は抜きにしよう──と、文長が友好的に話を切り出したそばから、紳介は、なぜ今さらあんな古臭い句会に入る必要があるのだ──と文長を揶揄してきた。

桃華会は泥船だ──とも云った。


 たしかに古臭いが、桃華会の名はいまだ有効だ。

効き目があるうちは利用すべきだし、桃華会が存在する意味もあると文長は考えている。


 観光客の落としていく金を目当てに、この国で一儲けしてやろうという者が入ってくる。

そうした者は、短期間の汚い商売で荒稼ぎし、早々に自国へ帰ってしまう。

ご馳走を食い荒らし、食い散らかしたまま去る。

その後片づけをするのは、この国に長く住み、真面目に商売を営む者たちだ。

いわば自衛のために商いの組合がある。

行儀の悪いよそ者を排除するのも大事だ。

己の懐が潤いさえすればよいとだけ考える者に、この土地で商いをさせてはいけない、と文長は思う。


「商売には信用が大切だ。

信用というのは、積み重ねだ。

一朝一夕に得られるものではないのだよ。

根拠のない変な自信ばかりある者が、初めから大きな仕事を任せて欲しいと云ってくる。

実績もない、信用のない者に、誰が重要な仕事を任せるというのだ。


 但馬屋の馬鹿息子は、この国の商売の在り方変えるのだと豪語していたよ。」


 因幡屋は、忌々しげにそう話してから、思い出したようにこちらへ顔を向けた。


「諭利さん、と云ったね。

なんの商いをする気なのかね。」


「お茶を売るつもりです。」


「ならば、私と同業になるね。」


 美濃屋が、うっすら笑みを浮かべた。


「あなたは、『縁環』で演技をしていたそうだね。

なかなかの評判だったと聞いたよ。

なるほど、あなたは見栄えのするお姿をしている。

商いよりそちらの方が向いているのではないのかな。」


 と、香賀屋が云った。


「ああ、それなら私が紹介してあげられるよ。

だが、私は直接観たのではないし、つまらない芸では紹介した私が恥をかくから、ここでなにか、披露してみてはくれないだろうか。」


 と、越後屋が云った。


 文長は、胸の内で舌打ちした。







🌸  三  洗礼  ─ せんれい ─



 こいつらは、はなから諭利を迎え入れるつもりがない。昔馴染みといったが、文長が若い時分に一時期ツルんでいた悪仲間のひとりであると、この連中の耳には入っているだろう。諭利が、こういう扱いを受けるのは当然としても、紹介した自分も同等に嘲笑わらわれているようで、不愉快だ。

 文長は諭利を見て、小さく首を横に振った。そんな事はしなくていい、古狸どものちょっとした嫌がらせだから相手にすることはない、文長の目はそう伝えていた。

「芸で身を立てるつもりはございません。ですが、私の為人ひととなりをわかっていただく良い機会なので、唄を歌わせていただきます。」

 礼をして、諭利は立ち上がった。

ハアッと声を整え、歌いはじめた。


「春地地水迸りて渓澗暖やかに、泥幾頭を草根にふす。

牡丹花上露滴り、滴り尽くして花びら初めて閉ぢ、金風やんで雨やうやく収まり、枕頭の燭灯やうやく尽き、涙流れて乾き、珊瑚声ありて、夜さらに幽かなり。」

 [ 作者未詳「壇ノ浦夜合戦記」]


 杉田屋は諭利を見ていた。

文長が諭利を伴い、部屋へ入ってからこれまで、一言も口を開かず、まるで誰の姿も見えていないといった風情だったが、諭利が歌い始めてからは片時も目を離さずにいた。


 文長は杉田屋の様子をうかがっていた。

杉田屋は目を細め、眉根をよせていた。

その表情は、静かな憤りを内包しているように見受けられた。


 ──馬鹿な奴だ。


 詞は、この場に相応ふさわしからぬ内容だった。

商売をするには教養も必要だ。

字面の美しさだけで、詞の意味など理解もせずに歌ったのだろう。


 しかしまあ、歌声だけは褒めてもよい。

この連中も、内心では感じ入っている風である。


 だが、──杉田屋は、こんな得体の知れない男を気に入るはずがない。


 誰もがそう勘繰り、誰かが口を開くのを待っている。

皆が目で譲り合っているので、その場がしんと静まった。


 沈黙を破ったのは杉田屋だった。

無表情で、単調に手を叩いている。それに追従して、パラパラと乾いた音が響いた。


 文長は苦笑いし、ここが引き時だと思った。


「皆様、お時間にも限りがございますから、本日はご挨拶まで、ということで、さがらせていただきます。」


 文長はそう云って、諭利に目配せした。

その視線は鋭く、頬骨の辺りをチクリと刺すような気がした。

どうやら怒っているようだ。


「本日は、皆様にお会い出来、光栄でございました。お近づきの印に、わずかばかりの手土産を持参しております。

お帰りの際にどうぞお持ちになってください。


私は、これにて失礼いたします。」


 諭利は一同に礼をして座敷をさがった。

後について文長も一度その場を離れた。

廊下を曲がった所で、文長が云った。


「私なりに手を尽くしてみますが、期待はしないでくださいね。」


「そうですか。

私は、皆さんに気に入られなかったのですね。」


 問いに、文長は無言を返した。







🌸  四  土産物  ─ みやげもの ─



 文長の表情から察して、思わしくない状況のようだが、諭利としては手応えを感じていた。

諭利は歌いながら、真っすぐに杉田屋を見ていた。

杉田屋から目を離さずにいた。

杉田屋の瞳の中で歌っていたと云っていい。

そして通じたヽヽヽと確信をもった。


 しかし諭利は、ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いしますと文長に詫びた。


 諭利を帰してから、文長はそそくさと自分の席に座り直した。


「白浜屋さん、昔馴染みだそうだが、あの男になにか弱みでも握られているのかい。」


「いえ、そのようなことはありません。」


「酔狂だねえ。

なんであんな者を私たちに引き合わせようと思ったのだい。」


 文長は土壇場に座らされたような心地で、苦情を聞くしかなかった。

相模屋も、文長に対して不服そうな顔を向け、助け舟を出してくれそうもない。


「そうだ、土産を持参したと云っていたね。

どんなものか、見てみようじゃないか。」


 越後屋が云った。


 女中を呼び、持ち帰りにと用意していた品を座敷に運ばせた。


 一つ、包みを開けてみた。

桐箱の中には、酒の瓶が入っていた。

ふっくらとした白い陶磁に、金字で円を描いた双竜の文様があり、真ん中に「朱」と印が入っている。


「カグツチ。」


 と、呟いた香賀屋は驚きの表情をしている。


 カグツチ、と文長は呟いて、記憶を探った。

美濃屋が疑わしげに口を挟んだ。


「朱国の御神酒のですか。

めったに出回る事のない貴重なもの、──それを八つ。

偽物ではありませんか。」


「白浜屋さんは、ご存じないのですか。」


 相模屋が尋ねた。


「知りません。

あの者からは、ただ手土産とだけ。

中身については聞いておりません。」


 正直に、答えるしかなかった。

適当な誤魔化しをすれば、後で禍を招きかねない。

文長は、「諭利」を知らなさ過ぎた。


「わざわざそんな偽物を用意するでしょうか。」


「我々を、試しているのかもしれませんよ。」


「なんの為にですか。」


 不穏な空気が流れ始めた。

これ以上、面倒を背負い込むのは御免だ。


「開けて飲んでみましょう。

私はカグツチを味わったことがあるのです。」


 香賀屋は云い、杯を八つ用意させた。


 文長は、「カグツチ」という酒の存在を耳にしていたが、お目にかかるのは初めてだ。

本物、偽物、と議論する立場ではない。


 朱色の組み紐の封を切って栓を抜くと、なにかの花の香りが、むっと漂った。

八つの器に酒が注ぎ分けられ、銘々が杯を傾けた。

酒は、軽やかに喉元を転がって胃の腑に落ちた。

そして、かぐわしい香りが鼻に抜けたとたん、体の芯がカッと燃え、咽喉が火の道と化したようにヒリリとした。


「本物ですよ」


 と香賀屋が云った。


「間違いありません。

カグツチには、茉莉まりの花のような独特の香りがあるのです。

蜜の刃、そのひと雫で体が燃え上がる、これを一度味わったら、忘れるものではありません。」







🌸  五  失態  ─ しったい ─



 香賀屋は興奮ぎみに云った。

目には愉悦が表れていた。

貴重な酒を、二度も口にする機会を得たのだ。

香賀屋は続けて、朱国の御神酒に関する逸話を饒舌に語った。


 酒が入ったことで、一同は文長を問い詰めるのをやめていた。

口々に感想を述べ合いながら、和やかに酒を味わっていた。

文長も、ほろ酔い加減になっていた。

造り酒屋である香賀屋の、酒に纏わる蘊蓄うんちくを聞くと有り難みが増し、酒は一層旨く感じた。


「諭利、──といったね。」


 文長はハッとして、杉田屋を見た。

ここにきて初めて、杉田屋が文長に質問をしていた。


「あの男は、何処からこれを入手したのだろう。」


「存じません。」


 断言する文長に、因幡屋が怪訝な顔を向けた。


「知らないということがあるかい。

友人なら、見当くらいは付くだろう。

あの男が、どういった素姓の者かわかったうえで、私たちに紹介したのではないのかい。」


 文長は言葉を失った。

あいつの下調べを念入りにしておくべきだった。

「はつはな」に呼び出したとき、あんな小細工をせずに、あいつとじっくり話しをしていれば、このような失態を演じることはなかった。


「──邑重の所へ、船の依頼があったそうですよ」


 文長の次に若い坂井屋が口を利いた。

皆がいっせいに、そちらを向いた。


「依頼主の手紙を持って来た使いの男が、役者みたいな色男だったと言っていました。

あれは、何処かで邑重の嗜好を聞きつけた依頼主が、気を利かせて寄越した者だろう、とも言っていましたよ。


 その男、『ゆり』と名乗ったそうです。」


「依頼主は誰だね。」


「泰国の、清張という商人です。」


 そこで美濃屋が口を挟んだ。


「清張は、運送業を営んでいて、各国の主要な都市に店を置いています。

たしか、朱国の大社に多額の寄付をしていたはずです。」


「それで、諭利という男の店を足掛かりに、この国で商売を始めるつもりでしょうか。」


 越後屋が云った。

 文長の頭上を飛び越して、会話がなされている。

文長は蚊帳の外。面目は丸潰れだ。


 ──日吉め。


 文長は腹の内で憎々しげに呟いた。

馬鹿にしやがって、恩を仇で返す気か。

俺に何の恨みがあるのだ。

こちらが恨みこそすれ、お前に恨まれる筋合いはない。


 日吉を、昔馴染みだと紹介すべきでなかった──もとより、関わってはならない者だったのだ。


 あのヽヽ「滝壺の一件」を忘れるはずがない。

今でも、滝へ落ちる光景を夢に見る。

その度に、恐怖で身が縮み、目覚めると、ああ、夢であったか、と胸を撫でおろす。


 あれは、飛び降りていいギリギリの高さだった。

普段、奴らが飛ぶ位置よりも格段に高い場所だった。

奴らは馬鹿だから、水は衝撃を和らげると単純に考え、死にはしないと囃し立てていやがった。

だが、あの高さでは水も地も同様だ。

一つ違えれば、身体は熟れた柿みたいにグチャグチャだ。







🌸  六  度胸試し  ─ どきょうだめし ─



 度胸だめし、などではなく、自殺行為だ。

あの性悪狐は明らかに、それを知っていた。知ったうえで、「死の崖」へと続く洞穴に、俺を押し込んだのだ。

 滝の裏側から上へ登るための穴はいくつかあった。滝の裏側に入った経験のない俺は、どの穴がどこに通じているか知らなかった。あいつは平気な顔をして、俺に嘘を教えた。

 地表に出た俺は肝を冷やした。謀られた、──と気づいたときは遅かった。川からの風が崖を吹きあがり、グラリと体が傾いた。瞬時、我が身が滝壷へ落ちて行く幻が脳裏をかすめた。背筋が冷え、睾丸が縮みあがった。

 『あの時の恐怖に比べれば、これくらいは耐えられる』

 そう、自らに言い聞かせ、叔父の店での修行中、辛く惨めな奉公にも耐えたのだ。

 腹の底から、沸々と怒りが湧きあがっていた。怒り心頭の文長の耳に、旦那衆の会話は聞こえていなかった。

 あいつに仕返しをしたい、──自分が味わった恐怖を、あいつにも味あわせてやりたい。俯いたまま、文長は日吉への呪詛を巡らせていた。

「あの男の身辺を、よく調べてみる必要がありそうですよ。」

 一同は、神妙な面持ちで互いの顔を見交わした。不穏な空気のうちに、この日の句会はお開きとなった。

 帰り際、銘々が土産をもらい受けると、一人土産のない者がいた。当然のように、七つの酒瓶を配り終えると、空の瓶が一つ残るのだ。

 文長は、憮然とした表情で空瓶を箱に詰め、風呂敷に包んで持ち帰った。







🌸  七  遊山  ─ ゆさん ─



 数日して、文長は気分直しに西の町に行こうと思い立った。誉志乃よしのから、石楠花しゃくなげ祭りに連れて行って欲しい、と、せがまれていた。

 この数日、文長は休暇返上で忙しく立ち回っていた。豊国に送った海産物の一部が、いたんでていたと苦情を受け、対応に追われていたのだ。

 諭利と「はつはな」で会い、女中に嘘をつかせて別れたあと、半刻もしないうちに、本当に店から使いがやって来た。それが、苦情の知らせだったのだ。

 文長は、その日のうちに豊国行きの船に乗った。句会の前日に帰って来たので、諭利と、後日改めて会う機会をつくれなかった。考えるに、頭を悩ませる一連の出来事が、諭利と再会してから起きている。あいつが、不幸を呼び込んでいるように思えてならなかった。

 文長はひどく疲れていた。だから、無理にでも休暇を取るべきだと考えた。悪い運気を断ち切るために、仕事から離れようと考えた。

 ──誉志乃のわがままに付き合うのも良いだろう。

 山の斜面に咲く、薄赤色の石楠花をでながら、文長はゆったりと山道を歩いた。しがらみから離れ、こうして自然の中に在ると、真に心が洗われるようだった。

 まあ、誉志乃は、花よりも途中にある甘味処がお目当てのようだ。道の先に茶店を見つけたとたん、「さあ、早く」と文長の腕を取ってかした。

「急がずとも、菓子は逃げたりしないさ。」

 童女のような誉志乃に、文長は苦笑した。

 渓谷を眺められる位置に腰をおろし、店で一番人気の「みつ豆」を食べていると、川を隔てた向こう岸に、見知った人影が二つ、寄り添いながら流れて行くのを見た。

 文長は思わず腰をあげた。あわて、橋のたもとまで走って行った。橋の上より川を見おろすと、まさに船に乗り込もうとしているのは、杉田屋と諭利だった。

 間違いない。諭利が先に船に乗り、杉田屋に手を差しのべていた。段差でつまずかないようにと、気遣ってやっている。

 文長は我が目を疑った。いつもは仏頂面の杉田屋が、目尻をさげ、頬笑みを浮かべているのだ。

「まあ、青い顔をして、どうなさったの。」

 戻って来た文長を、誉志乃が心配そうに見あげた。

「なんでもないさ。」

 文長は平静を装ったが、二人の姿が頭にちらつき、それ以後は遊山どころでなくなった。







🌸  八  人誑し  ─ ひとたらし ─



 杉田屋と諭利が肩を並べて歩く姿は、あちらこちらで目撃された。

 『杉田屋の連れている、あの男は何者だろう』

 艶やかな黒髪の麗人の噂が、初夏の夜風に乗り、流れた。

 杉田屋は、あの句会のあと諭利と連絡を取り、二人きりで会ったのだ。桃華会の者には知らせず、個人的に諭利を呼び出していた。

 ──あいつは俺を無視した。

 杉田屋に会うのを諭利は事前に知らせなかった。桃華会の者たちに引き合わせたのは俺だ。会うなら会うと、報告をしておくものだろう。礼儀を知らぬ奴だ。恩ある者をないがしろにする態度は許し難い。

 一月ひとつきほど経ち、諭利を商いの組合に入れると達しがあった。組合には入れたことに対し、一言の礼もないのだから、呆れてものが言えぬ。

 思えば、あいつは昔から人をたらしこむのが得意だった。誰に取り入れば一番得か、その辺を嗅ぎわける能力に秀でていた。そして、何故だかあいつは「力」を持つ者に気に入られた。自身はなんの力も持たないくせに、力のある者の庇護を受ける。

 あいつの親父は旅芸人だそうだ。芸人は芸を売り体を売る。演技で人の目を惹きつけ、甘い言葉で惑わし、人を籠絡する手管に長けている。そうして、ねたり擦り寄ったりしながら、贔屓を離さない。

 お得意の下劣な手管で、杉田屋を籠絡したに違いない。乞食芸人の親父の血を受け継いで、仔猫みたいに足元に擦り寄り、図々しくも膝上にあがりこんだのだ。

 文長の脳裏に、杉田屋の膝に頬を乗せ、髪を撫でられている日吉の姿が浮かぶ。日吉は得意気に頬笑みながら、あざけるような視線をこちらへ向けてくる。

 腹の底から、ドス黒いものが込み上げてきた。

 ──あのジジイに、いいことヽヽヽヽをしてやったのか。

 枯れ井戸を掘り起こし、水を湧かせてやったのか、あのジジイの萎びた魔羅を、手の平で注連縄みたいに太くり合わせてやったのか、ジジイの腹のなかで熟成され、グダグダに濁った酒を、飲み干してやったのか、──日吉、この乞食芸人めが。

 杉田屋、──上品ぶって座ってやがる、あのジジイ、君子ヅラしくさって、日吉の顔をじっと睨んでいるから、怒っているものとばかり思ったが、内心はあいつに見蕩みとれていやがったんだ、あいつの歌声に、股ぐらの鈴を鳴らされていたのだ、乞食芸人なんぞに、簡単に籠絡されやがって、このモウロクジジイめ。

 ああいう取り澄ました野郎に限って、閨房では、女みたいなよがり声を捻り出してやがるのだ。







🌸  九  弱味  ─ よわみ ─



 『今までなびかなかったのは、おまえの気を引きたかったからだ』

 あいつはしおらしい顔をして、言葉巧みに近づいてきた。

 『市蔵は頼みにならない。しょせん、破落戸ごろつきは破落戸でしかない。いざというときに頼りになるのは、やはり身元の確かな、おまえのような者だ。』

 木陰で本を読んでいると、日吉がやって来た。文長の隣に座り、脈絡もなく股間を握り込んだ。文長ブンチョウが川に入らないのは、短小のナニを見られたくないだからだ、と仲間内で囁かれていた。日吉は事実を確かめておこうと思ったのだ。

 文長の陽物は、噂のようなお粗末な代物ではなかった。むしろ、他の奴らより大きいくらいだ。

 両手に本を開いたまま、唖然としている文長を尻目に、日吉は下帯の中にまで手を差し入れてきた。そして、日吉はしたり顔をした。陰囊フグリを探りながら、指に触れる異変に気づいたのだ。

 文長は目を白黒させた。まさに秘密ヽヽを握られていた。

「片玉野郎、──」顔を寄せ、日吉は耳元で囁いた。「って、云われちゃうよね。」

 文長は全身が総毛立った。フグリの中に二つあるはずの睾丸タマは、一つしかなかった。文長は、停留精巣だった。睾丸の片方は腹腔内に留まり、陰曩におりていない状態だった。

「わかってるよ、」訳知り顔で日吉は云った。「タマは一つでも、ちゃんと役目は果たせるんだってね。──だけど、他の奴らは違うよ。あいつらは人をからかう材料さえあればいいんだ。だから、決して知られてはならない。」

 蛇のように、日吉は目を輝かせた。

「大丈夫だよ、誰にも云ったりしない。二人だけの、秘密だよ。」

 一番知られてはならない者に、知られた。こいつヽヽヽこそ、なにを喋るかわかったものでないのだ。だから、文長は日吉の顔色をうかがい、ずっとビクビクしながら過ごしていたのだ。







🌸  十  悪縁  ─ あくえん ─



 人の性根はそう簡単に変わりはしない。優しげな外見になど騙されやしない。どんなに表面を取り繕っていても、俺は奴の性根を知っている。

 文長は、諭利と杉田屋と、ついでに桃華会の者たちを一人ずつあげつらって罵り倒してから、気を静めて墨を擦った。

 ──たかが乞食芸人。

 人に寄りかかって生きている輩ではないか。そうさ、その程度の奴なのさ。年老いて容色も衰えたなら、誰からも見向きもされなくなる。その時になってほどこしをしてやれば、あいつは平伏し、涙ながらに俺に感謝することだろう。昔語りにもあるではないか、結局は、地道に努力を重ね、自力で財を成した者こそが、最後に笑うのだ。

 文長は自らにそう言い聞かせ、気持ちを落ち着かせようとした。心に波風が立てば、またあいつに振り回されることになる。

 この土地で商売をするには、地元で十年以上商売をしている身元の確かな保証人が二人いる。一人は杉田屋、もう一人は白浜屋、両名とも桃華会の者。申し分のない保証人だった。

 達筆で、文長は己の名を署名した。

 ──これで憎いあいつと一蓮托生いちれんたくしょうだ。

 あいつが何か不始末をしでかしたら、一緒に責めを負う羽目になる。いや、替わって責めを負うことになりかねない。

 あいつにしても、味方が必要なはずだ。突き放すより、味方のふりをして側で監視している方が得策だ。

 文長は皮肉げに口の端をあげた。

 ──これが悪縁というヤツだ、悪縁は絶ちがたい。









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櫻の国【月光】 諭利・帰郷 アマリ @10-amari-1

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